三十二、舞台
「アイツが、どうしてここに……」
僕の目線ほどの高さに組まれた、硬く冷たい石造りの舞台。
緩やかな階段を昇ったその先で、鞭打ちという過酷な罰を受けているのは、昼間取り逃がしたスリのガキだった。
「何だよ、アイツまたやったのか……?」
ネックレスを奪い返されて少しは懲りたかと思ったのに、また別の相手を狙ったのだろうか。それをあの兵士たちに見咎められて……。
――いや、そうじゃない。
ヤツらの下卑た顔つきを見れば、この行為が単なる憂さ晴らしだってことは一目瞭然。
それに、聖都オリエンスは『罪人を許す街』。
国の宝ともいえる精霊術師を売りさばこうとした奴隷商人でさえ、紳士的に連れて行かれたんだ。こんな風に一般人の前で暴力が振るわれるなんてありえない。
いったい街の警備兵は何をやってるんだ……と不審に思いつつ周囲を見渡すと、広場のシンボルである物見やぐらのてっぺんに『百合の花の紋章』が刻まれているのが視えた。
つまり、この広場を守るべき人物は、神殿から派遣された非正規の兵士たちで――
「ほら、もういっちょ!」
「グゥ……ッ」
僕の目の前で、再び振り下ろされた細い鞭。飛び散る血しぶき。苦しげなうめき声。
赤黒く染まった鞭は、あたかも鎌首をもたげる毒蛇のようだ。獲物を徹底的にいたぶり、あえて苦しみを長引かせながら命を奪う、どんな武器よりも卑劣な道具。
「クソッ、いったい何なんだよ、コレは……ッ」
ぐわり、と激しい怒りが湧き上がる。
今すぐ壇上へ飛び出して、あの毒蛇を叩き切る……その衝動を、なけなしの理性が必死で押しとどめる。
――下手に動いて事態を悪化させたらマズイ。まずは情報収集だ。
ヒリつくような焦燥感に苛まれながらも、僕は周りの声を拾い集めた。彼らは「可哀想に」とか「やりすぎだ」と口々に呟くものの、誰ひとりとして行動を起こさない。
その理由は――
「しかし、神殿の“番犬”に捕まるなんて、あのガキもついてないな」
「あの子が金貨を盗んだって言ってるが、本当かね?」
「まさか。治癒術師でもあるまいし、そんな給金がでるわけないだろ」
「でも神殿が『黒』と言えば何でも黒になっちまう、そういう時代だからなぁ」
苦しげに眉を寄せながらも、人々は凄惨な光景から目を逸らそうとはしなかった。むしろ記憶に焼きつけようと貪欲に見つめていた。万が一にも自分が同じ目にあわないように。
……これは、華やかな街の暗部。
昼間もそうだった。お姉さんがネックレスを奪われたところで、誰も手を差し伸べなかった。「可哀想に」という顔で眺めるだけ。
「……そうだよな、ニンゲンってそういう生き物だよな」
優しい人たちもいるってことは分かってる。彼らだって一人一人を見れば別に悪者じゃないんだろう。
だけど、無実の罪で殺されかけている子どもを前にして、ただ見ているだけなんて……安全なポジションから眺めているだけなんて、それじゃ加害者と変わらない。
――誰も動かないなら、僕がやる。
苦しんでいる子どもたちがいることも、神殿のヤツらが増長してるってことも、僕は知っていた。ただ僕ごときにはどうしようもないと諦めて、スルーしようとしていた。
でもやっぱり無理だ。
こんなにも残酷な光景を目の前で見せつけられて、黙っていられるわけがない。
この街の人々が、ニンゲンとしての矜持を捨てるなら……魔物と同じように“力”が全てだというのなら――
「くだらないこと全部、僕がまとめてぶっ潰してやる……!」
燃え上がる炎のような怒りは、冷酷な決意に変わった。僕はローブの中に隠した麗蛇丸に手をかける。
まずはあの『鞭』を斬る。そしてあの子の手錠を砕く。ヤツらが抵抗しようものなら殴りつけて意識を失わせる。
その姿が人目に晒されようがどうでもいい。いっそ力を見せつけてやればいい。
神殿に関わる全ての人を敵に回したって構わない……。
覚悟を決めて、一歩前へ踏み出したとき。
「ちくしょう……どうすりゃいいんだよ……このままじゃアイツ、死んじまう……ッ」
冷めきった空気の中に、たった一つだけ熱を持つ声が流れてきた。
その声に含まれる本気の焦りが――相手の身をひたすらに案じる想いが、単なる正義感だけで突っ走ろうとした僕の頭に冷水を浴びせかけた。
……やっぱりここで暴れるのは得策じゃない。下手をすれば怪我人のあの子を連れてこの街を出なきゃいけなくなる。もっと利口に立ち回るべきだ。
失いかけていた理性を取り戻すと同時、脳みそが一気に動き出す。
千人の目から己の姿を隠しつつ、この窮地を脱するベストな方法は……。
「まずは時間稼ぎだな」
僕は荷袋に詰まっているクルミを一粒取り出し、指先で軽く弾いた。その軌道を確認することもせず踵を返し、もう一度人混みをかきわけて舞台前から脱出。
「……おい、今コイツを投げたのは誰だ! 出てこいッ!」
激高した兵士の怒鳴り声。
ヤツがターゲットを観衆へと向けたことは、それだけで分かった。高みの見物と決め込んでいた人々が一斉にざわめきだす。
僕は気配を殺しながら、ステージを見下ろせる物見やぐらへ。
丸太を組んで造られた、高さ十メートル近くあるやぐらの階段の途中に、痩せっぽちな子どもがいた。
手すりへ身体を押しつけて前のめりになり、薄闇の中で悔しげに爪を噛むその子は、身ぎれいとは言い難い十歳くらいの男の子だ。
鞭打たれている子の身内なんだろう。二人とも肩口まで伸ばしたレンガ色の髪を、櫛で梳かすこともせず放置している。貧しい移民の子――親の居ない子だと一目で分かる。
僕は十段飛ばしで階段を上り、少年の背後へ立った。
「お前、あの子の仲間か?」
「――ッ?」
音もなく忍び寄ってきた僕を見て、少年はヒュッと息を呑んだ。そしてすぐさま僕の手にした紙袋を見つける。単なる金持ちの観光客と見なし、ぷいと横を向く。
「なあ、答えろよ」
「……ヨソモノには関係ない」
「まあそう言うなって。今からあの子を助けてやろうと思ってるんだ。協力してくれよ」
「えっ」
「お前、逃げ足は速い方か? スリとかやってんなら速いよな?」
「ッ、バカにすんな、オレは“冒険者”だ!」
そばかすの散った頬をカーッと赤らめた少年が、首にかけた革ひもを引っ張って僕に見せつけてきた。
暗く澱んだ赤色は、立派なEランクの証。僕はよしよしと頷いてみせる。
「では“冒険者殿”に正式な依頼をしよう。あの子の奪還に協力してくれ。報酬は弾む」
「報酬なんていらねぇよ! それで、どうすればいいッ? アイツを助けてくれるなら何でもする! アイツはオレの大事な弟分なんだ!」
ちっぽけな身体にそぐわない、大きな瞳をギラつかせながら少年が食いついてくる。僕は再び視線を舞台へと戻した。
クルミをぶつけてやった兵士の手から鞭は消えていた。代わりに殺傷能力の高い長剣が握られている。背後にずらりと並んだ六人の兵士たちも同様だ。
「――おい、答えろ! 貴様がやったのかッ? それとも貴様か!」
魔物よりも醜い怒声を放ちながら、兵士は最前列にいた野次馬に次々と剣を突き付ける。
当然彼らは「濡れ衣だ!」と叫び後ずさるものの、頭に血が上った兵士は聞く耳を持たない。
そんな兵士に向けられる観衆の眼差しは……あからさまな侮蔑。
剣が届かないポジションにいる大多数の人々は、クツクツと冷たい嘲笑を漏らす。クルミをぶつけられたヤツの額に、見事なたんこぶができているのを指差して。「ざまあみろ」とか「天罰だ」なんて声も聴こえる。
結局、彼らは高みの見物をしたいだけ。
今はクルミを投げつけた『勇者』に喝采を送っているものの、兵士が本気で斬りかかれば――自分自身が舞台に立たされるかもしれないとなれば、蜘蛛の子を散らすように逃げるんだろう。
一人一人の顔が視えない観衆たちは、大きな流れに逆らわない小魚の群れのようだ。
だとしたら、僕が『流れ』を作ってやろう。
「では作戦を伝える。キミには“おとり”をやって欲しい。僕は隙を見てあの子を攫っていくから、一旦バラバラに逃げて南門で待ち合わせよう。誰にも見つからないように、門の東側にあるデカイ楡の木の影に来てくれ。いいか、僕が下に降りて合図をしたら――」
指示を受けた少年が、力強く頷く。
そうして『底辺冒険者タッグ』による、舞台の第二部が幕を開けた。
◆
「――ああっ、ボクがご主人様に頼まれた『テラ・メエリタ』の焼き菓子がッ!」
突然、物見やぐらの上から大きな悲鳴が上がった。フードの付いたローブを身にまとった小柄な少年が、穴のあいた大きな紙袋をぶんぶんと振り回している。
それはとある貴族に雇われた小間使いの少年。買い物を済ませたら真っ直ぐ帰れというご主人様のいいつけを破り、この騒動の野次馬に加わった。
しかしせっかくの舞台は、背の高い大人に阻まれてよく見えない……だからやぐらへ上ったのだが、その際に紙袋を破いてしまったらしい。
「どうしよう、お菓子はちゃんと小袋に入っているけれど、一度地面に落としたものなんてご主人様は食べてくれないよ! 『テラ・メエリタ』へ買い直しに行かなくちゃ!」
若干演技がかった口調でそう叫ぶや、少年は軽い身のこなしでやぐらをするりと降り、風のように走り去った。
残された約千人の観衆は――
「『テラ・メエリタ』の焼き菓子ッ?」
「そりゃ銀貨一枚もするお宝だぞ!」
「コイツは早いモンがちだ!」
クルミをぶつけられた兵士による喜劇は終わった。始まったのは多数の観客によるお宝争奪戦。
自分たちに集中していた視線が一瞬で消え去るとは思いもよらなかったのだろう。呆気にとられた兵士たちは、だらりと剣を下げて立ちつくす。
その真横から、何の前触れもなく七つの弾丸が放たれた。
硬いクルミの弾は全て男たちのこめかみに命中。鈍いうめき声も、どさりと舞台に倒れ伏す音も、全てが熱狂する市民たちの声にかき消されてしまう。
そして舞台袖から現れた一人の黒子は、第一幕の主人公を軽々と抱き上げ、そのまま薄闇の中へ消え去った。




