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一、彷徨

「はい、ユウ君。これ春休み中に読んで、感想文提出ね!」

 それは高校の合格が決まった翌日のこと。

 長い受験生活からようやく解放され、部屋でのんびりくつろいでいた僕の目の前にドサッと積み上げられたのは、いわゆる『ライトノベル』だった。タイトルが長ったらしく、勇者やら魔王やらといった単語が使われたものが合計三十冊。

 チラリ、とそれを持ち込んだ人物――陽花を横目に見やる。

 肩口で切り揃えられた清楚な黒髪に、ビー玉みたいな丸い瞳。やたら丈の短いピンクのニットワンピース。

 すらりとした生脚を惜しげもなくさらけ出した陽花は、太陽のように明るい笑みを浮かべて。

「これ全部“異世界召喚モノ”なの。ユウ君のために、我が家のコレクションから厳選してみました!」

「……は?」

「だってユウ君、こういう本あんまり読まないじゃない? なんか小難しいブンガクばっかりで。だから、いざってとき役に立つと思って」

「……はぁ」

「残念ながら、ユウ君は“勇者”なアタシの巻き添えになって異世界に召喚される運命なの。そのときの心構えっていうか、バイブル的な?」

「……ゴメン、全く意味分かんない」

「それともユウ君がへっぽこ勇者で、巻き込まれたアタシが最強の従者かなぁ……うん、そうかも。だってユウ君のユウは勇者のユウだしね!」

「違うから。僕の名前は“優”だから」

 ……なんて馬鹿げた会話をしたのが、約一ヶ月前。

 いきなり突拍子もないことを言い出す陽花には、子どもの頃からずっと振り回されっぱなしだった。おかげで僕は軟弱な都会っ子ながら、ある程度メンタルが鍛えられたと思う。

 例の無茶ぶり――ライトノベル三十冊読破だってきっちりこなして、立派な感想文レポートを提出してやったんだ。

 全くメンドクサイことをさせやがって……と、その時は思っていたけれど。

「まさか本当に、“いざってとき”が来るなんてなぁ」

 ハハッ、と乾いた笑い声が漏れる。その声に応えてくれる風はさっきよりも少し冷たい。

 オレンジの空は急速に色を失いつつあった。

 太陽の代わりに存在感を増した白い三日月が、僕の影を淡く照らしだす。その影を踏みしめながら歩く。

 ――“異世界”において、夜は危険だ。

 今は快適なこの気温も、この先グッと下がるかもしれない。何より獣やら夜盗やら、どんなトラップが待ち受けているか分からない。

 さっき聴こえた獣の鳴き声は、現時点で認識できた唯一の外敵。だから灰色の山を背にして真っ直ぐ進む。

 歩きながらも頭は動かし続ける。この世界の常識ルールを少しずつ集めていく。知っている星座がないか探したり、生えている植物の種類をチェックしたり。

 不思議なことに、動物の気配は一切感じない。これだけ草が生えていれば、虫の一匹くらい見つけてもおかしくないはずなのに。

 静寂に包まれるこの草原は――まるで死の世界だ。

 もしかしたら僕はとっくに死んでいて、ここは『天国』なのかも……と考えかけたとき、タイミング良く腹の虫がきゅるっと鳴いた。

「やっぱり僕は生きてるよなぁ……ってことは、ここは夢か異世界か、もしくは“ゲーム”の世界に飛ばされた、とか?」

 ゲームの世界であれば、脱出方法は簡単だ。ゲームオーバーになればいい。

 つまり、死ねばいい。

「……なんて、口で言うのは簡単だけどさ」

 そう簡単に人は死ねない、と僕は思う。

 ただの靴ずれや、草の葉で指を切っただけでこんなに痛いんだ。本当に死ぬとしても、楽に逝けるわけがない。

 だったら、生き延びて脱出方法を探す方がマシだ。

「とりあえず、人と会わなきゃな……村人とか、冒険者とか」

 と、当面の目標を立ててはみたものの、言いようのない不安が募っていく。

 物語フィクションであれば、この世界へ召喚した神様やら魔術師あたりが現れて、“勇者”のやるべきことを指示してくるのがテンプレート。もしくは賊に襲われているお姫様を助けるとか、何かしらのイベントが発生するはず。

 でも、ここには誰もいない。

 見渡す限り草ばかりで、食べ物も水場もない。そのうえ恐ろしい獣がいる。かなり過酷というか、人間が生きていける環境じゃない。

 このままじゃ僕も行き倒れで餓死。もしくはあの巨大な鳥に食われてゲームオーバー。

「ヤバイ……マジで洒落になんない」

 強烈な生存本能に突き動かされ、僕は黙々と歩き続ける。夜が明けるとホッとして、草の上に倒れこむ。

 そのまま死んだように眠り、夕暮れの柔らかな光に揺り起こされる。

 携帯をチェックし、時間の流れが地球とほぼ変わらないことを確認。充電を少しでも長持ちさせるべく電源を落としておく。

 ブレザーの胸ポケットに入っていた飴玉――陽花の機嫌を取るために常備していたものを一粒口に放り込み、再び月明かりの下を歩き出す。

 飴玉の数は十個。

 朝晩一粒ずつを舐め、あとは苦い草の汁を啜って胃袋を宥めながら、ひたすら歩き続けた結果……気付けば飴玉は無くなっていた。

 人が飲まず食わずで生きられるのは、せいぜい三日ほどだという。僕の身体はとっくに限界を超えていた。

 それでも無心で歩き続けていると。

「なんだ、コレ……霧、か……?」

 草原の終わりは、唐突に訪れた。

 目の前に立ちふさがったのは、空を貫くほどに高い水の壁。一寸先も視えないほどの濃霧だ。

 しっとりと肌にまとわりつくような冷気が、今の僕には心地よかった。少しでも喉を潤そうと大きく息を吸い込み、霧の世界フィールドへ一歩踏み出す。

 すっかり履き慣れたスニーカーの靴底が、ジャリッという土の感触を伝えてくる。

 ――大丈夫、僕はまだ生きてる。ちゃんと前へ進んでいる。

 だからもうすぐだ。もうすぐこの苦しみは終わる……。

 呟いたはずの声は、ひゅうひゅうという掠れた音にしかならなかった。

 僕は霧の中を幽霊みたいに彷徨った。

 月明かりも届かないモノクロームの世界はどこか幻想的で、僕の足取りはふわふわとした覚束ないものになる。冷えていく身体からは感覚が失われ、しだいに生存本能も麻痺していく。

 いつしか脳みそは完全に機能停止し、ここがいったいどこなのか、自分が生きているのか死んでいるのかすら分からないくらい意識朦朧としたとき。

「――ッ」

 突然、僕は大きな石に躓いた。

 受け身を取ることすらできず、地面へ打ちつけた肩に激痛が走る。

 痛みのおかげで、一瞬だけ意識が戻る。

 視界に映ったのは夜明けの太陽だった。遠い山の稜線を浮かび上がらせながら、光はゆっくりと輝きを増し、ボロ雑巾のような僕の身体を照らし出す。

 ずっと目印にしていた大樹は、霧の壁の向こうへ消え去っていた。吹き込んだつむじ風が乾いた大地を舐め、黄土色の砂塵を巻き上げる。

 そして、砂が舞い降りた先には――

「……街……?」

 バッと跳ね起き、両目をごしごしと擦る。

 僕が躓いたモノは石じゃなかった。人の手で生み出されたと一目で分かる、鎖のついた鉄球だ。その先には低い石垣があり、大きな建物や高い塔も見える。

 幻なんかじゃない、あれは本物の街だ!

 崩れた石垣の瓦礫を乗り越え、僕は無我夢中で走り出した。

「――誰か、誰かいませんか……ッ」

 風音に抗い、掠れる声を張り上げながら、朽ち果てた家屋のドアを叩く。割れたガラス窓の中を覗きこむ。

 そこは古くとも美しい都会的な街並みだった。重厚な石造りの建物が整然と立ち並ぶ様は、中世から近世あたりのヨーロッパを思わせる。

 街のシンボルとなるのは、高さ十メートルほどある物見の塔。放射線状に石畳が敷かれた大通りの脇には街路樹が植えられ、中央には住民が憩うための円形の広場がある。

 移動手段は馬車らしい。厩舎の屋根に掲げられた看板には、ミミズがのたくったような文字とともに、馬を象ったマークが描かれている。

 きっと最盛期には、数千人を超える人々が暮らしていたんだろう。

 しかしそこは……とうの昔に捨てられた街だった。

 半ば砂に埋もれた、生命の気配が全く感じられない、死の街。

 砂にまみれながら一日中這いずりまわったものの、結局得るものはなかった。残りわずかな体力を失っただけ。

 街外れに佇む廃墟――太い円柱と石碑だけが残る神殿の前にへたり込み、僕はぼんやりと空を見上げた。

 もう見慣れてしまったオレンジの空。

 あの空に月が昇る頃、僕は死ぬ。そう確信した。

「いやだ……死にたくない……」

 水気を失い枯れ枝のように細くなった指が、最後の残りカスみたいな力でのろのろと動き、ブレザーのポケットをまさぐる。

 もう一度だけ電話をかけてみよう。もし圏外でも、家族の写真を見たい……そう思ったのに。

「え……?」

 指先に触れたのは、冷たいシリコンカバーとは違う、みずみずしい生命の感触だった。

 ポケットからコロンと転がり出たそれを摘みあげ、まじまじと見つめる。

 血のように鮮やかな深紅の実。

 あの時、確かに僕はこの実を拾い上げて……その後の記憶が無い。無意識にポケットへ入れていたんだろうか?

 それにしても、今まで気づかなかったのはおかしい……。

 と、分析しようとした脳みそは、強烈な目眩により強制停止。どうやら僕の身体もそろそろ電池切れのようだ。

「……まあ、いいや」

 これはきっと神様が授けてくれたものなんだろう。そう信じよう。もう選択肢はこれしかない。

 僕は迷うことなく、その実を口の中へ押し込んだ。

 カプリ。

 奥歯で噛み砕くと同時、どろりとした液体が舌の上に溢れ出て――“世界”は色を変えた。

「――ク……ッ!」

 僕を包み込んだのは、眩いばかりの光。

 冷たく青い月の中に、魂ごと閉じ込められたかのようだった。光はボロボロの衣服をたやすく貫き、朽ちかけた身体の隅々へと染みわたっていく。あまりの眩しさにギュッと目をつむる。

 ――僕は、たぶん禁忌を犯した。

 禁断の果実を食べた人間には、神罰が下されるのが物語のセオリー。このまま僕は得体の知れない化け物に変わってしまうんだと思った。昔見たアニメのように、巨大で凶暴なモンスターになるんだと。

 恐ろしさに震えながら、僕は暴力的なまでに激しい“光”の攻撃に耐える。心臓はバクバクと激しく脈打ち、全身に熱い血潮が駆け巡る。

 ……それから、どのくらいの時間が経ったんだろう?

 鼓動が落ち着いた後、僕はそっと瞼を持ち上げた。

 目の前に広がるのは何も変わらない光景だった。砂に煙る廃墟の街と、輝きを増した太陽の光。

 さっきの冷たい光とは違う、優しく温かみのある輝きに、思わず目を細める。

 ゆっくりと立ち上がり、両手を強く握りしめる。

 老人のようにしわがれていた手は、ふっくらとした弾力を取り戻していた。当然、猿にもなっていない。握りこぶしから伝わる力も人間のまま。

 それでも、充分過ぎるほどの“奇跡”だった。

 喉の渇きも空腹も疲れも全部消えている。転んだときに痛めたはずの肩も治っている。指先の切り傷も、靴ずれも。

 まるで夢みたいだけど、夢じゃない。傷ついた部分には、その証拠となる傷痕がしっかり残っている。

 身体の無事を確認すると、フリーズしていた脳みそがようやく動き出した。

「この実は、HPヒットポイントを全快させるポーション的なアイテム……? いや、ポーションなんていうと安っぽいな。かなりのレアアイテムだろうし“神様の実”とでも呼ぶべきか……って、あれ……?」

 変わらないはずの風景の中に、僕は小さな違和感を覚えた。カメラのオートフォーカスみたいに、視線がすうっとそこへ集中する。

 それは神殿の傍らに置かれた、高さ一メートルにも満たない漆黒の石碑。

 上部に彫り込まれた百合の花の紋章は、たぶん国か神殿のシンボルマークだろう。シンメトリーなデザインは美しく、小さくとも確かな存在感を放っている。

 僕はよろめきながら、その石碑に近づいた。

 ひび割れ苔むした石碑の表面に刻まれている、ミミズがのたくったような痕が、なぜか意味の通じる文字に視えた。


『名もなき乙女の魂――罪人の街・オリエンスに眠る』

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