十四、名前
「絵本読む子を寝かせつけ
温もり満ちて広まる詩
触れない嘘の思い出
葉音やわらぎ夢去った……」
遠くから、子守唄が聴こえる。
まるで弦楽器を奏でるような音色の声は、ゆりかごみたいに優しく、僕を心地良いまどろみへと誘う。
穏やかな眠りの中で、僕は思った。
……そうだ、僕はとても疲れていたんだ。
恐ろしい魔物と戦ったり、人と出会って喜んだり、訳が分からないまま無我夢中で突っ走ってきたけれど……本当はこうしてゆっくりと眠りたかった。
ただ、いつまでも眠ってはいられない。
僕にはまだやらなきゃいけないことがあるから――
「……ん……眩し……」
冷たい月明かりがほのかな熱を帯び、横たわった僕の身体をそっと揺り起こす。寝ぼけた頭がのろのろと動きだし、それを朝日だと認識する。
と同時、空から鈴が鳴るような声が降ってきた。
「あ、起きたのね。体調はどう?」
「うん、だいじょぶ……」
半ば夢心地のまま答え、僕は柔らかくて温かい枕にしがみついた。もう少し眠っていたかったのに、残念ながらそれは無理っぽい。枕に対してベッドの方は異常に硬く、腰の骨がズキズキと痛む。
その痛みが僕を現実へと引き戻す。
目を開けると、そこには滑らかな白い布に包まれた物体があった。
つるんとした上質な布は見覚えのあるものだ。芸術的なまでに美しいおみ足を隠してくれる、ありがたい布。
……あ、ヤバイ。なんか嫌な予感がする。
恐る恐る首の角度をずらしてみると……そこには“天使”がいた。
ぱっちりとしたエメラルドの瞳が、光を受けてキラキラと輝いている。澄み切ったそよ風が、豊かな緑の髪をくぐりぬけていく。
精霊がいる――視えないけれど僕はそう感じた。
光と風の精霊にじゃれつかれた彼女は、少しくすぐったそうに肩をすくめた。それから細い指先を伸ばして、僕の前髪をさらりと撫でて。
「おはよう。もう朝よ」
可憐な唇がうっすらと開かれ、クスッという軽やかな笑い声が零れて――ようやく脳みそが覚醒する。
「あ、あの、僕……」
……どうしてこうなった――!
心の中で絶叫しつつ、僕はガバッと跳ね起きた。そのまま全力で後方へ飛び退く。
弾丸のようにすっ飛んだ身体は城壁の縁に激突。危うく下へ転げ落ちそうになる。
「……ッ、やばい、超マヌケな死に方するとこだった……」
「ふふっ、貴方、夜にも同じことを言ってたわ」
愉しそうに笑いながら、彼女はスッと立ち上がった。
硬い石の上で正座して、しかも僕の頭を長時間乗せ続けていたというのに、足がしびれた様子はない。やはり彼女の脚力はそうとうなレベル……。
なんて、のん気に分析してる場合じゃない!
霞みがかった記憶を探るに――昨夜、僕は寝落ちしていた。
彼女の探し物が“僕”だってことに気づいた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が一気に緩んだ。「すわ邪竜との再戦か!」と気負っていた心がポッキリ折れて、生温い監視業務に耐えられなくなってしまった。
それでもしばらくは地面のあたりを見ていたけれど、そのうち満員電車のサラリーマンみたいにゆらゆらし始めて、隣へ座る彼女の肩にもたれかかって、ずるずるとずり落ちてさっきのポジションに……。
「――ゴメン、本当にゴメン!」
僕は全力で謝った。
考えてみれば、僕は最低なことをしでかした。一緒に魔物を探すって約束したのにあっさり裏切った。
恐ろしい“魔物”の正体を知っているのは僕の方だけ。勝手に安心してしまった僕と違って、彼女は一晩中ずっとあの緊張を維持してきたんだ……。
こんなことなら真実を告げてしまえば良かった。僕のちっぽけな虚栄心のせいで、彼女に余計な負担をかけてしまった。
しゅんと縮こまる僕に、彼女は小さく首を振って。
「いいのよ、気にしないで。貴方が傍にいてくれただけで嬉しかったわ。私に近づける人は限られているから……」
少し寂しげな眼差しに、僕の心がツキンと痛む。
多くを語らずとも、その一言から彼女をとりまく複雑な事情が垣間見えた。
――彼女はこの国にとってものすごく重要な人物。万が一穢されたりしないよう神殿の奥深くに匿われている、お姫様みたいな存在。
今夜は精霊の“予言”に導かれて運良く出会えたけれど、本来なら僕ごときが親しく話したり、ましてや膝枕なんてしてもらうような相手じゃない……。
「さて、そろそろ私は帰らなきゃ。貴方はどうするの?」
「あっ、そうだ! 僕も北門に戻らないと」
「じゃあここでお別れね。昨日は付き合ってくれてありがとう」
そう告げると同時、彼女はよりいっそう眩い光に包まれた。
朝日を背に受け、光の精霊にまとわりつかれた彼女の身体が輪郭を失う。そして、翼が生えたようにふわりと浮かび上がる。
重力に縛られたままの僕とは違う。長いらせん階段なんて登らなくても、彼女は空を飛んでここへ来られるんだ……。
住む世界が違うってことは、充分過ぎるほど分かってる。その羽衣を奪って縛りつけることはできない。
だけど、もしもこの先、僕が冒険者として名をあげたなら――
「待って!」
「……なに?」
「あの、キミの名前、教えてくださいッ!」
その台詞を耳にした彼女は、一瞬目を丸くした。
そして、ふわふわと雲の上を歩くような足取りで僕の元へ降りてくる。人懐っこい子猫みたいな瞳をしながら。
「あら、人に名前を訊くときは、先に自分が名乗るのが礼儀じゃない?」
「あっ、すみません、僕の名前はユウです!」
なぜか敬語になってしまうのは、僕がとんでもなくあがり性で、こんなことをしたのが生まれて初めてだから。
街中で偶然出会った女の子に声をかけるなんて、向こうの世界じゃ想像もつかないくらい大胆な行動で、すでに顔から火を噴きそうなほど恥ずかしくて。
だけど、彼女はそんな僕に優しく微笑みかけてくれた。
そしてすうっと空を滑るように近づいて、耳元に唇を寄せて……囁いた。
僕の魂を激しく揺さぶる、その言葉は――
「私の名前は“アリス”よ。またね、ユウ!」
※冒頭の子守唄には前回と同じ仕掛けがあります。(解答は活動報告にて)