九、奴隷
「そこの者ども、退け退けぇぇぇ――!」
それはアルボスの人たちが、北門前の跳ね橋へ辿りついた直後のこと。
長い行列の最後尾……“難民”というだけで後回しにされ、それでも不平を言うこともなく待ち続けた彼らの耳に、鋭い怒声が届いた。
空腹も眠気もすっかり忘れて可愛い女の子との会話に夢中になっていた僕は、ハッとして振り返る。
オレンジに染まり始めた荒野の向こうから、二頭立ての馬車が猛スピードで突っ込んでくる。疲弊し切った馬が容赦なく鞭打たれ、悲痛な嘶きを吐き出す。
僕は一瞬身構えた。もしや近くの街に凶悪な魔物が現れて、助けを求めてやってきたのかと。
でも、そうじゃないってことはすぐに分かった。豪華過ぎる馬車のデザインで。
……また貴族様かよ。
内心呆れながらも、僕はおとなしく橋の隅へ寄った。
門番たちが慌てて対応する様を、リリアちゃんと手を繋ぎながら傍観する。「こういうダメな大人にならないようにねー」とテレパシーを送りつつ。
しかし、ここでちょっとしたトラブルが発生。
午前中に到着した貴族のことは、ほぼノーチェックですんなり通していた門番が、なぜか渋い顔をしている。御者の男が無理やり馬を進めようとするのを、屈強な兵士が四人がかりで押しとどめる。
しだいにアルボスの人たちへも不安が伝播していく。
僕に触れていた小さな手がするりと離れ、彼女にとってもっとも頼りになる人物――母親の元へ戻ってしまう。
……イラッ、とした。
僕とリリアちゃんの蜜月を邪魔するとは、あの貴族、許し難い……!
殺気を滲ませつつ馬車を睨んでいると、閉ざされた木製のドアが唐突に開かれた。小窓を通しての交渉ではらちがあかなくなったのか、門番の一人が強引に乗り込んだのだ。
橋の上の空気は、一気に緊張を増す。
いったいあの中にどれほどヤバイ物が詰まっているのか……密輸品やら麻薬やらといったアイテムを想像していた僕は、予想を大きく裏切られることになる。
中から現れたのは、恰幅の良い中年男。
灰色のローブを羽織り、立派な口髭をたくわえたいかにも怪しげな男は、どうやら隣町に住む商人のようだ。御者の小男に泣きつかれ、新たな交渉役を買って出る。
そして僕の敏感な耳は、馬車に積まれた『荷物』の動きを察知した。
か細い呼吸音に合わせて、じゃらりと鳴る重たげな鎖の音。吐き気を覚えるような忌々しい音。
さらにその鎖を弄ぶもう一人の人物が……。
「――まだか、早くしろ」
いかにも退屈そうな、苛立たしげな声が馬車の中から放たれた。そして大きな荷物を引きずりながら、貴族らしき若い男が降りてくる。
その“荷物”は、僕がイメージしていた通り……一人の女性だった。
青痣の浮かんだ口元を長い銀髪で隠すように俯きながら、裸足のまま橋の上へ降りてくる。薄汚れた生成りのワンピースに、アクセサリーにはとうてい見えない重たげな手錠。細い首にも銀の輪が嵌められ、そこから伸びる鎖は男の手に巻きついている。
――奴隷だ。
そうジャッジしたのは僕だけじゃない。この場にいる全員が一斉に眉をひそめる。
特に門番たちは、痛々しい女性の姿を見るや、今まで以上に厳しい口調で詰め寄った。
「聖都オリエンスでは、全ての女性があらゆるしがらみから解放されます。その“隷属の首輪”を外していただかなければ、この門をお通しするわけには――」
毅然としたその態度に、僕は若干溜飲を下げた。
長い物に巻かれる公務員タイプかと思いきや、門番たちは意外と頼もしい。彼らもこの仕事に誇りを持って取り組んでいるのだと分かる。
しかし、一歩も引かないのは奴隷商人も同じ。
汚い唾を飛ばしながら門番を恫喝したかと思いきや、今度はへらへら笑って黄金色をした包みを渡そうとしたりと、見苦しいことこの上ない。
その背後に佇む貴族の男が「ふわーぁ……」と大あくびをかました。そしてふらりとよろめいた奴隷の女性を煩わしげに蹴り飛ばす。
周囲から軽蔑の眼差しを向けられたところで、貴族の男にはノーダメージ。僕らのことはそれこそ虫けら同然に思っているんだろう。
しかし、貴族とはいえ単なる若造。どうしてここまで偉そうに振る舞えるのか……。
その理由はすぐに分かった。門番の不用意な一言で。
「どうかお願いします、この街に滞在されるならば、この街の法に従ってください――殿下!」
……殿下、ときたか。
できるなら翻訳機能の不具合であって欲しい。本気でそう思った。
まあ確かにそう言われると『王子様』っぽいというか、そこらを歩いていたら注目を浴びそうな、派手な見た目をしている。
見事なまでの金髪碧眼に、滑らかな白い肌、映画俳優のような甘い顔立ち。年齢は二十歳くらいで、成人したてといったところか。
今回は“お忍び”の外出だったのか、均整の取れた体躯を包むのは市民たちと似たようなデザインのチュニック。しかしその素材の良さは隠しきれず、ゆったりとしたドレープの光沢が美しい。
それにしても……地味にショックだ。
奴隷という存在がいることもキツイけれど、物語の世界ではよくある話。社会格差と合わせて割り切るしかない。
僕にとってよりキツイのは、この国が腐ってるかもしれないってこと。
冒険者になって、できる限りこの街に貢献しようと思っていたのに、こんなヤツの小遣いを増やすために税金を納めることになるなんて、正直萎える。
実際この街は大災害に見舞われたばかりだ。そんなときに王族がお忍びの旅行、しかも奴隷を買っていた……。
ありえない。無能過ぎる。
僕が深すぎるため息を吐いたとき、第二の城門の奥からバタバタと一人の兵士が駆け寄ってきた。四十歳くらいで頬に傷のある、精悍な面立ちの男だ。
隊長と呼ばれた彼は、部下から状況を確認するや、厳しい面持ちで“切り札”をきった。
「申し訳ありませんがこのたびのお申し出、私どもでは判断がつきかねます。今すぐこちらへ“枢機卿”殿をお呼びしてご意見を伺いたく」
「――ああ、もうよい! 分かった分かった」
いかにも鼻白んだという顔をしたバカ王子が、鎖を持っていない方の手をひらひらと振る。
僕はすかさずその人物を脳内にインプットした。
枢機卿――それが門番にとっての強力な後ろ盾。王族に対して一歩も引かず、法の順守を押しつけられる理由。
どれほど国が腐ろうと、神殿は――信仰心は腐らないのかもしれない。信徒の態度も含めて『女神教』の評価はうなぎのぼりだ。
奴隷として買われた女性も首輪を外され、平民として生きていけることになった。
隊長からその話を聞かされた彼女は言葉を失い、ポロポロと涙を零し始める。やせ細っているけれど、まだ若く充分綺麗な面立ちをしたひとだ、これからやり直すことはできると誰もが確信する。
一方、王子から見捨てられた奴隷商人は、悔しげに歯ぎしりしながら馬車へと戻る。御者の男とのひそひそ話を盗み聞きしてみたところ、どうやら王子の権力を使ってこの街へ進出しようと目論んでいたらしい。ざまあみろだ。
というか、ようやく僕らも街へ入れる……。
そう思って、アルボスの人たちと顔を見合わせたとき。
「――あのさあッ」
突然、王子が声を荒げた。
門番たちがいったい何事かと首を傾げる中、王子はふてぶてしい笑みを浮かべて。
「まだ俺はこの門を越えてないよな? だったら“街の法”は関係ないよな? つまりコレは俺の所有物であり、何をしようと俺の自由ってわけだ」
と、念を押すように何度も繰り返した後。
「この荷物、もう要らないから捨てるわ」
けだるげにそう呟くや、王子は手にした鎖を放し――邪魔な“荷物”を真横へと突き飛ばした。
――バシャンッ!
鈍い音とともに、堀の水が弾け飛ぶ。
その瞬間を目撃してしまったアルボスの人たちが、悲鳴を上げることさえできずその場に凍りつく。
目の前で一人のニンゲンが死んでいく。鉄の鎖に縛られ、もがき苦しみながら。
「くそッ!」
叫ぶと同時、僕の身体は宙を舞った。
昨日の時点で空っぽだった堀にはある程度の水が溜まっている。今朝方の雨で水かさが増していなければ、本気で危うかった。
暗く澱んだ水の中へ迷わず飛び込んだ僕は、彼女の腕をしっかりと掴み、もう片方の手で背中の荷袋に触れながら両足を強く蹴りあげる。噴水のように上昇する水の動きをイメージする。
一瞬で水際へ浮上し、軽く安堵したものの……さすがに堀を飛び越えることはできない。ぬめった石垣につま先を引っ掛けて、なんとか身体を固定する。
それから、申し訳ないと思いつつ、ぐったりしている彼女の頬を強く叩く。幸い彼女はすぐに意識を取り戻し、げほげほと咳込んで泥臭い水を吐き出した。
「大丈夫ですかッ? 怪我はないですか?」
「ぁ……は、い……」
焦点の合わない虚ろな瞳が、少しずつ光を取り戻していく。彼女が何語を話すか分からなかったけれど、僕の言葉はちゃんと通じているようだ。
ただ、彼女の身体はあまりにも細い。体力も気力も限界に近いと感じる。
鎖の重みに苦しむ彼女をしっかりと抱えながら、僕は真っ直ぐに問いかけた。
「手錠と首輪を壊してもいいですか? もしそうしたいなら……ここから逃げたいなら、協力します」
僕の力なら、この鎖は簡単に壊せる。
堀をよじのぼるのはしんどそうだけれど、水の力をうまく使うか、上からロープを下ろしてもらえばいい。脱出さえできれば、そのまま遠くへ連れ去ることも充分可能だ。
もし彼女が「逃げたい」というなら、僕はそれを叶えてあげようと思った。
でもそうすると、この街へ戻るのは難しくなる。
いくらバカ王子が“捨てた荷物”とはいえ、勝手に拾って同じ街で暮らせるとは思えない。奴隷商人の追っ手がかからないとも限らないし。
せめて彼女が安心して暮らせる別の街まで送り届けなきゃ……。
と、名前も知らない女性へ手をさしのべようとする、バカが百個つくほどお人好しな僕のことを、神様は見ていた。
いや、僕を見ていたのは神様じゃなく――
「月よ赦せその嘆き
尊ぶ癒やし朝を経て
我らまほろば眼にも見え
打ち抜く光起こす熱」
それは僕の耳にもかろうじて届くほど、微かな囁き声だった。
水音とも、堀の上の喧騒とも違う、涼やかな音色。
とっさに見上げれば、心配そうに僕を覗き込むアルボスの人たちのさらに上……堀と繋がる『第一の城壁』の上に小さな人影が見えた。
オレンジの空の下、深緑色の長い髪がさらりと風に靡く。エメラルドの瞳が「大丈夫」というように、優しげに細められる。
そして僕の身体は眩い光の礫に包まれ……。
一秒後、僕は――空を飛んでいた。
ふわふわと、まるで背中から羽が生えたように。
※作中の詠唱にはある仕掛けが隠されていますが、分からなくても問題ありません。(ヒントは作者のプロフィールに。解答は活動報告にて)