プロローグ/召喚 ※イラストあり
※イメージイラスト(+Azoithさん作)
「ここは……何処だ……?」
吹き抜ける乾いた風が、僕の呟きを遠くへ――草原の遥か彼方へと攫っていく。
青々と茂る草を踏みしめ、呆然と立ち尽くしながらも、僕の脳みそはこの状況を理解しようとフル稼働していた。
「これって、もしかして“白昼夢”ってヤツか……?」
試しに、自分の頬を叩いてみる。
……普通に痛い。
それでも、この身体が夢から覚める気配は無い。
そもそも僕の住んでいる町は、ビルや住宅が立ち並ぶ地方都市だ。地平線が見えるほどの大草原なんてありえない。
百パーセントそう断言できるはず、なのに。
高く広い空や、吹き抜ける風の音や、足元から立ち上る草いきれや……何もかもが生々しく僕の五感を揺さぶる。
そして異様な存在感を誇るのが、僕の背後に生えている巨大な樹木。
樹齢千年と言われる縄文杉なんてレベルじゃない。それこそ小山のごとき大きさだ。
幾重にも絡み合いながら天へと伸びる太い枝の先には、みずみずしい緑の葉がみっしりと生い茂り、小さな紅い実がすずなりになって揺れている。
ポタリ。
呆ける僕の目の前で一粒の実が落ちた。ふらふらとそこへ歩み寄り、その実を拾い上げてみる。
手のひらの上でコロンと転がる楕円形の粒。グミの実によく似たそれは、柔らかな木漏れ日を受けて、宝石みたいにキラキラと煌めいている。
しかし、かなりの高さから落ちたというのに傷ひとつない……というか、真下から見上げると樹の迫力がハンパない。まるで自分がアリンコにでもなった気分だ。
「まさか、僕が縮んだ、とか……?」
視線をぐいっと捻じ曲げ、己の身体をまじまじと見やる。
紺色のブレザーに臙脂のネクタイ、灰色のスラックス、まだ履き慣れないスニーカー。
真新しい制服に包まれた身体は、平均的な高一男子より一回り小さい。母さんが制服をちょっと大きめに仕立てたせいで、ぶかぶかの袖口がいかにも『新入生です』といった雰囲気を醸し出している。
通学鞄は持っていない。引いていた自転車のカゴの中だ。
――そう、さっきまで僕はいつもの通学路にいた。
学校を出るとき、幼なじみの陽花が「ネクタイ曲がってるよ!」と言って、こうしてきっちり結び直してくれたからまちがいない。
帰り道の途中、コンビニへ寄った陽花を待つ間、僕は桜並木のある川沿いの道に自転車を止めた。四月にしては温かい南風が吹いて、薄紅色の花びらが水面へはらはらと舞い散って綺麗だった。
夕暮れの空には、気の早い月が浮かんでいた。
オレンジの中に輝く、細い三日月。
突然ソイツがぐらりと揺れた。まるで度の強い眼鏡をかけたみたいに、二重にぶれた。
そして――気づけば僕はこの草原にいた。
常識的に考えれば白昼夢、もしくは眩暈でも起こして倒れて本物の夢を見ているか……。
だけど、この“夢”はあまりにもリアルだ。
伸び放題の前髪をくぐりぬける疾風は、木の葉をざわりと揺らし、草の絨毯をさざめかせながら視界の彼方へ消えていく。
……おかしい、ありえない、意味が分からない。
額にじわりと浮いてくる汗を、手のひらで拭った刹那――
「――グギャルルルァッ!」
ビリビリと、大地が震えた。突然轟いた大音響に鼓膜の奥がキーンとなる。
それは今まで聴いたことのない、獰猛な獣の咆哮だった。
恐る恐る周囲を見渡すと、視界のはるか彼方、広大な草原の突き当たりに連なる山麓の上空で、鳥らしき獣の影が蠢いている。
どうやらあの鳥の声がここまで届いたらしい。
これだけ距離があるのにハッキリ視えるってことは、アイツはこの樹くらい巨大な鳥なんだろう。僕なんて丸ごと一飲みにしてしまうような……。
「くそッ、なんなんだよ、いったい!」
無意識にブレザーのポケットをまさぐる。さほど友達は多くないくせに、いつしか手放せなくなってしまった携帯を取り出す。
縋るような思いで画面を開く。『ユウ君、自転車残してどこ行っちゃったの? トイレ?』なんて、陽花からの呑気なメッセージが飛び込んでくるのを期待して。
それなのに。
「“圏外”って、なんでだよ……もしもし、もしもしッ!」
震える指をかろうじて動かして電話をかける。陽花へ、両親へ、男友達へ、最終手段として一一〇を押す。何度も、何度も。
「なんでだよ! なんで繋がらないんだッ?」
悲痛な慟哭に応えてくれたのは、ひゅうっという風の音だけだった。
僕は草の上にへたり込み、夕暮れの空を仰いだ。
少し寂しげなそのオレンジは、さっきまで見ていた空とまったく同じなのに……理性は全力で否定するのに、本能は冷たいジャッジを下していた。
――ここは、“僕の世界”じゃない。