お遣い
エイプリルフールですが、更新は嘘ではありません
居候を働かせることが決定してから一夜明け。ご主人様に報告するために、エーヴィヒの先導の下、無汚染区域に生まれて初めて足を踏み入れる。
無汚染区域。ゲートで外界との汚染から仕切られたコロニーの中にある、もう一つの壁。その内側。何もかもが汚れ果てた世界にあって、唯一汚れていない場所。幼い頃、何も知らなかった頃はその中にあこがれを抱き、この体が育ちスカベンジャーに入団してからも、壁の内側での生活を夢見ていた。
今では、そこで暮らしたい思いが全く失せている。ただ首を垂れ、尻尾を振るだけで無汚染区域での生活を入手できる。そんな甘い条件でも、俺はあのご主人様が気に入らないというなんとも下らないガキのような感情だけで、取引を蹴った。
とはいえ、ガスマスクを着けずに外を歩けるという生涯初めての経験には、わずかに感動する。いや、大いに感動している。ご主人様はクソだが、この清廉な環境は最高のものだ。とても素晴らしい。ビューティフォー。言葉のレパートリーが少なく胸中の思いを表しきれていないが、こういうのを筆舌に尽くしがたいと言うのだろう。とにかく良い。
さて、道路を歩いていると、ビニール製のハウスで覆われた農場と、そこでせっせと働く者の集団が視界に入る。彼らには表情がなく、機械のようにただ己に与えられた役割を果たしているだけ。
「噂は本当だったか」
ご主人様が下に降りてくる度に、工場の労働者が何人か消える、という話は、俺も足としての仕事をしている最中に確認済みだが、噂と言うのはそこから先。ご主人様の目に留まり、さらわれた働き蜂は、脳みそを切り取られて働き蟻にされ、ご主人様の食料を生産するための奴隷にされるという内容。
「噂ですか?」
「お前の気にするような話じゃない。案内を続けてくれ」
目的地は既にわかっているので、案内の必要性は疑問だが。
農場の中心を走る道の先。清浄な空気は透明で、下のように目と鼻の先ほどの距離までしか見えないということがない。途中さえぎるものもなく、今の時代ではここ以外に存在しないのではないかと思うほど完全な原型をとどめた豪邸。ミュータントの集落にあった家などかすんで見えるあれこそが、俺たちの目的地。ご主人様の屋敷なのだ。
「ええ。わかりました」
そのまま止めることなく足を進め、屋敷の入り口。二メートル半はあろうかという扉の前にたどり着く。
エーヴィヒがドアノブに手をかけて開くと、そこは二重扉の内側。汚染区域でも目にする、灰色の壁で構成された空間が。一枚目の扉を潜り、閉じる。そのすぐ後に外部の空気を追い出すための強風に顔をたたかれた。
「本当は、こんなものは必要ないレベルにまで外部の空気の清潔さは保たれているのですが、ご主人様は念を入れてということでこうした設備を使用しています」
「必要ないのに設置するなんて、素晴らしい贅沢だな。そんな余裕があるなら下々の者にも少しは分けてほしいもんだ」
「それは今日直接言われてはどうでしょう」
「昔から言い続けてる。どうせ無駄だ」
俺ではなく頭が、だが。まあ、自分が直接不満をぶつけたところで、今更ご主人様が心を入れ替えて俺たち下っ端にやさしくしてくれるわけがない。
「ではなぜ私に言うんですか」
「知りたいか?」
「とても」
「ただの八つ当たりだ」
弱肉強食のこの世界、力を持たない弱者は不満を暴力に変換し、さらなる弱者を虐げることで鬱憤を晴らす。何の解決にもなっていないが、それでかれこれ一世紀もコロニーが安定しているのだし、これで正しいんだろう。
「最低ですね」
「当たり前だろう」
珍しく感情のこもった言葉に笑って返す。この世界に善人は居ない、と前にも話したはずなのに怒るとは、こいつは何もわかっていない。一世紀も生きていて、一体世界の何を見ていたのやら。短い間だが俺と一緒に暮らしていて、俺のどこを見ていたのやら。それとも死ぬ度に記憶のどこかが抜け落ちているのか。どちらにせよ、俺が屑なのは今に始まったことじゃない。
「コロニーの治安を気にしていらしたので、てっきり他者への思いやりのある方なのかと錯覚してしまいました」
「そんなもん、放置してたら自分の不利益になるからに決まってんだろ」
「そうでしたか。そうですよね」
「俺が他人のために貴重な労力と時間を差し出せる聖人にでも見えたのか?」
自分にとって利益にも不利益にもならない、無益なことを気にする余裕があるのは、このコロニーの中ではご主人様くらいなものだろう。いや、もしかしたらご主人様でさえ、俺たちと同じなのかもしれないが。それは聞かないとわからない。聞くつもりはないが。
「入りましょう」
「ああ」
二枚目の扉を開き、さらに奥へ。頭のいつも居る体育館ほどではないが、なかなか広い空間に、ただの電球ではなく宝石のような形の装飾が付いた豪華な照明。汚れの一つも見られない壁と床。いくつかの扉。そして何より、全く無臭の空気。殺したミュータントから奪った空気清浄機でさえ、ここほど臭いのない空間は作れないだろう。
ご主人様への嫉妬がより強くなった。
「ご主人様は汚れを嫌います。ですので、会う前にシャワーを浴びて服を着替えてもらいます。よろしいですか」
「構わんが」
ただ伝言をしに来ただけで支配階級の生活の一部を体験できるのは、役得という次元ではないだろう。奴に尻尾を振らずに自分の夢の一部に触れられるのなら断る理由がない。
が、懸念材料が一つ。
「シャワー室に見せかけたガス室ってオチはないよな」
「殺すつもりなら、機会は幾らでもありました。それを顧みてどう思われますか」
「一応の確認だ。本気で言ったわけじゃない」
こいつ寝食を共にした時間はそう短くない。ご主人様のことは全く信用できないが、こいつ故人であれば少しは気を許してもいいという程度には、信頼している。二度も殺されかけておいて、我ながら甘いとは思うが、今のところは俺を殺す事になんのメリットもない。
なら、殺す気はないとみていいだろう。




