朝
「うはあ……ぁ」
朝一番。腕時計から騒がしく鳴り響くモーニングコールで目が覚め、硬いソファから起き上がって伸びをする。それから毎朝習慣にしている洗顔をしようと一歩歩いて、今いる場所が自宅ではないと気付く。昨日はミュータントの集落に泊まったのを、寝起きですっかり忘れていた。部屋から出る前に気づいてよかった、うっかり外に出ていたら大惨事になるところだ。
朝食にと入れておいた合成食料をポーチから取り出して、プラスチックのキャップを捻って外す。途端に飲み口から酸っぱい臭いが漂うが、それを我慢して口をつけ、柔らかい容器を握り潰して中身を口の中に取り込む。相変わらず糞マズイ味を堪能しながら吐き気を我慢して中身を全部飲み込み、口の中に残った風味をまた同じポーチから取り出した蒸留水で洗い流して朝食は終了。
一息ついて部屋を見渡すが、昨日の老婆の姿はどこにも見当たらない。ただテーブルの上に錆びだらけのベルと紙が置いてあっただけ。老婆に何か考えがあって置かれているのだと思い、テーブルに近寄り紙を取って書いてある内容を解読しようとする。が……
「んん……? なんて書いてあるんだこりゃ」
読めない。自分の知らない言語だから読めないというわけではなく、字が汚すぎて読めないというわけでもなく。字が綺麗すぎる、というか達筆すぎて読めない。図書館にあるような本は全て一文字ずつキッチリ分けられているが、この紙に書いてある文字はほとんどの文字がつながっている。言語自体は自身のよく知るモノで、相手も同じ言葉を使っているのに書いてある中身が理解できないとはどういうことか。俺自身にそれほど学が無いのも悪いが、あの老婆、人への気遣いが少し足りてないんじゃないだろうか。
ベルと一緒に置いてあったから起きたらベルで呼んでくれ、という内容が書いてあるのだろうと思い、空いている手でベルの柄を持って二三度振り、ベルを鳴らす。錆のせいかイメージしていたほど透き通った音は出なかったが、静かな屋敷全体に行き渡るには十分な大きさの音が鳴った。
ソファーに座って待っていると、コツコツと廊下を歩いく音が徐々に近寄ってきているのがわかった。そしてそれからさらに少し待ち、扉を開いて入ってきたのは昨日の老婆。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか」
「おかげさまで」
互いに軽い挨拶を交わす。床ならともかく少し固いくらいのソファなら、俺にとっては極上のベッドと変わりない。そして高性能の空気清浄機で綺麗になった空気。さらに騒がしい工場の雑音もない。これ以上ないと言っていい位最高の環境で寝られたおかげで、気分はかなり良かった。糞マズイ朝食のお陰でそのいい気分も一気にマイナスになってしまったが。
「それはよかった。ところで朝食はもう獲られましたか?」
「ついさっき」
中身が空になった合成食料のチューブをポケットから取り出して、老婆に見せる。私にも食べられる食事を用意してくれたのだとしたら、少し悪い気はするが。もう栄養は十分に補給できているので、コレ以上食べる必要はないし、胃もチューブ一本分の食事に慣れているのでコレ以上は食べられない。
それに、こいつらの食べるものは美味いらしいが除染されていないので食ったら軽くても腹をこわす。
「紙に起きたら用意します、と書いていたのですが……」
「寝床を提供してもらって、おまけに機体の修理までしてもらってるんだ。そこまで世話になるのは悪い」
紙に書いてある字が読めないとはさすがに恥ずかしくて言えないので、もっともらしい嘘をついておく。
「そんなに遠慮なさらなくてもいいのに」
「こればっかりは性分でな。それよりも俺のアースはどうなってる。修理は終わったか?」
「あ、その件ですがどうも故障箇所は膝だけではないそうで」
微笑みを絶やさずに話す老婆に、少しだけ不安を覚えた。まさか、膝以外にも壊れているところがあったとは思わなかったし、壊れている箇所がどこかにもよって修理の時間も変わる。
「……その、どうも前々から全体的にガタがきていたようで。そこにさらに強い衝撃を受けたせいで、一気に……という話です。パーツもそんなにないらしく修理は無理なそうで……」
想定していた中でも最悪の事態だ。まあ、想定の範囲内であるだけまだマシというものか。整備不足だからあちこちガタが来ているのは出発前のチェックでわかっていた。さらに言えば今回少し無茶もしたし、膝以外にもあちこち故障するかもしれないというのは予想出来ていた。そしてこの集落にパーツが無い可能性も考えていた。だからそれほど驚きはしなかった。
「コロニーに連絡してパーツを運んできてもらえば。時間はかかるが」
「それが……支配階級がどうので運べないそうです」
「……つまり?」
「しばらく修理できません」
「帰れねえじゃん」
持ってきている合成食料のチューブは残り三つ。一日二食としても明日までしか持たない。なんとか合成食料が切れる前に帰らないと、ミュータント達の作る食べ物を食わなければならなくなる。だがミュータントは汚染に耐性があるから食物の汚染がひどいと聞く。食ったらすぐに死ぬってほどではないが、一食食べるごとに寿命を何年か捨てることになる。かといってアースなしで重度汚染地帯を渡るのは不可能。
ああ、だめだ。考えたら胃が痛くなってきた。ただでさえ最近厄介事ばかり続いているのに、更に追い打ちをかけられたせいで胃が限界に近い。
「コロニーに連絡させてくれ……」
とりあえずさっきのババアの説明じゃ状況があまり理解できなかったから、コロニーの人間に直接話を聞いて。それから何かできることは―多分無いだろうが―無いかを考えたい。できる事が無くても詳しい情報があれば少しは落ち着ける。少なくとも、詳しいことが何もわからないよりかは。
「あ、はい。少し待っていてください。機械を持ってきます」
老婆がまた部屋から出て行き、しばらく待つ。すると今度はでかい通信機を載せた台車が室内に入ってきた。当然、それを押して入ってきたのは老婆だ。枯れ細った見た目の割に随分と重そうなものを運んでくる。
「ふぅ……お待たせしました」
「ありがとう」
早速持ってきてもらった通信機の電源を入れる。畳まれていたアンテナが音を立てて開き、グルグルと回転を始める。受話器を取り、コロニーに居る頭が持つ通信機の番号を押す。
『ザ……ザザ…………』
最初に聞こえてきたのは、ひどいノイズ。アンテナの角度を少しずつ調整して、良い角度を探す。徐々にノイズが軽減されていき、それもやがて消え呼び出し音に変わる。
『はいはい、こちらコロニー』
「頭、俺だ。クロードだ」
『おう、どうかしたか? まあ予想はつくがな』
「支配階級のアホが何をやらかしたのか教えてくれ」
『ん……ああ。ミュータントをコロニー内に入れないためって理由でゲートに蟻の検問を張りやがってな。替えのパーツを持ち出すのは無理だ』
「外地探索に出た羽が困ってるって事で出せないか」
『無理だ、大体探索に出る連中は替えのパーツを持って行ってる。その事は連中も知ってる』
「検問が解かれるまでどれくらいかかりそうだ」
『さあな。前にこんな事があった時には、一週間か二週間か……そのくらいで飽きたのかどうか知らないが辞めたな。まあ連中の武装は大したこと無いから、戻るときには強行突破すればいい』
パーツが届くまでは最低でも一週間。最悪それ以上。その間、合成食料無しで生きられるかというと、無理。生身で生存不能地帯を渡るのも、また無理。コロニーに到着するより前に死ぬ。コロニーに到着しても生身じゃ検問を突破する前に死ぬ。。
「それまでに死ぬんだが」
『替えのパーツが無いってだけで、替えの機体がないわけじゃねえだろ。アースは集落でも使われてるはずだぞ』
「……そうなのか?」
『無いってわけねえだろ。なあババア』
「……ええ、ありますよ。しかし」
どうも出し渋る様子の老婆だが、何か事情があるんだろう。しかしこっちもこっちで事情がある。あるのなら出してもらわなければ困る。主に俺が。
『こっちはガキ一人そっちに送り届けて、おまけに備品を一個ぶっ壊されたんだ。骨董品の一つや二つ借すくらい安いもんだろ』
「戦前の発掘品は貴重品なんですよ」
『それじゃ今後の援助はなしでいいんだな』
「……貸さないとは言ってません。絶対に返してくださいよ」
『それはそいつの腕次第だからなんとも言えんな』
「なら、絶対に壊さないでくださいね」
糸のように細かった目を見開いて、こっちを睨む老婆。『壊したらぶっ殺す』という思いがその視線から伝わってくるようだ。しかし今の状況に陥っているのはこの老婆のせいでもある。膝が壊れただけならまだ片足を引きずりながらでも歩けたものを、老婆が転んだせいで完全にぶっ壊れたから代わりのアースを寄越せ、もとい貸せ、と頭が言っているのに。
「人のを壊しといて自分のは壊すなって?」
「あなたは壊されて嫌と感じたのなら、他人にそうするべきではないでしょう」
「わかってるよ。わざと壊すような真似はしないって」
とりあえず帰るための足は確保できたということで、寿命が縮まるってことはなくなった。壊すなってことだが……まあ傷はつくだろう。検問を強行突破するわけだから。もしかするとまたあの競技用機持ちが出てくるかもしれないし。
「修理用パーツもないんですから。さっきも言いましたが、絶対に壊さないでください」
『骨董品はいい研究資料になる。できるだけ傷つけず持って帰れ』
「機体の性能が良ければ壊さずに帰れるが。ま、期待しちゃいないがな」
骨董品なんて言われるくらいだし、遺跡からの発掘品なのだろう。発掘品の大半は発掘時の保存状態が悪く性能云々以前にそもそも動かないという事の方が多いそうだ。逆に保存状態が良ければ結構優秀な性能を持つらしい。それを元にして、競技用や現行量産のアースが作られてるという話を聞いたことがあるが……まあそんなのがこんな集落にあるはずがないので性能には期待しない。どれだけひどくとも動くだけましだろう。あとは小銃弾を弾ける程度の装甲があれば言う事はない。
「それならば問題はありません。すぐに持ってきます。通信機はついでに片付けさせてもらいますね」
「はいはい、よろしく頼むよ。動きさえすれば文句は言わないから」
自分はほとんど蚊帳の外だった気がするが、とりあえず話がまとまったらしい。しかしアースが完全に壊れたと聞いて一時はどうなることかと思ったが、人生案外どうにかなるものだ。これで一番大きな問題は解決したし、あとは用意してもらったアースに乗って帰るだけ。帰る時に門番がいるそうだが、蹴散らせる程度らしいし気にするほどのことじゃないだろう。アースなら蹴散らせるってことはせいぜいデモ隊が銃を持った程度だろうし。