朝
朝、それは新たな一日の始まりである
朝、それは新たな出来事の始まりである
なんつって。
真っ黒な中に少しずつ白が広がって、目が覚める。
「ん……朝か」
ゆっくりとソファから起き上がり、床に足を下ろす。窓から差し込む朝日を浴びて起きたはいいものの、未だ瞼は重い。瞼をこすって眠気の誘惑を断ち切ろうとするがやはり眠いものは眠い。眠気を覚ますために近くに置いてある冷蔵庫に向かって、しっかりとはしていない足取りで歩く。
「うぐぇっ」
何か柔らかい物を踏んだ気がするが、気にしない。それよりもと冷蔵庫を開いて朝食の合成食料が入ったチューブと水を出す。水はコップに注いですぐ飲めるように準備。チューブのキャップを取り、飲み口を加えてチューブを一気に握る。
勢いよくチューブから吐出されたゲル状の食料が口の中になだれ込む。最悪な香りと味が口と鼻どころか食道まで広がり、電流のように全身を突き抜ける……味を表現するなら、マズイ。その一言に尽きる。しかしそのあまりのマズサのおかげで眠気が一瞬で消し飛ぶ。
脳が危険信号を発し、それを受信した身体が嘔吐しようとするが、気合で抑えこんで一息に飲み込む。コップを取り、口の中に僅かに残った食料も蒸留水で流し込んで朝食は終わり。
苦しいのは一瞬だが、この一瞬がたまらなく嫌いだ。
「人の事を踏んでおいてのんきに朝食ですか……いい身分ですね」
不機嫌な声に振り向くと、声と同じように不機嫌そうな表情で腹を抑えた美少女が立っていた。一瞬だけ『はて、こいつは誰だったか』と思い、記憶の川から該当する人物が映っている場面を探して、見つけ出して掬い上げる。
そして思い出した。殺し屋だ。俺のことを殺しに来て、まんまと返り討ちにされた間抜けな奴。かと思ったら生き返って、今度は俺のことを監視すると言いながら傍に立ち、俺のことを辱める者。それがどういう事か、俺の家に居る。
「……何で居る」
「昨日言ったはずですが。あなたを監視するためです」
言葉に対する返事としては正しいが、質問の意図からすれば全く的から外れた答えが返ってきた。
「それよりも」
腹を抑えながらこちらに寄ってくる。何をするつもりかと警戒し、拳を握る。しかしその警戒を他所に、俺の横を通り抜けて勝手に冷蔵庫を開き、合成食料を取り出した。まるで勝手知ったる我が家に居るような行動の自然さに、思わず制止することも忘れてその動きを見守ってしまっていた。
「空腹なのでもらいますよ」
しかも事後申告。今度はあまりの厚かましさに声も出ない。アンジーも無断で家に入ってくることはあるが、いくらなんでも勝手に冷蔵庫を漁ったりはしない。
「……」
呆れて声も出せないでいると、そのまま少女はチューブのキャップを取って合成食料を食べ始めた。すると途端に仮面のように張り付いていた無表情が崩れ、苦しみに歪み、床に倒れて喉を押さえる。それを見て……自分の命を奪おうとした奴が苦しんでいるところを見て、愉悦を感じる自分がいる。あの合成食料がどれだけマズイか、それを食べるのがどれだけ苦しいかもよくわかるだけに、愉悦も一入。
だからこそ、今の気持ちを言わせてもらおう。
「くっふふ、ふひ……ひひっ、最高……! ざまあみやがれバーカ!」
指をさして思い切りあざ笑ってやる。本当に、自分の命を狙ってた奴とは思えないほどのマヌケっぷりに思わず笑ってしまったが、これを笑わないなんてとてもとても。思わず高笑いせずに入られないほど爽快だ。
「ぐ……毒を冷蔵庫に、入れるなんて……」
……が、その笑いも『毒』という一言で急速に冷めた。
「毒じゃねえよ。れっきとした食い物だ」
床に投げ捨てられた、こいつが毒と呼んだ合成食料の入ったチューブを拾う。まだ中身が残っている。これもタダじゃないし、色々な工夫や工程を経てようやく食べられるようになったこれを捨てるなんて。
「もったいねえな。全部食えよ」
チューブを差し出しても、手が伸ばされることはなく。こちらに掌を向け首を横に振って、これ以上いらないという意志を見せられる。全くもったいない。
「……仕方ねえな」
捨てるのももったいないので、残りを吸い込む。やはりマズイ。マズイのでさっさと味を水で押し流して飲み込む。今の気分は最低だ。これは味こそ最低だが、栄養効率だけは最高の食品。汚染された土で栽培された汚染された食物を収穫し、巨大なミキサーで液体になるまで砕いて、栄養素を抽出して凝縮。その中に汚染を除去するための薬品を大量にぶち込んで、ようやく人間が食べられるようになった食物。
それをマズイから捨てるなんてトンデモナイ話だ。しかも勝手に冷蔵庫漁って食ったもんだし。怒りも一周回って怒る気もしない。
ただ、オシオキするつもりは、当然ながらある。
「俺達にとっちゃ貴重な食いもんなんだぞ。それを捨てやがって」
「ありがたい話をどうも……それより、水をもらえませんか」
「ほんっと仕方ねえなお前は。お前ホントに俺を殺しに来た奴と同一人物か?」
愚痴を言いながら、冷蔵庫から小さな瓶を新たに取り出して投げ渡す。彼女はそれをうまくキャッチしてまるで日が照る砂漠を何日も彷徨い、ようやく救助されて水にありついた遭難者のように瓶の蓋を開け、勢い良く傾ける。
中身が何かも知らずに。
「……ぐはあっ! 喉が、喉がぁ!!」
「アルコール度数90%の蒸留酒だ。一気飲みすりゃ喉も焼ける、ざまぁないぜ」
「ぐ……覚えておいてください……この礼は、必ず」
「うるせえ、三度も命を狙われた俺の気持ちが少しはわかったか。バーカ」
と、言ってかなりスッキリしたので今度は素直に水を渡す。いつまでも虐め続けて恨みを持たれて、寝ている間に殺されてはかなわない。いや、もう既に殺意は持たれているのだが、これ以上機嫌を損ねてもいいことはない。
「……くくっ」
水を静かに飲んでいる少女を見て最後に軽く笑って、ガキイジメは終了。自分の頭を撫で付けて寝ぐせを直す。それから玄関の扉を開き、外出の準備を始める。
「どこへ……行くんです」
「頭のところだ」
「なにをしに」
「転属願いを出しに。小さいガキに監視されたままじゃ変な噂が立つ。いや、もう手遅れか……だから、噂があちこちに広まってるから住み心地も悪い。噂が静まるまでは外の仕事をする」
アンジーにも誘われていたし、この前の騒動で何人か羽の人員が減ってしまったから、羽の人手は今不足しているはず。足の仕事は俺が一人減った程度じゃ何の影響もないし、問題は何一つとして存在しない。移籍はすんなりできるだろう。
「私も、行きます。仕事ですから」
玄関でブーツのヒモを結んでいると、喉を抑えながらガキがこっちに歩いてきた。仕事仕事と、ずいぶんと仕事熱心なやつだ。そのマジメさには感心する。俺からしたら、もう少し緩くてもいいんじゃないかとも思うが。
「……好きにすりゃいい。どうせ噂も広がりきってる」
コロニーは閉鎖的で娯楽も少ない環境だ。誰がどこで喧嘩しただの、そういったのは日常茶飯事だから別に噂になったりはしないが、一方がこっぴどくやられたとかそういう醜聞は格好の娯楽となって、人々の間に配信される。そして蒸留水の中に泥を落したように、情報はあっという間に拡散して、コロニー中の人間が噂を耳にすることになる。二日前には支配階級の犬を殺した奴が、その翌日には年端もいかない少女と一緒に居た、なんて面白い話。報酬で子供の娼婦でも買ったか、とかそういう下衆な勘ぐりをされるのは避けられない。俺も当事者でなければ間違いなく飛びつくだろう。他人の場合は、言うまでもなく。
つまりアレだ。もうどうせコロニー中で噂になってるから、今更恥ずかしがって隠してもしょうがないって話。
「では、そうさせてもらいます」
自分は上着に袖を通して手袋をはめ、ガスマスクをつけて、ブーツを履いて準備は終わり。あとは遅れて準備を始めた少女を待つ。それまでずっと立ち呆け。
「あの」
「どうした」
「そういえば名前を言っていませんでした」
知る必要もないし、知りたいとも思わなかったから気にしてなかったが。そういえばこいつの名前を知らなかった。支配階級の飼い犬がどんな名前か。奴らは飼い犬にどんな名前をつけるのか。俺の事を殺そうとする可愛らしい殺し屋の名前がなんなのか、考えてみれば気にならないこともない。
「笑わせてもらった礼だ。聞いてやろう」
「私の事は、エーヴィヒと呼んでください」
「……あまり聞かない響きだな」
知り合いの名前とくらべてみる。アリス、アンジー、アンリ。アから始まる奴が多いな。ただの偶然か。まあ、珍しい名前なのは、名づけたのは支配階級だろうし、俺たちみたいに適当な名前を付けずに何か意味を持った名前を付けたのかもしれない。
「準備ができました。行きましょう」
「そうだな」
それにしても大人しいやつだ。本当につい二日前まで俺の命を狙いに来てた奴とは思えないほどに大人しい。可愛らしい容貌と丁寧な言葉づかいに思わず警戒を緩めそうになる。
しかしこいつは間違いなく、俺を三度も殺しに来た奴だ。絶対に警戒を解いてはならない。そう自分に言い聞かせて、外への扉を開く。
スモッグの向こうに見える空は、相変わらずぼんやりとしていてよく見えない。




