Till death do us part(1)
ラジオの音を流しながら木々の間の小径を行くマックスの背中を追い、やがて木がまばらになり視界が開けたかと思うと、ドニは茫漠と広がる荒野を前にしていた。
「ようこそ、外の世界へ」とマックスが言った。
外の世界に鮮やかな印象を抱いていたドニは、愕然とした。
遠くに見えるのは老人のように立ち枯れた木々と、家屋の残骸らしきものたち、そして所々ひび割れた、石のような何かでできた道ばかりで、わずかに生える背の低い草や潅木が大地に彩を添えるのみだった。
かすかに田畑として区画された跡が見て取れる部分もあったが、そこに作物が植えられている様子はない。放棄されてどれくらい経つのか。数年だろうか、数十年か、あるいはもっと。ここまで荒れ果てていては、再び耕地とするには気が遠くなるような時間と膨大な作業が必要になるだろう。
その側に立つ、基礎と柱の一部のみを残した家屋の成れの果ては、時間に肉をついばまれた骸骨のようにドニの目に映った。きっと、住人も同じような姿になっているに違いない。あるいは、すでに風化してしまっているかもしれない。
緑豊かな森林地帯の外が、こうも荒れ果てているとは、誰が想像できるだろう。
呆然とするドニに、マックスはサングラスを外して額を揉みながら言った。
「ま、見ての通りだ。言っただろ? 国土は広い割にスカスカだって」
外の世界へ出たときに感じるのは、きっとこれ以上ないくらいの驚きだろうとドニは想像していた。いま感じているそれも驚きには違いないのだが、目が眩むような鮮やかさはなく、ただただ色褪せていた。
「本当にこの先に街があるのか」
「あるさ」
マックスはサングラスをかけなおした。
「地図職人が嫌がらせでもしてるんじゃなきゃあな。そら、いつまで突っ立ってる気だ。日が暮れる前に街へ行くぞ」
マックスは落胆したかに見えるドニを励ますように、その逞しすぎる肩を叩いた。
そしてマックスは歩を進めてゆく。そこが我が庭とでも言うようにしっかりとした足取りで。
二人が進む枝道はやがて大路へと突き当たった。
先ほど見た、石にも似たなにかを敷いて作った道の上を歩くドニの視線は、ずっと下を向いていた。ドニの興味は、この未知の素材に向けられていた。
石畳ではない、どちらかといえば砂利を固めて作ったように見える。
一つ謎を解決するたび、また謎がわいてくる。謎は決して尽きることがない。ドニにとって世界とはそういうものだった。世界は不思議で満ち溢れている。灰色の世界でもそれは変わらなかった。こうした疑問の海を泳いでいくのが、たまらなく楽しかった。
気が滅入りそうな景色が続いているが、それでもなんらかの楽しみを見出そうとする自分に、ドニは気づいた。逞しいんだかなんだか、よく分からない。外の世界を知るたびに、自分でも気づかなかった己の内面にも、知らず知らずのうちに触れているのだろうか。
「足元ばっかり見てるなよ」とマックス。「周囲にも気を配れ。野盗がいるかもしれない」
一見何もないように見えても、丘の稜線や瓦礫の陰、低木の後ろなどに武器を持った悪漢が潜んでいることがある、とマックスは語った。いまも彼は、すぐに肩付けできるように銃を手にしている。
しかし不幸なのは、マックスの前に現れる野盗のほうであろう。小規模とはいえオーク・クランを皆殺しにできる戦士を、野盗風情がどうこう出来るわけがない。姿を見せた瞬間、頭を吹き飛ばされるのがおちだ。
しかしそれでも、外の世界の負の側面にドニは不安を感じていた。
かつて読んだ本の多くに、野盗や山賊、そして危険な生物との戦いについて記されていたのを思い出す。とりわけ気になるのは、夜盗どもだ。
彼らは、単純な腕力こそ野生生物に大きく劣るものの、剣をはじめとする刃物や鈍器はもちろん、銃すら使いこなし、ときには罠を張って待ち伏せする。無害な風体を装って騙し討ちをする輩もいる。
その魔の手が、万が一マックスをすり抜けて、自分に伸びてきたとしたら。そのときには俺も、誰かを手にかけてしまうのだろうか。
そんな考えを弄びながら、ドニは言われたとおり、周囲に気を配った。
ある程度歩いては休憩を挟み、また歩き始める。歩いて、休んで、また歩く。
時計の長針が一周、つまり一時間歩いて、五分の休憩を入れる。三回目の休憩は少し長めの十五分。それが終わったらまた一時間歩いて五分の休憩。マックスはずっとそのペースを守っていた。
結局その日は、日が落ちてから街に着いた。堀と壁に囲まれた、エレクサゴン共和国とアルマーニュ連邦共和国との国境に位置するスタスオーグに。
門の前には広い石橋が渡されていた。
その中ほどで立ち止まり、ドニは顔を上げて壁を見上げる。視線を下げていくと、堀、というよりは川が流れていた。河川の中洲に街を作ったのだろう。
今度は顔を横に向ける。すると壁が外側に向かって出っ張っているのが夜の闇にまぎれてうっすらと浮かび上がっている。一部分だけがひときわ高くなっていた。なぜこうなっているのか、ドニには分からない。
傭兵ならこういうことに詳しそうだと思い、前を歩くマックスに声をかける。
「壁の両側がなんであんなに出っ張っているんだ?」
「俺はお前の辞書か?」憮然とした口調でマックスが返す。
「知らないのか」と少し残念そうにドニ。
面倒くさそうに頭を掻いて、「あれは堡塁だ。あそこに兵やら大砲やらを置いて、周りから突っ込んでくる敵に防御射撃を浴びせるんだ。出っ張ってるのは、堡塁同士の死角をなくしてお互いが援護できるようにするためだ」
堡塁にはところどころ、大砲を撃つためだろう、穴が開いていた。その大きさから、ドニは大砲の寸法を推し量る。自分の頭より大きな弾を撃つ、剣呑な代物が浮かんだ。
「壁は想像してたより低いな」
「あんまり高すぎると、敵の大砲でぶっ壊されたときに瓦礫が降ってきて大変なんだよ。その分、厚く作ってある。本当だったら土を盛るか、べトンで作るのが理想なんだが」
最初は嫌々だったはずのマックスの説明が、次第に熱を帯びてくる。
「あるいは、昔の残骸を利用したのか。どっちにしろ、山賊相手には過ぎた防御施設だ。アルマーニュの機動部隊相手にはないよりまし程度の働きしかしないだろうな」
「マックス?」
はたと独り言にも似た説明を止めて、マックスは恥ずかしげに咳払いした。
「……さっさと街に入るぞ。宿をとらにゃならん」
意外な一面を見た気がして、ドニは少しおかしく思った。早足で石橋を渡るマックスを追いかける。
橋を渡った先には篝火が焚かれ、銃を担いだ衛兵が門の両脇を守っていた。
二人が門をくぐろうと近づくと、衛兵が誰何の声を発する。
「そこで止まれ。誰だ」
かなり警戒されているのが、声色で分かった。
「見ての通り、旅の傭兵でさあ」
マックスはまったく臆さずに、飄々としている。
「どこから来た?」と衛兵は問う。
「ここから西の、森の中にある小さな村でさぁ、衛兵さん」
「あぁ、あの何もない村か」
衛兵は何気なくそう言ったが、ドニは故郷をけなされたような気がして、不快だった。何もない、というのは事実だが。
「そっちのも傭兵か?」衛兵はドニに視線を投げかける。
「俺の付き人だと思ってくだせぇ」
ドニはマックスの口調が変わっているのに気づいた。灯火に照らされる顔には、へつらうような笑みが浮かんでいる。これが彼なりの処世術なのだと、ドニは理解した。
「ずいぶんと警戒してるみたいですが、なにかあったんですかね、衛兵さん」
「うむ」と衛兵は頷いて、「今日、この近辺を騒がせている赤い鉤爪という野盗団のアジトに、討伐部隊を向かわせたんだが……」
「まだ戻ってきてない、ってわけですかい」
「その通りだ。ここに来る途中、なにか見なかったか?」
「いえ、特に何も見てやせんぜ」
マックスはかぶりを振った。お前はどうだ、と言うように衛兵が見てきたので、ドニも首を横に振った。
「そうか。引き止めて悪かったな。通っていいぞ」
「ありがてぇ。ところで、衛兵さん、その山賊団ってのは何人ぐらいいるんで?」
「八人だよ」
「たったの八人、ですかい」とマックスは目を丸くした。これは演技ではないようだった。「それに正規兵の皆さんが?」
衛兵は苦々しい顔をした。
「数は少ないが、危険な連中だよ。手練れの傭兵隊に護衛されたキャラバンがもう何度も滅茶苦茶にされてるんだ。五十人以上の兵を向かわせたんだが……どこかで迷っているだけだといいんだがな」
数にして七倍ほど。それも正規の訓練を受け、装備も揃った兵士たちが。その山賊団はその動員数に見合うほどの被害をもたらしたに違いない。ドニは恐ろしく感じながらも、見てみたいとも思う。どんな荒くれ連中なのだろうか。
「そいつらは噂に聞く"影の兵"ってやつですかい」
「そのように伝え聞いている」
「いくら"影の兵"でも、兵隊さんがそんなにいたらたまりませんでしょうや」
マックスはそう言い残して、衛兵に手をひらひら振りながら城門をくぐった。顔には例の笑みを貼り付けたまま。ドニもその後ろに続いた。
村の家の多くが木造だったのに対して、スタスオーグのそれは漆喰や煉瓦でできているし、二階建て、三階建ての建物も多い。文明の香りを感じるつくりだった。
いまが夜であることを、目抜き通りを歩きながらドニは残念がった。道の横の小さな灯火だけでは街すべてを照らし出すことはできない。もっとよく見たいのに。
その楽しみは明日に取っておこう、とドニは前向きに考える。ここで必要なものを買い揃える予定なのだから、市場も見れるだろう。きっと村の雑貨屋とは比べ物にならないほどの人と物で溢れているのだろうと思うと、期待が膨れ上がった。
宿屋は通りの先、広場に面した場所にあった。ドアを開けると、温かみのある明かりと、主人らしき男が二人を迎えた。
「やあ、旅の人ですか」カウンターで主人が笑顔で聞いた。
「そうだ」へつらうような笑みは、マックスにはない。「部屋を借りたい」
「ありがとうございます」
主人の提示した金額をマックスは支払った。
「俺は払わなくていいのか?」とドニが聞く。
「今回だけだ」
「これも投資と考えていいのかな」
「好きにしろ。次からはちゃあんと払ってもらうがな」
宿屋の主人は二人の話を聞き流した。金さえ払ってもらえれば、客の事情には立ち入る必要はない。
「すぐにお部屋へ案内します」
カウンター横の階段を上がっていく主人の後に続き、二人は部屋に通された。ベッドが二つと、最低限の調度品が並べられた質素な部屋だった。
そこで荷物を下ろして、ドニは空腹を覚えた。
「腹が減ったな」
「そうだな、飯にしよう。下の酒場で食事はできるのか」
そうマックスが問うと、主人は首肯した。
「はい、宿の食事は一階でとって頂く形になります」
「早速いくか」
「分かりました。お席の用意をさせていただきます」
かさばる荷物だけを置いて、部屋を出る。それでもマックスは、銃だけは手放さなかった。用心深いのか神経質なのかドニには判断がつきかねたが、宿屋の主人はマックスの振る舞いを当然のこととして認めた。これも職業病だろうか。街の治安は特別悪いようには見えないのだが。念のため、ドニも銃を持っていくことにした。
一階に降りて、席に着く。木でできたテーブルと椅子は、村の酒場とさほど変わったところはない。
テーブルに並べられた食事は、街の酒場としてはいたって普通のものだった。すなわち、パンとチーズ、ローストチキン、少し薄めの野菜スープにぶどう酒といった具合。
隣のテーブルについている客を見て、ドニはぎょっとした。体中が真紅の鱗に覆われたトカゲ、いや伝説上のドラゴンを人型に作り変えたような生き物が、静かにカップを傾けているのだ。
ドラゴンボーン、誇り高き戦士の種族だ。
彼はカップを下ろすと、視線に気づいたのか、ドニの方をちらりと見やった。ドニはあわてて視線をそらす。
それをきっかけに、ドニは酒場には様々な種族が集まっていることに気づいた。ほとんどが人間だが、人間よりも小さいに筋骨隆々のドワーフに、毛むくじゃらのライカンスロープ、一目見ただけでは子供にしか見えないグラスランナーまでいた。
「どうした、そんなにきょろきょろして」マックスはすでに食事に手をつけていた。「いい女でもいたか?」
「いや、いろんな種族がいるな、と思って」
「それで、どう思った」
「人間とあまり変わらないんだな」
異種族でも食事を取るし、酒を飲めば酔っ払う、いい気持ちになって仲間たちと笑いあう。当然といえば当然だ。
「そりゃそうだ。俺もあいつらも、木の股から生まれてきたんじゃあない」
ドニは再び、ドラゴンボーンに目を移した。あの鱗の下には、きっと俺と同じ血が流れている。両親から生まれ、その元で子供時代を過ごして、成長し、今に至る。
そう思うと、ドニの心から異種族……未知のものに対する漠然とした恐れが霧散していった。何も怖がることなんかない、泣きもすれば笑いもする、俺と同じ生き物なんだから。
どこか落ち着いた気分になって、ドニは食事に取り掛かる。パンをちぎり、スープに浸して口に放り込むと、舌が味を感じ取り、空腹とあいまってドニの食欲を亢進させた。きつい畑仕事のあとの食事のように、うまかった。
「ところで、聞きたいことがあるんだけど」
「食うか喋るか、どっちかにしろ」
わずかに眉をひそめながら、マックスはぶどう酒を一口飲んだ。
ドニは口の中を空っぽにしてから、「あの、門のところで言っていた"影の兵"ってなんなんだ?」
「ああ、それか。俺たちの同業者だがそうでもないと言えるが……ギルドについては知ってるか」
「いいや、詳しくは知らない」
「ってことは一から説明せにゃならんのか。お前に分かるように説明するのって、結構骨が折れるんだぞ。知ってたか?」
マックスはうんざりしたようにため息をついた。こういう態度をとっても、結局はちゃんと教えてくれるということを、ドニは短い付き合いの中でしっかりと把握していた。要するに、根はいい奴なのだ、と。
「ギルドってのは、同じ職業をやってる奴らが、その地域の公権力、ま、偉い奴だな、それと結びついた同業者組合だ。大抵の職業には、ギルドが存在する」
「なんでそんなものができたんだ?」
「理由はいろいろあるが、産業の保護、育成、それに政治的理由だと思っておけばいい。この国だと、特権階級的だって批判の的にされてるがね」
ドニはスープをすすって、視線だけでマックスに先を促した。
「で、このギルドなんだが、傭兵にも傭兵ギルドというものが存在する。"影の兵"というのは、特定の集団じゃあなくって、ギルドに加入していない傭兵全般を指すんだ」
「ギルドに所属しているのと、そうじゃないとでは、具体的にどう違うんだ?」
「簡単に言えば、合法か、非合法かの違いだ。ギルドの傭兵の仕事は、キャラバンなんかの護衛や兵士の訓練といった、社会的に認められたものが多い」
「"影の兵"はそうではない、と」
マックスは小さく頷いて、「その通り。"影の兵"が請け負うのは、非合法、よくてその一歩手前だ」
非合法活動。ドニは直感的に盗みや殺しを思い浮かべた。
「どんな奴が依頼を持ってくるんだ?」
「お前はどう思う?」とマックスは逆に質問してきた。
食事の手をいったん休めて、ドニは考える。犯罪を依頼するなんて、きっとろくな奴じゃない。山賊とか、犯罪者とか、そういう類の連中だ、と答えると、しかしマックスの口からは意外な返答が帰ってきた。
「"影の兵"の依頼主としては、そういう連中はむしろ少数派だ。まったくない、とは言わないが。大体、犯罪者だったら他人に頼まずに自分でやるだろ。顧客の多くはお偉いさん……社会的な地位を持った連中だと言われている」
「なんだって?」
ドニは思わず、大声を出していた。周りの客が何事かと思って視線を集めるのを、マックスは愛想笑いでごまかした。
「声が大きい」マックスは顔をしかめた。
「す、すまない」
マックスは先ほどよりも小さな声で、「事情を知ってるやつにとっちゃ、公然の秘密だよ。彼らが求めているのは能力があって、ヤバくなったら関係を否定できる人材だ。きょうび、権力争いってのはどんなものであれ、そういう連中が暗躍することでケリがつくくらい暴力化してるからな」
「じゃ、じゃあ、この街を仕切っている役人たちも?」
恐る恐る聞くドニに、マックスは頷いた。
「その可能性は否定できない。木っ端役人ならともかく、行政の頭の連中だったら十分あり得る」
そんなことがあるものなのか。いままで世間のことなど何も知らなかったドニには、マックスの話は衝撃的に過ぎた。
「マックスは」言葉の途中で、ドニはつばを飲み込んだ。「そういう、"影の兵"としての仕事をこなしたことがあるのか?」
「ある」
背骨が突然、氷に置き換わったような感覚。体の内側から体温が奪われていくような気がして、ドニの手が小さく震えた。
色を失ったドニの瞳を真正面からねめつけて、マックスは表情を変えずに口だけを動かした。
「ごめん嘘」
ドニはテーブルを叩くようにして立ち上がった。ジョッキが揺れる。
「お、おまえーっ!」
「いやあ、マジになるとは思わなかった」
つい先ほど、声が大きいと窘めたのはどの口だったか、マックスは呵呵と笑った。
まったく、気の抜けない奴だ。こっちは本当に驚いたっていうのに。
椅子から立ち上がったままのドニの横を、フードを目深に被った客が通り過ぎる。そのとき、わずかに肩がぶつかった。
「ごめんなさい」
謝りつつもその客は足早に立ち去った。その声は少し低めだったが、女性らしさを完全に捨ててはいない。すり抜けざまにフードの中の、鮮やかな赤毛が仄見えた。
そのまま酒場を出て行く客の背中を眺め、ドニは再び席に着いた。
そして、気づいた。ポケットが妙に軽いことに。
「……ない!」
体中のあちこちをまさぐる。しかし、あるべきはずのものが、ないのだ。
「どうした」と不思議そうにマックスが聞く。
「金が、ないんだ!父さんから貰ったお金が!」
「なんだと」
マックスは勢いよく立ち上がった。
「いつごろまで持ってたか憶えてるか」
「部屋を出て、ここに降りてくるまでは確かにあった」
荷物を下ろすときに、金の入った皮袋があることをしっかり確認している。それは間違いなかった。
「さっきの奴だ!」
金を盗む機会があるのは、つい今しがた横を通り抜けたあの女だけだ。
弾かれたように立ち上がり、酒場を飛び出した。道路の脇に立てられた松明のわずかな明かりを頼りに、ドニは人影を見つけた。
彼女はドニが追ってくるのに気づくと、脇目も振らずに逃げ出した。
「待てっ」
父さんから貰った、大事なお金だ。絶対に返してもらうぞ。
スタスオーグの壁の外には、都市に住むことのできない貧民層がねぐらとする廃墟群が並んでいた。
その隙間を、ある一団が都市へ向かって歩いている。その数は、五人。
先頭を行く男の身長は、平均的な人間の成人男性とほぼ変わらないが、胴には脂肪がついて、樽のようにずんぐりとしていた。巨大な多銃身式連発銃を背中に担いでいることから、脂肪の下に発達した筋肉を隠し持っていることが窺える。立派な赤髭には一本の白髪もなかった。男はドワーフだった。
その横の男は、狼頭を備えた獣人だった。落ち着かない様子で鼻をひくひくさせ、異様なまでに目をぎらつかせていた。やがて獣人は唸りながら懐から鉛筆にも似た細長い容器を取り出した。端を弾くように蓋を開け、鼻に近づけて思い切り吸い込む。何度目かの吸引を経て、獣人は咳き込んだ。内容物が気管に入り込み、むせたのだ。咳がやむと、獣人は大きく、満足げに息を吐いた。
一歩遅れて続くのは、ひょろ長い体躯を持った男だった。手には、彼自身と同じ、ひょろ長い銃を持っていた。銃身の上には照準器を載せている。さきほどからずっと、何事かぶつぶつと呟きっぱなしだが、彼の仲間は咎めたりはしなかった。
集団の最後尾にいるのは、二人の女性だ。
一人は妖艶な雰囲気を持った、妙齢の女性であった。うねるように波打った髪を肩口にそろえ、闇色の体の線を強調するような衣服が、彼女の豊満な体をより際立たせていた。後ろ腰に下げられた彼女の得物は、先端に金属製の鉤爪のついた鞭であった。
彼女に並ぶように歩くもう一人の女性は、褐色の肌の持ち主だった。その矮躯から少女と形容するのがふさわしい。髪こそあまり手入れされていなかったが、若さ、否、幼さをまだ感じさせる手足と、虚無を映しているかのような虚ろな瞳が、人形めいた美しさを醸していた。ぼさぼさの髪からひょっこり突き出した長い耳から、彼女がエルフであることは明白だ。彼女は底部に小さな車輪のついた漆黒の棺を三つ、ロープでつなぎ、引きずるように運んでいた。
「ねぇ、ママン」と獣人が言う。
「なんだいレジィ」妖艶な女が歩を止めずに答えた。「薬ならまだあるでしょ」
「そうじゃないんだ」レジィと呼ばれた男は頭を振る。「今回の仕事、おいしすぎると思わないか?」
妖艶な女はポケットから写真を取り出した。写っているのは、赤毛の少女。それを見ながら確かにそうかもしれない、と思う。
「簡単すぎる仕事に」とずんぐりした男が誰に言うでもなく呟いた。「金払いはいいときている。裏がありそうではあるな」
女たちが受けた依頼は、写真の少女が持っている荷物を奪うこと。依頼主は少女がスタスオーグにいるであろうこと、そして少女は殺してしまっても構わないことを告げた。
「居場所が分かってるなら、自分たちでやれそうなものだが」
ため息混じりに、陰鬱な声で細身の男が言った。
「足がつくのを恐れているのさ」妖艶な女は、仲間たちの不安を取り除こうとした。「いままでだってそういう依頼はごまんとあったじゃないか。ビビる必要はどこにもないよ」
"影の兵"としての仕事は、依頼主の名前すら分からないことも少なくなかった。どころか、依頼主そのものから始末されそうになったこともある。
仮にそんなことがあったとしても―――妖艶な女は、自分の横に控える少女に視線を注いだ。こっちにはアデプトがいる。
不意に、少女が足を止めた。
「どうしたんだい」と女が聞く。
「この先、門の前、見張り」言葉少なく少女は囁いた。
「兵士か」
ドワーフの瞳が、おぞましい欲望の色に染まる。
「さっき皆殺しにしてやった連中よりいい男かのう」
「まだ楽しみ足りないのかよ」
獣人はドワーフの趣味の悪さに辟易している。
「やっちまいますか?」とひょろ長い男が銃を持つ手に力を込めながら言う。
「もちろんさ」
妖艶な女は答えた。
彼女は、生意気にも自分たちを討伐しようとした兵士の一団のことを思い出していた。叩き潰してやったが、彼女の気分は未だ晴れていない。
「誰に喧嘩を売ろうとしたのか、思い知らせてやる……と言いたい所だけど、仕事が最優先だ。静かにおやりよ」
どうせ、そろそろ潮時だと思っていた。妖艶な女はこの仕事を最後に、スタスオーグから離れるつもりだった。ずっと留まっていたら、エレクサゴン共和国の最精鋭部隊、聖霊騎士団まで投入されるかもしれない。
なに、どこに行ったってあたしたちはうまくやれる。
「相手がどんな奴だろうと負けやしないよ、あたしたち"赤い鉤爪"はね」
鉤つきの鞭を手に取りながら、女は歯を剥いて笑った。