For the greatest journey(4)
恐る恐ると、ドニは通路から最奥部を覗き込んだ。
そこには一匹のオークが、うつぶせにうずくまっていた。荒々しい息を吐きながら、体を激しく前後に揺さぶっている。表情は恍惚としていて、口からはべちゃべちゃと涎が垂れていた。
ドニはすぐに、オークの体の下に何かが"いる"ことに気がついた。オークの動きにあわせて力なく揺れる白くほっそりとした二本の足、頭の上できつく縛り上げられた腕と光の消えた虚ろな眼、砂に塗れた蜂蜜色の髪。
オークがフルールに覆いかぶさっていると悟ったとき、ドニの口からは悲鳴にも似た絶叫が噴出し、肉体は弾かれたようにオークへと躍りかかっていた。
力任せに振り下ろした手斧は、振り向いたオークの頭部に直撃した。その重く鈍い刃は薄い肉を割り裂き、頭蓋骨にひびを入れて止まった。オークの金切り声がドニの脳みそを引っかく。まだ死んでいない。ドニはオークを蹴倒し、滅茶苦茶に斧を振るった。
目玉を潰し、その内容物が眼腔からあふれるのを見てから、ドニは斧を下ろした。オークはもはや息をしていなかった。何度目かの斬撃で花びらのように割り開かれた唇からは、舌がだらしなく垂れている。
「フルール!」
ドニは少女の名前を呼んだ。フルールの視線はぼんやりと宙を彷徨うばかりで、ドニを見ようともしない。彼女の衣服は、その用途を成さなくなるほどに引き裂かれていた。
ドニは顔面蒼白になりながら、フルールの喉に手を当てて脈をとった。温かな感触とかすかな鼓動が、彼女がまだ生きていることを物語っている。フルールの戒めを解くと、くっきりとした痣が残っていたが、致命的な外傷は無く、せいぜいが擦り傷程度だった。
彼女を、無事とは言いがたいが、助け出せたことに喜び上着をフルールに被せてから、ドニはようやく自分がしでかしたことの重大さに気づいた。
隧道の向こう側が、にわかに騒がしくなっている。興奮したオークの鳴き声が洞窟内に反響している。
ドニは慌ててフルールを抱きかかえた。恐ろしく軽かったが、それに驚けるほどの余裕はなかった。オークがここに殺到する前に、逃げなければ。ただそれだけがドニの心を塗りつぶしていた。
フルールが捕らわれていた場所と、あの広い空間をつなぐ隧道は完全な一本道で、途中に隠れられそうな場所も無い。たった一つの通路を抑えられたら、文字通りの袋の鼠だ。ドニは必死で、来た道を引き返した。
複数のオークが屯していた部屋に出たところで、ドニは足を止めた。銃口と錆の浮いた刃が、ドニを狙っていた。右も、左も、正面も、殺気に目をぎらつかせたオークに囲まれている。
殺される。このままではオークたちは自分ごと彼女を殺しかねない。多少乱暴な手段だが、彼女を地面に落とせば彼女だけは助かるのではないだろうか。そして、俺は殺され、彼女は奴らの玩具にされる、多分死ぬまで。いいや、そうはならないだろう。マックスがいるじゃあないか。あいつは腕が立つみたいだし、きっとオークどもを皆殺しにして、フルールも家につれて帰ってくれるはずだ。
オークが、奇声を上げて剣を振り上げた。ドニはきつく、目をつぶる。死ぬ覚悟などできてはいなかった。ただ、目の前の暴力に抗う術もなく、踏み潰される自分を惨めに思い、その瞬間を待った。
破裂音が轟いた。直後に銃声が響き、剣を振り上げたまま、オークの頭が膨らんで爆ぜる。飛散したオークの肉片が、ドニの頬にべちゃりと張り付いた。
「馬鹿野郎!」
マックスの怒号がドニを現実に引き戻した。
「隠れてろって言っただろうが!」
視線の先のマックスは、ライフルを構えていた。二発、三発と続けざまに発砲する。銃を持ったオークが二匹、マックスを視界に捉える前に頭を撃ち抜かれて即死する。
オークたちはドニを捨て置き、マックスを最優先目標と定めて頭を向ける。
ドニは転びそうになりながらも走り、手近な物陰に倒れこんだ。途中で情けない悲鳴を上げてしまったが、気にしていられなかった。
迫るオークたちに、マックスは臆することも躊躇することもなく引き金を引いた。四匹を瞬く間に射殺する。即座に上半身を回転させて、回りこもうとしたオークたちを狙う。先頭のオークから順番に、マックスは律儀にも一発で頭部―――正確には目玉を撃ち抜いていった。
放たれた弾丸は目玉を貫き、眼腔を突き進んだ。穿たれた穴から、ぬるぬるとした液体が吹き出す。銃弾は柔らかな組織を食い進み、回転と速度を保ったまま脳に到達した。小さな飛翔体は、速やかにオークの運動能力と思考能力を奪い、後頭部側の頭蓋骨に入ってきた側よりも大きな穴を開けて出ていった。薄桃色の脳漿と一緒に。
銃声が止むと、オークは全員が撃ち殺されていた。
「お前、人の話聞いてなかったのかよ」
マックスは弾倉を交換しながらがなり立てた。
「すまない……でも、フルールが」
「フルール? ああ、例の女か」
ドニは自分と同じ岩陰に、フルールを横たえていた。今しがた轟いた銃声にも彼女はまったく反応を示さなかったが、胸はかすかに上下している。
「……その様子じゃ、何をされたのか大体想像はつくな。生きてるだけマシ、か。畜生どもが」
マックスの顔はほぼ完全に覆い隠されていたが、その声色から彼はいま確かに怒っているのがわかった。
「フルールを、安全な場所に」
ドニが言い終わる前に、マックスが言葉をさえぎる。
「伏せてろ。絶対に頭を上げるなっ!」
そう叫ぶように言った直後、マックス自身も身を隠した。間を置かずに銃声が聞こえて、岩が小さく削り取られる。
見れば、別の隧道から十匹以上ものオークが、武器を手に姿を現していた。
お返しとばかりに、マックスは銃を持ったオークを射殺した。また目玉をぶち抜く。オークたちは、素早く岩陰に身を隠す。動きがわずかに遅れた一匹がまた撃たれ、脳みそを地面にぶちまけた。
しかしオークたちは怯みもせずに反撃を開始した。矢と銃弾が飛翔し、マックスは遮蔽を盾にそれを防ぐ。オークたちの銃はマックスのそれとは違い、一発撃つたびに手動で次弾を装填しなければならない旧式だったが、一匹一匹が交代で攻撃することでマックスを釘付けにした。その隙を突いて、剣や斧といった白兵戦用の得物を持ったオークたちが岩を利用しながら近づいていく。
それに気づかないマックスではなかった。もう一匹、今度は弓を構えたオークに鉛弾を叩き込んでやると、遮蔽に引っ込んでから肩のナイフを抜き放ち、銃身に取り付けた。そうしてから、遮蔽から身を乗り出し、撃ち返す。遮蔽から飛び出そうとしたオークの頭が吹き飛んだ。
オークが発砲する。その銃声を合図に、迂回を仕掛けたオークたちがマックスへ突進していった。
マックスは右から来た一匹の首筋に、銃に取り付けた刃、銃剣を突き刺した。刃を寝かせて突き、しかる後に横に払って頚動脈を切断する。大量の出血は内圧を急激に低下させ、オークは膝をついて倒れた。
続いて、背後から勢いよく突き出された槍をマックスは見もせずに絶妙のタイミングで、地面すれすれまで姿勢を低くしてかわし、振り返りつつ銃剣を突き上げた。首と下顎の間から突き入れられた刃は、オークの脳幹を破壊した。
崩れ落ちるオークの後ろからもう一匹。奇声を上げながら斧を振り上げ、マックスへ迫る。銃剣が閃くと、オークの両手首が斧を握ったまま宙を舞った。返す刀で、オークの首を刎ねる。首がずるりと転げ落ち、夥しい量の血が吹き上がった。勢いを失った体はマックスの手前で倒れる。
次弾を装填することも忘れ、その様子を呆然と見ていたオークは、直後にやはり目を撃たれて絶命した。
まだ一匹残っていたはずだ、と思った矢先に、ドニの肩に鈍痛が走った。オークがライフルの銃床でドニを激しく打ち据えたのだ。短く叫んで、ドニは地面に背中を打ちつける格好になる。いつの間に自分の方へ来ていたのか。
視線を上げたドニが見たものは、銃口を押し付けてくるオークだった。
「ばーか」
マックスは嘲る様に言って、引き金を引いた。二連射。一発目がオークの右手を撃ち抜き、二発目で即死させた。
「た、助かった……」
ドニは息を吐いた。極度の緊張状態から開放されたドニは、その反動のせいで思考が鈍化していることに自分自身で気がついていない。立ち上がって、視線を巡らせた。洞窟に転がる死体と壁にぶちまけられた血が、暖かな焚き火に照らされてぬらぬらと光っている。動くものは何一つなかった。
「終わったのか」ドニは呟くように言った。「オークは、これで全部?」
「気を抜くな」マックスが警告する。「群れのボスがいない。どんなオーク・クランにも必ずボスはいるもんだ」
ああ、そうだ、オークってのはそんなもんだっけな。ドニは鈍くなった頭から本で得た知識をほじくり返した。群れを作る動物がそうするように、理性的なものであろうとそうでなかろうと、オーク・クランにもボスは存在する。
ドニは地面に力なく横たわる死体たちを見比べていった。どれもこれも同じ程度の大きさだ。
最奥へと続く隧道の陰で、何かが動いた。ドニはその正体を見極めようと目を凝らした。ライフルを持ったオークと、目が合っていた。オークの視線と彼が持つライフルの銃口は、間違いなくドニを狙っていた。
反射的にオークの射線から逃れようとして、ドニははたと気づいた。自分の後ろには、フルールがいる。ここから動けば、きっと弾丸はフルールに当たってしまう。彼女を連れて逃げるか? その選択に意味はない。どちらにしろ、撃たれる確率が高いのは自分だ。
ドニは動かなかった。動けなかったわけではない。ここで逃げてはいけないと思って、黒い瞳のような銃口をじっと見つめる。ドニは、自分の意思でそこに留まることを選んだ。
当たれば痛いだろうし、最悪、死に至る。思考が緊張状態へと急速に押し上げられる。それでもドニは動かない。どころか、ドニは早く発砲しないかとすら思っている。逃げ出してしまう前に。そうすれば、少なくともフルールには当たらないから。
ここで負けたら、俺は本当の屑だ。ドニはやがて来る銃弾に備えて、歯を食いしばる。彼女をおいて逃げたら、俺はきっと生きたまま死んでしまう。
やがて、その時がやってきた。オークは引き金を引き絞り、発射された銃弾は、しかしドニには当たらなかった。
間一髪のところで、マックスがその銃弾を食い止めていた。ドニは目を見開いて、驚愕した。マックスの背中がぐらりと動く。その体に青い靄を纏ったまま。
何故だ? ドニは混乱した。自分で言ったじゃないか、俺の仕事はあんたのお守りじゃないって。
多少の想定外はあったが、オークは素早く銃のボルトを操作し、二発、三発とマックスに鉛弾を浴びせた。マックスの背中が揺れる。三発目の銃弾を受けたとき、ついにがっくりと地に膝を突いた。
ドニの喉から嗚咽が漏れる。絶望の嗚咽が。
隧道から、他の個体より腕も足も胴も背丈も、すべてがふた周りは大きい漆黒の肌のオークが現れた。手にはライフルが握られている。
マックス、マックス。動いてくれよ。立ってあいつをやっつけてくれよ。ドニは縋るような目でマックスを見た。銃弾を三発ももろに受けては、息があったとしても、もはやまともに動くことはできないと頭では理解している。それは他でもない、自分自身の責任だ。俺がここにいなければ、ついていくなどと言わなければ、マックスはオークどもを皆殺しにして、フルールを生きたままここから連れ出せたはずだ。
ドニは腰に無理やり下げた斧に手を伸ばした。この不始末は、俺がつけなければならない。黒いオークはレバーを引き、弾丸を装填した。
奴の銃は次を撃つまでに時間がかかる。一発だけ耐えればいい。そうしたら奴に組み付いて、頭に斧をぶち込んでやる。
斧を構え、オークに突進するべく一歩を踏み出そうとしたところで、ドニは声を聞いた。やめておけ、と。
ぎょっと目を丸くしたそのときには、深手を負っているはずのマックスが恐ろしい速度でオークに飛び掛っていた。
一見すれば無謀以外の何ものでもなかったが、ドニはそのとき、確かに見た。マックスが体全体に青白い靄をまとわりつかせるのを。
オークが撃つ前に、マックスは懐に飛び込んで銃身を払った。いや、手刀で銃身を切断した。驚異的な力で破断された銃身がくるくると回転しながら落ちていく。
役立たずになった銃を捨て、怒声のようにオークが吠えた。ドニのそれよりもずっと太い腕を、マックスの頭めがけて横薙ぎに振るう。マックスは左拳で、下からその腕を突き上げた。オークの悲鳴。その一撃はオークの腕をへし折ったらしく、前腕部から血が吹き出て、折れた骨が肉を裂いて飛び出した。
苦痛によろめくオークに、マックスは小さく跳躍し、振り上げた右拳を叩きつける。青白く光る拳が、オークの頭部にめり込んだ。何かが砕けてつぶれる音。オークの頭蓋骨は見事に陥没してひしゃげ、頭部は首を押しつぶして胴体に沈み込む。両方の眼球が、暴力的に増加した圧力に負けて飛び出した。
黒いオークは制御を失って崩れ落ちた。即死だった。
「さすがに痛かったぞ、クソッたれ」
マックスは吐き捨てるように言った。
「あ、あんた撃たれたはずじゃあ」
「鍛えてるからな」とマックスは飄々と答える。
「いくら鍛えたって銃弾を防ぐのは無理だろう」
「じゃあ毎週欠かさず教会に行ってるから、このオークに気合が入ってなかったからか、好きなのを選びな」黒いオークの死体をこつんと蹴りつけて、マックスは言った。
ドニはマックスをしげしげと見つめた。当たったことに間違いないはずなのに、どこにも銃創はないし、血の一滴も流れていない。
「男に熱視線もらっても嬉しくないな」とマックス。
「いや、その……すまなかった」
「なにが」
「俺のせいで、危険な目にあわせてしまって、本当にすまない」
「そんなことかよ」とマックスは肩をすくめて見せて、「俺もお前も生きてるんだし、気にしちゃいないよ。危険な目だって? この仕事じゃ日常茶飯事だ」
マックスが鷹揚な態度を示したおかげで、ドニの罪悪感もいくらか和らいだ。
「でも、あんた言ったよな。俺のお守りはしないって」
「じゃあ次からはちゃんと言ってくれ。"俺はいま、猛烈に撃たれたいんです"ってな。邪魔はしないから」
皮肉を吐いて、マックスは最奥へ続く隧道へ足を向けた。
「どこへ?」とドニが聞く。
「オークはこれで全部だろうが、念のため生き残りがいないか調べる。他に出口はないから、逃げたってことはないだろう」そう言ってから「もちろん、人間の生き残りも調べるさ」と付け足した。
「俺も―――」
「いいや、こればっかりは絶対に駄目だ。そこの女の子をここで一人ぼっちにするつもりか?」
言われてドニは、フルールを振り返った。命に別状はないが彼女の衰弱は激しく、とても一人にしてはおけない。
「……分かったよ」
「この様子じゃあ、いい報せは期待できなさそうだがな」
マックスは黒いオークの下顎から生えている長い牙をへし折った。群れのボスを倒した証拠として持っていくつもりだろう。体が大きい分、牙も他のオークよりも立派だった。
隧道へマックスが消えると、ドニとフルールは取り残された形になった。
死体が散乱するこの場所はあまりよろしくない、とは思ったものの、他に落ち着けるところもなく―――まさか"あの部屋"へ連れて行くわけにも行かず、そこでマックスが戻るのを待つしかなかった。
オークたちの死体を眺めながら、ドニはふと思った。理性的なものもいるとはいえ、こんな醜い生物が元は自分たちと同じ人間だったなどと言う神話は、間違っているのではないかと。
地面に寝かせたフルールに視線を落とす。痛ましい姿だった。本当なら、なにか声をかけるべきなのかもしれないが、どんな慰めも無意味のような気がしてドニは沈黙する。
することも特になく、地面に腰を下ろしてうなだれていると、ドニの耳がかすかな声のようなものを捉えた。すぐ側に横たわるフルールの口から、それは聞こえていた。
「フルール?」
「……ド……ニ?」
フルールの唇が小さく動いた。
「助け……てくれた……の?」
「そうだよ。もう大丈夫だ。何も心配することなんかない。少ししたら村に帰れるから。君の父さんや母さんが待ってる」
「あ……りが……と……」
「通りすがりの傭兵が、手を貸してくれたんだ。その人のおかげだよ」
ドニは簡潔に、マックスについて触れておいた。
「その……人にも……お礼……」
「いいんだよ」ドニは頭を振って、フルールを制した。「それより、もう喋らないで、しばらく休んだほうがいい。村までは俺が背負っていくよ」
心に受けた傷は深いだろうに、無理して喋ろうとするフルールが不憫でたまらなかった。
「うん……お願い……ね……」
よほど疲れていたのか、あるいは逃避のためか、単に安心したからか、フルールは目蓋を閉じると、すぐに眠ってしまった。せめてその間だけは、彼女の魂に安らぎあれ、とドニは祈った。
少し待っていると、洞窟を調べ終えたマックスが戻ってきた。手近な布を裂いて作ったと思しき袋を両手に一つずつ持って。片方の袋の口から銃身が何本か突き出ていたが、もう片方には何が入っているかは分からない。
「……どうだった?」ドニは曖昧な問いをマックスに投げかけた。
マックスは苦々しい顔で頭を振り、「駄目だった。ここから先は見ないほうがいいだろう」
「そう、か」
村人の死体が具体的にどうなっているか、つまりはオークが人間をどのように調理するのか、見たい気持ちがないでもなかったが、それは彼らの死を冒涜する行為のように思えて、結局ドニは見ないことにした。
「行方不明者五人分の頭部は確認したが、遺体のどれが誰のだかは流石に分からん。全部持って帰って、家族に見せるわけにもいかないからな。代わりに、生前身につけてた衣服や指輪なんかの装飾品が打ち捨てられていたから、それを持って帰る」
ドニは銃身が飛び出た袋を指して「そっちは?」
「これは、まあ、戦利品だ。武器庫があったから良さそうなのを頂いてきた。銃は高く売れるんだよ」
強かというべきなのか。ドニは人の死を目にしてなお、金銭目当ての行為に走るマックスを、しかし非難したりする気にはなれなかった。フルールを目にしたとき、マックスは明らかに怒っていた。彼女のために怒ってくれて、口では助けないと言いつつも自分を庇ってくれたマックスを、悪人とはとても呼べない。
「あの女の子、フルールだったか?調子はどうだ」
「休ませたよ。起きてても辛いものしか目に入らなさそうだったから」
あたりはオークの死体でいっぱいだ。
「村まで彼女を運べるか?」
「大丈夫だ」
「なら、すぐに帰ろう。せめて村人の死体だけでも弔ってやりたいが、流石に人手が足りない。あとで村の人に頼むか」
マックスは荷物を、ドニはフルールを背負って洞窟の出口へ向かう。深く眠っているのだろう、フルールはドニの背中に収まっても起きなかった。
薄暗い洞窟の中を歩きながら、ドニはマックスの背中を見た。すぐ近くにいるはずなのに、ひどく小さく、いや、遠くにいるように感じる。
それもそうだ。ドニは自嘲した。俺とマックスとではいる場所が違う、見ている物が違う、考え方が違う、住む世界が違う。
「ところでさ、ドニよ」歩きながら、振り返りもせずマックスが言う。
「……なんだ?」
仄暗い穴の底に沈みかけた意識を引っ張り上げて、ドニはマックスに返した。
「お前、この穴倉に入る前に俺が言ったこと、覚えてる?」
「ああ」
邪魔をしたら、オークの巣のど真ん中だろうが殴り倒す。まさかいまさらと思ったが、それも仕方のないことだ。自分はそれだけのことをしでかしてしまったという自覚はある。
結局俺は、ここに来て何を得たのだろう? 何もできなかったじゃないか。
「ただ、ちょっと待ってくれ。いまフルールを下ろすから」
「それには及ばない。そりゃっ」
「痛っ!」
マックスは素早く振り返ると、ドニの額を指で弾いた。
「お前の勇気に免じて、それで許してやるよ」
「……勇気?」ドニは鸚鵡返しに聞いた。
「最後の最後、あの黒いオークに撃たれそうになったとき、お前、逃げなかっただろ」
その通りだが、それが勇気から来る行動だとは、ドニは自覚していなかった。傍から見れば、ただ足がすくんでいただけにも見えたはずだ。それなのに―――
「そういうの、嫌いじゃあないぜ」
マックスはどこか朗らかな声でそう言った。