Far road to lord/Prologue
いつまで逃げればいいのか。彼は自問した。今日まで生きながらえてきたのは仇を討つためではなかったのか。
彼は夜闇を照らす焚火を見つめながら、担ぐように槍を持つ手に力を込めた。擦り切れ、薄汚れた服を纏った彼の下顎から伸びた牙が震えた。裾からは薄緑の肌に覆われた太い手足が伸びている。装飾品だろうか、腰からはいくつもの鉄の輪が下がっていた。
彼はオークだった。ウィ・ノナでは愚かで醜く、生まれながらの奴隷とされている種族。
彼は揺れる火の前でじっと座っていた。
木々が風にざわめく音。彼は何かに気づいたように立ち上がった。
「見つけたぞ、脱走奴隷め」
木立の間から、長い髪の男が姿を見せた。金属製の胸当てをつけ、腰には剣を下げている。髪を突き抜けている長い耳は、彼がエルフである証拠だった。白磁のような肌が火に照らされている。切れ長の目はオークを鋭く睨んでいた。
「ヤン」とエルフはオークの名を呼んだ。「脱走だけに飽き足らず、よくもいままで我が同胞達を手にかけてくれたな。我が剣にかけて、貴様をここで討つっ」
エルフが剣を抜いた。研ぎ澄まされた刀身が冷たい光を放つ。
別に殺したくて殺したのではない。ヤンは冷ややかにそう思った。追ってこなければ殺すこともなかったのだが。そう言ったところで無駄だというのはわかっている。脱走は重罪だし、大方、自分の首に賞金でもかかっているのだろう。ならば脱走奴隷一人に何度も追手がかかるのも納得だ。どこの誰がどれだけの賞金を懸けたのかは少し気になるが、聞く必要もない。
ヤンはエルフの剣士に別のことを聞いた。
「お前は、騎士か」とオーク、ヤンが呟くように聞いた。
「そうだ」
剣を構えたまま、エルフは答えた。
「イレナの手の者か」
重ねてヤンは問うた。
「イレナ……貴族擁護委員のことか。もしそうだったとしたら、どうする」
「死んでもらう」
その一言が合図になった。弾かれたようにエルフが動いた。剣を振り上げオークに迫る。速度からして意力使いだろう。いい動きだ。ヤンは彼が一流の剣士であることを悟った。このままいけば彼の剣はあっさりと自分を真っ二つにするだろう。
だが、まだ死ぬわけにはいかぬのだ。
ヤンは伏せた。彼がとった行動はただそれだけだった。
剣が届く遥か手前で、エルフの胸から上がすっ飛んで行った。輪切りにされた腰から血の糸と腸を引きながら。腰から下が地面に横倒しになった。エルフの上半身が近くの木に当たり、鈍い音を立てて転がる。
震えながら、エルフは血を吐き出した。地面に手をついて敵、ヤンの姿を見ようとする。
「な、なにが……」
昏い目のヤンが彼に近寄る。魚でも突くように槍を上げながら。
そしてヤンは、槍を突き刺した。エルフの眼球を貫いて、穂先が脳の奥深くまで一息に沈み込む。槍を引き抜くと串刺しになった目玉が穂先についてきた。無造作に槍を振り、それを吹き飛ばす。遠くで眼球がひしゃげる湿った音がした。
また殺した。ヤンは憂鬱な気分になる。いままで何人の追手を始末しただろうか。それなのに仇を討つ手立ては未だにない。当然だ、奴は貴族だ。腕利きの護衛を抱えているだろうし、いまどこにいるのかもわからない。王都にいる可能性は高い、が、オークで賞金首の脱走奴隷がのこのこ出向いて行ったところで殺されるだけだ。貴族や王族の護衛は大半が腕利きのアデプトだ。
もういっそ死を覚悟して王都に乗り込むべきだろうか。いや、それで奴がいなかったとしたら意味がない。泥をすすりながら生きてきた意味が。復讐を果たすには生きなければ、だが……。ヤンの思考は堂々巡りを続けている。
立ち尽くすヤンの耳に、鴉の声が聞こえてきた。頭上から鴉が下りてくる。ふわりと軽やかに、動かなくなったエルフの頭にとまった。
死肉でも啄むのかと訝っていると、その鴉はエルフ語を話し始めた。
「愚かな脱走奴隷よ」と鴉は言った。「復讐に囚われながら果たせずにいる哀れな男よ」
なんだ、こいつは。喋る鴉などいるはずがない。瞬時にヤンは二つの可能性を考慮した。なんらかの意力作用―――攻撃か。あるいは、自分の摩耗しきった精神が生んだ幻なのか。どちらにせよいいものではない。
攻撃であろうと幻であろうと、やることは一つだ。ヤンは槍を振り上げようとする。
鴉は言った。
「イレナはいま、ビアリストークにいる」
ヤンは手を止めた。なぜ、こいつがそんなことを知っている。イレナのことはエルフとの会話を盗み聞きしていたとしても、その居場所まで知っているとはどういうことだ。
槍を下ろし、しかし警戒は解かずにヤンは鴉に問うた。
「なぜそんなことを知っている。俺にそれを知らせて、なにが目的だ」
「私は、ただこの世で最も価値あるものを手に入れたいだけだ」と鴉は答えた。「そのために、奴には死んでもらいたいのだよ。貴様と私の利害は一致する。それだけの話だ。他に何が必要かね」
罠だ。俺をおびき出して始末しようというのか。ヤンは直感的にそう思った。耳を貸してはならない。こいつはやはり、敵だ。ビアリストークにイレナがいるというのも嘘に違いない。
「疑っているな」
ヤンの心の内を見透かしたように、鴉は言った。
「これだけの情報では無理もないだろうな。よかろう、もう一ついいことを教えてやる。まずはトゥロスル村を目指すがいい。そこに貴様の手助けになる者たちが来ることになっている。信じるも信じないも――」
槍が閃いた。鴉の羽と肉片が散らばる。
息を吐いて、ヤンは焚火の前に腰を下ろした。槍の穂先を火に翳してみる。鴉の血がべっとりとついている。どうやら幻ではないようだ。
ヤンは槍を置き、自分の胸元に手を伸ばした。服の下から麻の紐につながれた数片の骨のようなものを引っ張り出して、眼前に垂らす。しばらくの間、ヤンは息をすることも忘れてそれに見入っていた。
「……グレタ。父よ、母よ」
家族と、家族となるはずだった相手の名を呼び、ヤンは考える。あの鴉が言ったことは本当なのか、と。嘘だ、嘘に決まっている。だが、わずかにでも可能性があるのなら行くべきではないのか。仇を討つことができるのなら。そのために今まで生きてきたのではないのか。それとも、このまま死ぬまで追手を殺し続けるのか。そんな人生に、いったい何の意味があるのか。
死は恐れるべきではない。真に恐れるべきは、目的を果たせぬまま死ぬことなのだ。
火に照らされる骨のようなものをじっと見つめる。幸せだったころの残滓。愛する者たちがこの世に存在したことの証拠は、これ以外にはもう自分の記憶の中だけにしかない。
冷たい夜の風がヤンの肌を撫でた。
行かなくては。ヤンは決心した。
鴉の言葉を思い出す。トゥロスル村といったか。確か、この地方のほぼ西端に位置する村だ。そこに何があろうと、知ったことか。逃げ回るのにはもううんざりだ。前に進もう。同じ死ぬのなら前のめりの方がずっといい。
オークの元奴隷、ヤンはトゥロスル村へ向かうことに決めた。
例え待っているものが破滅だったとしても。




