Blow me away(8)
中央広場の一角に据え付けられた迫撃砲から、軽い音を立てて発射炎が吹き上がった。すでに目標地点であるフンベルト邸宅への準備射撃を完了させ、いまは市街地への火力支援を行っているのだが、さてどれだけの同士討ちが発生することか。
広場には数十人規模の兵隊たちが展開していた。周りに防御陣地を構築し、敵の侵入を防いでいるものを含めれば百人近くいる。ある程度訓練は施してやったが、あくまでも付け焼刃に過ぎない。錬度としてはどんな国の正規軍にも劣るだろう。だが、時間稼ぎにはなる。
アンドリューは兵隊がいくら死のうが知ったことではなかった。他所の国民の死を、なぜ気にかけねばならないのだろう。祖国のためならばいくら殺しても構わない。一番大事なのは祖国であって、他の国はそれ以下だ。だからいくら死んでもなんとも思わない。
愛とは、そういうものだ。愛国者であるアンドリューはそう考えている。何かを愛することは、他の何かを愛さないことだ、と。
「ギュンター隊からの報告です。邸宅への侵入を果たした、とのことです」
腕を組んで立つアンドリューの横で、ポリクラブの男が言った。眼鏡をかけた線の細い青年は通信機を背負っていた。自分が支援として持ち込んだ旧世界の再現品だ。原理はラジオと同じだが、双方向通信が可能という点で大きく異なる。軍はもちろん、情報伝達手段として商人が用いることもあるが、一般的に高価で流通数も少ない貴重品だ。
「首尾は上々といったところか」
煙を吐き続ける迫撃砲を眺めながら、アンドリューは呟いた。腐ってもアデプトはアデプトだ。それだけのことはできて当然だ。あとはマルティンの回収だけか。いや、別に回収などせずとも、流れ弾で死んでくれていれば面倒がなくていいのだが。
作戦の目的は機密保持であって、マルティンの生死は問題ではなかった。
自分に課せられた任務に不満が無いと言えば嘘になる。山賊まがいの連中を支援せねばならないとは。おまけにいまは連中の尻拭いときている。だが、それでも任務は任務だ。完璧に実行せねばならない。それが祖国の繁栄に繋がるのならば。
発射音の間に、誰かの苦悶の声が聞こえた。装填する際に誤って足に迫撃砲弾を落としてしまったらしい。操作要員の一人がつま先を抱えて蹲っている。
それまで淡々と寄せられる情報に耳を傾けていた青年が、緊張した声でアンドリューに報告した。
「……ヒンケルが、やられました」
「何」
アンドリューは眉をひそめた。
「それから、北側防御陣地からの報告です。何者かが防御線を突破してこちらを目指しているそうです。自治領兵力もそれに続いています。戦車の出動も確認されました」
「どういう意味だ」
その問いは報告の前半に向けられていた。そいつは自治領の兵士ではないのか。アンドリューが聞くと青年は補足した。
「いえ、ドラゴンボーンでもドワーフでもなく、人間だそうです。そいつ一人に甚大な被害を出しているとか」
「意力使いか」
「……おそらくは」
質問のつもりで言ったのではなかったが、青年は曖昧に頷いた。
もし意力使いであるならば、ヒンケルを殺ったのと同一人物だろう。あいつもアデプトだ。奴を倒せる実力者がそう何人もいるとは考えにくい。
眉間に皺を寄せ、深く息を吐く。面倒なことになった。こんな任務、すぐに終わらせるつもりだったのだが。
アンドリューは自らもライフルを持ち、怒鳴り声を上げた。
「迎撃態勢をとれっ。敵がこちらに向かってきているぞ」
だがアンドリューは兵隊たちが何をしても無駄だとわかっていた。意力使いが数人いるが、どこまでやれるか。
「北から来るぞ、備えろっ」
兵隊たちが各々の武器を構える。全員が銃を支給されていた。迫撃砲の操作要員も射撃を中止し、ライフルを取り出している。何人かは携帯式のロケットランチャーを持ち出していた。自治領の戦闘車両に使う予定だったが、兵隊たちにも敵がアデプト級だということは伝わっていたようだ。
北の通りを見据えながら、兵隊たちは緊張した面持ちで遮蔽に潜み、その時を待った。
視線の先で、民家の壁が崩れた。兵隊たちの間にどよめきが走る。
アンドリューだけが、はっきりと見ていた。コートを赤黒く汚し、銃剣付のライフルを携えた男の姿を。マンデインには赤い線としてしか知覚できない速度で跳んでいる。壁を蹴る彼の表情は覆い隠されていて読み取ることはできない。
「う、撃てっ」
引きつった声で誰かが叫んだ。
ポリクラブの兵隊たちが赤い線に向けて引き金を引いた。多数の銃声が重なり合う。ロケットランチャーが火を吐き出した。白い尾を引きながらロケット弾が飛んでいく。
爆発音が轟いた。家屋を吹き飛ばし、割れ残った窓を銃弾が完全に破壊する。建物の二階から上がずれ落ち、地面に叩きつけられたのはアンドリューの意力攻撃によるものだ。埃と煙が通りを満たしていく。
一瞬の静寂。それを破ったのは眼鏡の青年が漏らした呟きだった。
「……やったか」
僅かに安堵の色を浮かべたその顔が、血飛沫に消えた。割れた眼鏡が宙を舞う。
空から降ってきた赤い影が銃床を叩きつけていた。爆煙に紛れていたため、アンドリューでも跳躍の方向を見切れなかった。いや、それよりも自分の攻撃をかわしたことのほうが問題だ。まぐれにしても殺すのが少し面倒そうだ。そう、ほんの少しだけ。
数十人の兵隊たちの半分は呆気にとられ、もう半分は恐怖を顔に張り付かせていた。動けたのは僅か数人だけだ。不測の事態に備えて手元に残しておいた数人の意力使い。そのうちの一人がライフルを撃った。赤い男の姿が霞む。意力使いの首筋から銃剣の切っ先が生えた。血まみれの男は低い姿勢で銃弾を掻い潜り、下から突き上げたのだ。圧倒的な意力差の前に障壁は意味を成さない。
「てめぇっ」
残りの意力使いが発砲し、あるいは剣を抜いて襲い掛かった。マンデインの兵隊たちは漸く銃を向け直している。
地面を揺るがして、赤い男は銃弾を飛び越えた。射手の一人が小さく呻いて倒れた。額に小さな穴が開いている。弾丸の一つを銃剣で打ち返したのを捉えることができたのはアンドリューだけだった。
剣を振り翳した意力使いの腕が飛ぶ。千切れたかのような雑な断面は、手刀を打ち込まれたためだった。二振りの手斧を構えた小男の胸に銃剣が突き立てられる。その背中を無数の銃弾が抉っていく。
血塗れで銃剣を振るう男は、マックスだった。ゴーグルの下で冷たい光を放つ目が、ポリクラブたちへ視線を巡らせる。
予備兵力とも言える意力使いを皆殺しにされても、アンドリューの心は揺るがなかった。意力使いでもアデプトでなければこの程度だ。期待はしていない。マンデインたちは武器を捨てて逃げるか、無駄な抵抗を試みて突き殺されている。
遠巻きに射撃していたポリクラブの目に、首にナイフが突き刺さった。破れかぶれで兵隊たちが突撃する。マックスの足が、地面から何かを跳ね上げた。手に掴む。木製の柄に五角形の幅広の刃がついたそれは、商店の軒先に置かれていたスコップだった。
二つの武器を両手に持ち、マックスは襲い来る兵隊たちを迎撃した。手足が飛ぶ。横殴りに振ったスコップが数人の頭をまとめて叩き潰す。同時に突き出された剣と槍をかがんで避け、銃剣を払う。脛を両断された男たちの悲鳴。続けざまにスコップを振る。腸が絡んだ鈍い縁が踊る。
やがて兵隊たちは戦意を喪失し、我先に逃げ出した。彼らの前に戦闘車両が無限軌道を軋ませて立ち塞がる。自治領の歩兵戦車だ。通常の戦車とは違い、比較的小口径の砲で敵歩兵及び機関銃陣地の排除を主目的とした兵器。
絶望に打ちひしがれるポリクラブたちへ向けて、砲塔が動いた。重い音を立てて砲が火を吹く。随行してきたドワーフたちも銃をぶっ放している。地面に蹲るポリクラブが爆散した。主力戦車ほどではないが、歩兵戦車は生身の兵士にとっては十分すぎる脅威だった。
そう、普通の人間であれば。
前進しようとする戦車の動きが突然、止まった。砲塔がずれて車体から転がり落ちる。腰から下が泣き別れになった操作員も一緒に。それと同時に、随伴歩兵たちの首も一緒に転がっていた。数秒遅れで身体がくずおれる。顔を出した車長の首がキューポラと一緒になって飛んだ。
「やれやれ」
なんでもないことのように、アンドリューは言った。
「大して役に立たんな、ポリクラブどもは。よもや俺が手を汚さねばならないとは」
手に持ったライフルを無造作に弄びながら、血塗れのマックスと対峙する。こいつを解体して、マルティンも始末せねばならない。ああ、本当に、面倒だ。
「面倒の前に聞いておこう。貴様は自治領の兵士ではないな。アルマーニュの者でもないだろう。どこの所属だ」
死体に囲まれたマックスは、首だけを動かして視線を向けた。血のついたレンズを拭う。返答はなかった。黙して語らぬまま、血塗れになった得物を構える。
「……寡黙な人なのだな、貴様は」
場違いとも言えるほど静かな声で、アンドリューは続けた。
「いいだろう、ばらばらにしてやる」
マックスの全身は血で染まっていた。見る限り、本人に負傷した様子はない。すべてが敵の返り血だった。銃剣とスコップの先端から赤い雫が垂れている。
そのマックスが先に動いた。二つの武器を手にアンドリューへと尋常ならざる速度で迫る。
得物が届く遥か手前で、マックスは横へ跳んだ。その背後にあった建物に、屋根から土台まで縦に傷が走っている。
「フムン、二度もかわすとはな。まぐれではなさそうだ」
言いながら、アンドリューは引き金を引いた。全自動射撃。敵影に向けて薙ぐように銃口を動かす。マックスは跳び退ってこれをかわす。
「ではこれならどうかな」
外れた弾丸の軌道が曲がった。再びマックスへと殺到する。上体をそらして逃れようとするが、何発かが意力障壁に当たった。跳ねる。
弾の軌道を変えたのは、アンドリューの意力作用だった。進行方向の空間を歪めて、弾丸を再突入させたのだ。初撃で建物を切り裂いたのは空間の断裂だ。その気になれば主力戦車すら破壊することができるし、この技を意力障壁で止められたこともない。
つまり、無敵ということだ。アンドリューは自身の意力作用に絶対の自信を持っていた。
それに相手は大した意力作用を持っていない。手に持った武器に攻撃を依存している。足技も使うが。弾がないのだろう、ライフルは槍、あるいは鈍器になっていた。射程に入らなければ問題ない。仮に懐に入られても空間を遮断してしまえばいい。
惨めな奴だ。アデプトでありながら身体強化しかできない愚かな敵。素早さもパワーも奴が優れているが、それだけでは戦いには勝てないのだ。無論、同情する気はない。敵は殺さなくては。祖国のために。
再度、空間の断裂を放つ。マックスはかわしながら手榴弾を投げつける。無駄だ。空間が歪む。明後日の方向で爆発する。
「さて、そろそろ終わりにしようか」
空間の断裂を警戒してか、高速移動を続けるマックスに対してアンドリューは高らかに宣言した。意力を集中させる。いまやマックスの周囲には数十筋の断裂が形成されている。それは、奴も気づいているだろう。気づかないはずがない。だが不可視の攻撃をどれだけかわせるか。
避けられるものなら、避けてみろ。
解き放つ、意力を。
瞬間、マックスの足元が爆ぜた。凄まじい土埃が立ち込める。地面を蹴ったのか。煙幕のつもりだろうか。いい判断だ。だが無意味だ。断裂が土埃の中心に向けて吸い込まれる。細かな粒子によるカーテンが切り裂かれていく。
そしてアンドリューは、マックスの真意を悟った。あの煙幕は姿を隠すためのものではない、と。
土煙を切らせて、断裂を可視化するためのものだったのだ。
全身が総毛だった。いや、だが、まさか……。いくら見えていても、かわせる、はずが。
逡巡は百分の一秒にも満たなかった。煙幕の中から身体を血で染めた男が飛び出してくる。
速い。これまでにない速度だ。まだ全力を出していなかったとでも言うのか。
舐めるなっ。怒りと、恐怖が、アンドリューの全身を駆け巡る。感情を意力に乗せるかのように、複数の断裂を形成し、放つ。
速度は落とさずにマックスが僅かに身を捻った。その右肩から鮮血が噴き出した。ライフルを持った右腕が、赤い糸を引きながら胴から離れていく。さしもの彼も突撃中に放たれた攻撃のすべてをかわせなかったのだ。アンドリューの会心の笑み。
だがその笑みは、すぐに曇った。
片腕を失ってもマックスは声一つ上げることなく突っ込んできていた。小さな、高い音が聞こえた。それが自分の喉から漏れた悲鳴だったと、アンドリューは意識できない。
眼前に迫ったマックスが左手に握ったスコップを振りかぶった。風切り音を響かせて迫るスコップは、しかし弾かれた。
「は、ははっ」
恐怖に染まっていたアンドリューの顔がほころんだ。空間遮断が間に合ったのだ。
「そ、そうだ、俺の意力作用は、無敵だ。お前の攻撃は、俺には届かない。見ていろ、時間をかけてじっくりとなぶり殺しに――」
片腕の男が、再びスコップを振りかぶった。
アンドリューは見た。見てしまった。ゴーグルの下で冷たい輝きを放つ灰色の瞳を。その中心で何かがぐるぐると渦を巻いているのを。
それは、狂気に似ていた。
攻撃は効かない。わかっていたはずだが、アンドリューは顔を歪ませて飛びのいた。正確には背後の空間を圧縮した。一瞬で数十歩分の距離をとった彼の顔の中心に焼けるような痛みが残っている。恐る恐る、手で触れると、そこにあるはずの鼻は存在しなかった。
マックスは力づくで空間の断裂を突破し、アンドリューの鼻先を削り飛ばしたのだった。
「ひああっ」
口から情けない呻きが上がった。今度の声ははっきりと認識することができた。自分を超える強者に対する、畏怖。
無敵と信じて疑わなかった自らの意力ではなく、アンドリューはライフルを選択した。腰だめに、撃つ。至近距離からの射撃。歪んだ空間を突き進み、弾丸があらぬ方向から標的へ襲い掛かる。銃弾が意力障壁で跳ねる。何発目かの弾がやっと疲弊した障壁を貫いて、マックスの身体を傷つけた。脇腹に穴が開く。
マックスのスコップが振られた。直後に、ライフルを持つ手に激痛が走る。ぼとりと、小さな肉片が転がる。それはアンドリューの人差し指だった。引き金を引く指を狙って打ち返してきたのだ。化け物、め。ライフルが手から離れ落ちた。
「ぐ、ううっ」
もう銃は撃てない。剣も握れないだろう。意力しかない。俺には、もう。
「かぁっ」
苦痛を振り切るように、アンドリューは叫んだ。不可視の刃が飛ぶ。剃刀のように小さな、しかし鋭い断裂。またスコップが動く。戦車すら切り裂く刃がただのスコップに片っ端から打ち落とされた。
「うおおおおおっ」
喉が潰れんばかりに叫ぶ。その声は悲鳴に近かった。
「こんな、奴に、俺の意力がっ、通用しないはずがっ」
マックスの周囲の空気が撃縮をはじめた。空間ごと握りつぶそうというのだ。やはりスコップが動いた。煙でも打ち払うかのように歪みが吹き飛ばされた。スコップが生み出した風圧がアンドリューの頬を叩く。
ゆらゆらとマックスが歩み寄る。荒涼とした空気を纏って、左肩にスコップを担いだまま。脇腹の銃創から弾丸が押し出された。傷はほとんど塞がりかけている。右腕付け根の傷口からは僅かな血が滴っているだけだ。
逃げ、なくては。逃走に移る、その前にマックスが距離を詰める。スコップが再び振られた。右足の脛から下が千切れ飛んだ。
「があああああっ」
アンドリューがよろめいた。倒れる。それでも彼は這って逃げようとしていた。その後ろでマックスがスコップをゆっくりと、振り上げる。
「な、何故だ……」
震えた声で、アンドリューは絶望を吐き出した。
「何故、俺が、こんな目に遭わなくてはならない。俺はただ、任務を忠実にこなそうとしただけだ。祖国のために戦うことは、そんなにいけないことなのか。愛するもののために、他のものを犠牲にすることが」
その顔は、疲労と、怒りと、苦痛で濁っていた。荒い息をつきながら、喉に何かが絡まったような湿った声で最後の言葉を搾り出す。
「愛なんて、そんなものだろう。みんなそうやって生きてるじゃないか」
脳天に五角形の鉄板が降ってきた。アンドリューの頭が圧縮された。血と脳が、スコップと地面との間からはみ出した。ぐしゃりと、致命的な何かが潰れる音。
マックスは振り下ろしたスコップを引き上げた。粘質な音を立てて鉄板が地面から引き剥がされる。その間にあったはずのアンドリューの頭部は、ほぼ原形を留めていなかった。飛び出た舌端だけが人の頭であった名残だった。脳も眼球も歯も頭蓋骨も、驚異的な腕力で砕かれていた。
ポリクラブの軍事顧問、アンドリューは死んだ。
その場にいたポリクラブたちは、遅れてやってきたドラゴンボーン傭兵やドワーフたちに助けを求めていた。あちらこちらから泣き叫ぶような声が上がる。
「こ、殺さないでくれっ。降伏するからっ。あいつを、はやくどっかにやってくれっ」
もはや戦う意気を持ったポリクラブは一人も残っていなかった。足元に縋りつく彼らを無視して、自治領の兵士たちは強張った表情を見せていた。その視線はマックスに注がれている。血塗れで、隻腕の、殺戮者。
当のマックスは何かを探すように右へ、左へ視線を彷徨わせ、やがて血塗れのスコップを捨てた。落ちていた自分の右腕を拾い上げ、疲れ果てた足取りでその場を去っていった。
それから漸く、自治領の兵士たちは安堵の息をついた。
◇
ドニは通りの向こうから誰かが歩いてくるのを認めた。
胸の傷は意力治療で塞がっていたが、体力までは回復していない。それでもドニは、街へマックスを探しに出ていたのだ。ファニアと、ダンケも一緒に。
破壊された家屋が並ぶ道を、彼はただ歩いていた。背格好はマックスに似ていたが、それが本人であるとはドニには思えなかった。口元を隠し、ゴーグルをかけた姿は彼の戦闘装束だが、深緑色のコートは赤黒く変色していた。血だと、すぐにわかった。右腕の裾は肩口から先がなかった。肩に走る赤く薄い線は切り離された腕を繋げた跡のように見えた。
普段の下らない冗談を飛ばす快活さも、戦いのときに見せる鋭さも、彼からはまったく感じられなかった。俯き加減で歩く男は何も見ていないようでもあった。
「……マックス」
確認するように、ドニはその名を呼んだ。
血塗れの男が動きを止めた。
「おぅ」
曖昧に答えて、身体中を赤黒く染めたマックスが挙手した。
「その、あんた、大丈夫なの。いろいろと」
濁した物言いでファニアが聞いた。声音から必死で恐怖を押さえつけているのがわかった。怖がってはいけないと頭では理解しているのだろう、それでも表情からぎこちなさは拭えない。
「ああ、問題ない」
マックスがゴーグルと口元を隠す布を取り去って素顔を見せた。灰色の瞳は昏く淀んでいた。声にも力がない。一体何があったというのか。まるで、別人だ。生きているのが不思議だった。
「とても、そうは思えない」
ドニが指摘し、続けざまに問うた。
「なんで、戦ったんだ。なぜ、そんなになるまで、殺した」
ギュンターに向かって、自分は言った。殺すのを楽しんでいないだけ、マックスたちのほうがましだ、と。あのときはそれが真実だと思っていた。だが、いまは。血塗れのマックスを見て、それでも同じことが言えるのか。きっと何十人と手にかけたに違いない。それでも。あの言葉が蘇る。楽しんでいなければ許されるのか。
本当に、殺しを楽しんでいないだけましなのか。ドニは彼の本質を見極めようとしていた。あいつと彼の、どこがどう違うのかを。
「守ろうとしたのか、ドワーフたちを」
「いや違う。結果的にはそうなったかもしれんが。俺はただ、当たり前の事実を確認したかったんだ」
言いながらマックスは瓦礫の上に腰を下ろした。深いため息を吐く。
当たり前のこととは何なのだろう。彼は以前、殴ったら殴り返されるのは当たり前だ、と言っていた。だがどうやらそのこととは違うらしい。何故、戦ったのか。何を確認しようとしたのか。ドニはそのことを問うべきか、迷う。そうさせる雰囲気を彼は纏っていた。ファニアとダンケも黙ってマックスを見ていた。
マックスは苦笑を浮かべながら、自分から言った。悲しい笑みだった。
「俺にも守りたい人がいた。ずっと昔に死んでしまったが。ちょうどこんな風に街が燃えてたっけな。あのとき俺が、いまぐらいに強かったら死なせずにすんだかもしれない。俺自身にも、もっと別の人生が、あったのかもしれない」
マックスは下を向いた。
「だが、無駄だった。似たような状況の無関係の誰かを助けても、世に蔓延るクズどもをぶち殺しても、死んだ人が生き返るわけではなかった。何かが変わるわけでもなかった。単純で、当たり前の理屈だ」
幾度目かの溜息をついて、マックスは言葉を切った。
「……すまない」
ドニはとっさに、そんなことを口にしていた。半端な慰めなど彼には何の意味もないだろう。それでもそう言わざるを得なかった。それぐらいのことしか、してやれない。かける言葉を持っていないのか、ファニアは黙ったまま俯いている。尻尾を地面につけたダンケの喉から悲しげな声が漏れた。
「謝る必要はないさ。こっちの問題だ」
俯くマックスの横顔は寂しげだった。
どこかで見たような、ドワーフの子供が駆け寄ってきていた。ダンケと遊んでくれた子供だ。やや遅れて、足を引きずった大人のドワーフが。女の子のドワーフは父親であろう彼を心配そうに見上げている。
「お兄ちゃんっ」
息を切らせながら、ドワーフの少年は血だらけのマックスを見た。表情が引きつる。だがそれは一瞬だけだった。
少年は血塗れで疲れた顔の自称傭兵に、精一杯の感謝の言葉をなげかけた。
「お兄ちゃんのおかげで、お父さんも、妹も、僕も、生きてるよ。助かったんだよ。ありがとう、本当に、ありがとう」
マックスの頬がくしゃりと歪んだ。泣きそうな顔。だが彼の瞳から涙は出てこない。泣いてはいけない、と自分に言い聞かせているかのように。
ドニが声をかける。
「マックス、泣きたいのなら、泣いたほうがいい」
「俺にその資格はない」
素っ気無く、マックスは言った。ドワーフたちは二人のやり取りを不思議そうに見ている。
「なら、俺がお前の代わりに泣く」
ドニの頬を、透明な液体が伝っていった。顎から垂れた水球が地面に落ちた。
「あなたの事情はよく、わからないけど、でも、うん、その、よかったんじゃないの」
ファニアはしゃくりあげるのを我慢しているようだ。声が震えている。
「ああっ、もう、なんで私まで。ワケ、わかんない、うっ、ぐすっ」
ついに彼女が折れた。目から大粒の涙を零し始める。
ドニは静かに泣き、ファニアは悪態を突きながら泣いている。ダンケは二人の様子を見比べて、それからマックスに駆け寄った。
「あ、あのときのワンちゃん」
少年と少女が屈託のない声を上げた。
それを見て、マックスは微笑を作った。少しだけ、疲れが癒されたようだった。




