For the greatest journey(2)
村に着くころには、ドニもフィリアンもすっかり疲れ果てていた。道端に身体を投げ出して冷たい汗を拭う。
視線を上げると、教会前の広場に人が集まっていた。神父と村長をはじめとした村の大人たちが、一様に不安げな顔で何事かを話し合っているように見えた。
息を整えて、ドニは立ち上がった。村長にオークのことを伝えなくては。
「ドニ!フィリアン!無事だったのか」
大人たちの一人がドニたちを見つけて声を上げた。ドニの父親だった。
「心配したんだぞ。村の外へ狩りに出かけると言っていたから」
ドニは父の言葉に違和感を覚える。村の外へ出るのに、何が心配なのだろう。オークのことはまだ話していないのに。
「俺は大丈夫だよ、父さん。それより、村長に話が」
「私に?」村長は今はそれどころではないと言いたげだったが、ドニの様子を見て表情を変えた。「なにがあったのかね?」
「オークだ。村の外にオークがいた。誰かは分からなかったけど、村人が一人殺されている」
大人たちの間に、どよめきが走った。
「それは本当なのか?」
「本当だ。俺も見たんだ。二匹いた」
戦慄きながらも聞く神父に、ドニの後ろでフィリアンが答えた。
神父は村長と顔を見合わせてから、「村の外へ出た者が、もう五人も戻ってきていない。一人や二人なら、道草を食っていると思っていたが……まさかオークとは」
「五人も行方不明なのか!?」フィリアンは飛び上がるような勢いで言った。「そ、その中にフルールは!?」
「いや、まだその様な話は来ていないが」と神父は頭を振った。
報告が遅れているだけではないだろうか。
そうドニが思ったときには、「ちょっと彼女の家に行ってくる!」と言ってフィリアンは駆け出していった。
「どうしましょう、村長」
「と、とりあえず全員に、村の外へ出ないように伝えるんだ。それから、村で銃を持っている者、力のある者、若い男を集めて自警団を組織しよう」
「……行方不明者の捜索は?」別の大人が言った。わずかに言いよどんだのは、彼らが生きている見込みが限りなく薄いと分かっているからだろう。
「町へ行って、役人に伝えよう。そうすれば兵隊が来て、オークなんかやっつけてくれるさ」また別の大人が言う。
「誰が行くんだ。途中でオークに捕まるかもしれないんだぞ」
大人たちは喧々囂々の言い合いを始めた。いいや、それぞれが勝手に自分の中の不安や恐れを吐露しているだけだ。家では頼りがいのあるドニの父は、流石に息子の手前とあってか喚き散らすようなことはせず、渋い顔で押し黙っている。
「父さん」
「大丈夫だ、ドニ」落ち着かせるような声色で、ドニの父は答えた。「ジョアンも母さんも、ちゃんと家にいる。お前が心配するようなことは何もないからな。ここは大人たちに任せて、家に戻っていなさい」
「でも村長はいま、力のある者を集めるって」
ドニは腕相撲で一度も負けたことがない。背は父よりも高い。
「それは話がまとまってからだ。それまでは私たちで何とかするから、家に戻りなさい」
「……わかったよ、父さん」
村のために何かしたかったが、父はそれを拒否した。自分を気遣ってのことか、それとも子供扱い、なのだろうか。あるいは両方か。
ドニの足は、家へと向いていた。これから村はどうなるのだろう。村長は自警団を作ると言っていたがうまく機能するか怪しいものだ。
とりあえず村の守りを固めて、それからどうするのか。衛兵を呼びに行くにしても、役人はたいそう仕事熱心だから、あれこれ難癖をつけて出兵を引き伸ばすことだろう。重い腰を動かすまでに何人死ぬだろうか。それはオークどもの胃袋のみぞ知る、か。畜生め。
駆けるような足音に気づいたドニは、顔を上げた。血相を変えたフィリアンが背中に銃を、脇に鞄を抱えて走っているのが見えた。
「フィリアン!」ただならぬ様子を感じたドニは、彼を呼び止めた。「どこへ行くんだ?」
「ドニか。まずいことになったんだ」
立ち止まったフィリアンは、肩で息をしながらそう言った。短い言葉の中から、ドニはそれが意味することを即座に感じ取った。
「……まさか」
「そうだよ、そのまさかだよ。フルールがまだ家に戻ってこないって。いつもだったら帰ってきてもいいはずなのにって、彼女の母さんが言ってたんだ!」
「探しに行くのか」
「当然だ! きっと今頃、奴らに捕まってるに違いない。手遅れになる前に助けに行かないと」
「まだ彼女がオークに遭遇したって決まったわけじゃないだろう。いまは下手に動かずに、村で待つべきだ」
「止めたって無駄だ。俺は行くぞ」
「無茶だ。死にに行くようなものだぞ」
「フルールが死んでもいいのかよ」
「そうは言っていない」
「同じだよ」
走り去ろうとするフィリアンの肩を掴んだ。
「離せ」フィリアンは振りほどこうとしたが、ドニの手は肩にがっちり食い込んで離れない。
「離すもんか。いま、お前は冷静さを失ってるんだ。落ち着いて考えてみろ。オークどもは何十匹といるんだぞ。お前一人で、何ができるっていうんだ」
そう言いながら、ドニはフィリアンの背中の銃に意識を移していた。その銃口は空を向いていたが、興奮したフィリアンがそれを自分に向けてこないとは限らない。なぜか、ドニはそういう空気を感じ取っていた。
なあ、フィリアン。俺たち友達だよな? そんな危なっかしいもの俺に向けたりはしないよな? お前は撃つ気はないかもしれないけど、万が一にでも弾が出たら、俺はどうなってしまうんだ?
フィリアンの手が、銃の握把に伸びていく。ドニはそれを止めることも、声を出すこともできず、見ているだけだった。
「なあ、そこの兄さん方」
猟師の指先が銃に触れる前に、聞きなれない声が二人を射抜いた。
いつからそこにいたのだろう、わずか数歩という距離で、一見旅人風の男がドニたちを見据えていた。
「……誰だ、あんた。村の人間じゃあないな」
銃を掴もうとしていた手を下ろし、しかしフィリアンは威嚇するような口調で言った。
フィリアンは男の返事を待たずに、重ねて聞いた。「旅人か?」
旅人風の男はわずかに逡巡してから、「似たようなものだよ」と答えた。
ドニは、声に出しこそしなかったが、旅人風の男から異様な臭いを嗅ぎ取っていた。旅人とは何度も会ったことがある。キャラバンもだ。この男は、そのどれとも違う。それだけは確信を持って言える。
男は灰色の帽子を被っていた。前面のみにつばがついた、変わった形だ。同じようなものをキャラバンの人間がたまに被っているのを見かけるが、つばの上に逆三角形を二つ繋ぎ合わせたような形の、透明ななにかを乗せているのは初めて見る。
目の周りは鼻の部分に切れ込みの入った、黒い長方形のようなものが覆い隠していて、その下の彼の表情を窺い知ることはできない。目隠しかとも思ったが、どういうわけか、彼はこちらをはっきりと視認しているようだ。
顎には無精ひげが薄く浮いていたが、顔の輪郭が引き締まっているせいか、さほど不潔な印象は受けなかった。
首元には襟巻き様のものを巻いているが、季節柄、どうもおかしい。熟視してみると、普通の襟巻きよりもずっと薄い。装飾として身に着けているのかもしれない。
男は深緑色の外套らしきものを羽織っていた。生地はやはり薄手で、防寒ではなく埃や泥除けを目的としたものだと分かる。
"らしきもの"というおまけがくっつく理由は、二つ。
その一つは外套の胸から腰あたりにかけて、小物入れがいくつもついているからだ。どうやらそれらは外套に縫い付けられた平たい帯にくくりつけられているらしかった。何本もの帯が並んでいて、横縞模様を作っている。それらの小物入れは、大きさはまちまちだが、銃の弾を詰めておく箱―――弾倉を入れておくのにちょうどよさそうなものが、特に目を引いた。
外套の肩や肘の部分には皮革の補強が入っていて、左肩には短刀がくくりつけられているのが、理由の二つ目だ。そのおかげで、彼の着ている外套は即席の鎧のように見えた。
腰には、外套の上から太めのベルトを巻いていた。ベルトの右側には革製の包みらしきものが吊られており、その中から湾曲した何かの柄らしきものが突き出ている。
下衣は、大腿部側面に物入れがついている以外には、特筆すべき点は見当たらなかった。形それ自体はいたって普通のズボンだ。
指はちゃんと五本そろっていて、四本でなければ六本でもない。
こいつはきっと大きな鞄や背負い袋のない地域や文化圏から来たに違いない、とドニは考えた。そうでなければこんなに沢山の物入れを服にくっつける必要はないし、その証拠に、男は旅に欠かせない鞄や袋を持っていなかった。食料も水も何から何まで服と一緒に身に着けるなんてばかげている。
鞄の変わりに、男は剣呑な代物を背負っていた。よく分からないものばかりを身に着けた男だったが、それは何度も見たことがあるし、いまもドニのすぐそばにある。
銃だ。フィリアンのそれとは形が若干異なるが、武器であることに変わりはない。
旅人が護身用に武器を持つのは珍しいことではないが、その出で立ちとも相俟って、男がいよいよ怪しく見えてくる。外国から来たと考えるのが一番自然だが、アルマーニュから来る旅人やキャラバンだってこんな格好はしていないし、彼らはちゃんと鞄や袋を持っていた。
だから、こいつはそれよりももっと遠くから来たのだと、ドニは結論付けた。
「何の、用だ?」
フィリアンの肩から手を離し、興奮を隠しながらドニは男に問いかけた。
「お宅ら、この村の人間だよな?ちょいと取引したいんだが」
「取引?いまはそれどころじゃない」とフィリアン。
「喧嘩で忙しいのか?まさか痴情のもつれが原因じゃないよな」
男が本気で言っているのか、ふざけて言っているのか、ドニにはわからない。
「あんた、馬鹿にしてるのか?」腹に据えかねた様子で、フィリアン。
「そんなに怒るなよ。真面目な話、村の様子がおかしいってのは分かるが」
「……旅人さん、あなたは見たところ、銃を使えるようですが」気を取り直すように、今度はドニが聞いた。
「これか?」男は背負っている銃を指して、「まあ、それなりに」
「あなたのお察しのとおり、村はいま、大変な状況にあります。よければ、村長に会っていただけませんか?」
男はすぐに答えた。「構わない。案内してくれ。そっちのほうが話が回りそうだ」
ドニは、ついて来て下さい、と言い、教会へ歩き始めた。二、三歩進んでから振り返り、「フィリアンも来てくれ」
複雑な顔を見せてから、フィリアンは渋々ドニに従った。
この男の登場は、ドニにとって僥倖に他ならなかった。彼は暴走寸前のフィリアンに、うまい具合に冷水を浴びせてくれたのだから。
「村長!」教会に集まった人だかりに、ドニは手を振った。
「ドニ、家に―――その人は、誰だ?」
先ほどと同じように、ドニの父が最初に反応を返した。
「やあ」と男はドニの後ろで小さく挙手し、「村に何か問題があるみたいだな」
大人たちは会議を中止して、男に目を向けた。
「村長はどなた?」
男は視線を受け流しながら、大人たちの前に歩み出た。
「私です」
「さっき、そこの村人に」ドニの方を一瞥して、「厄介事があると聞いてきたんだが。よければ力を貸そうか?」
「それは、ありがたいことです。失礼ですが、お名前は」
「……マックスだ」
「ふむ、マックスさま」それまで男をじっと観察していた神父が割って入った。「あなたはもしや、傭兵ではないでしょうか?」
「そうだな、それが一番正解に近い。流しの傭兵だ。あちこち旅しながら仕事をしている」
「父さん」会話の邪魔をしないように、ドニは小声で聞いた。「傭兵って、何?」
「金で雇われる兵士のことだ」
「役人と一緒に来る兵士も、お金をもらってやってると思うんだけど、何が違うの?」
「兵士は自分の国のために働くが、傭兵はそうじゃない。金を払うのなら誰とだって契約する」
雇われる相手が国だけかそれ以外の違いだと、ドニは理解した。同時に、そんな生き方があるものなのかと、感心した。自分では絶対にやりたくないが。
「まずは詳細を聞かせてくれないか……ああ、こりゃ失礼」
マックスと名乗った男は、帽子を脱いで、目の周りを隠していた黒いものを外した。ドニは彼の素顔を見て、うすうす感づいていたことだが、自分と同い年程度だと知った。
「……お若いのですな」と村長。まだ若い彼にこの厄介な仕事を頼むことに、一抹の不安を感じているようだった。
「そうか?俺より若い兵士なんて沢山いる。それで、詳細は?」
「はい」頷いて、村長は話しはじめた。「今日……つい先ほどのことです。村の外に出た者たちが五人……いえ、六人、行方不明になっています。いつもなら帰ってくる時間なのに、一向に戻ってこないのです。そこに、村の周辺でオークを見かけた、との報告がありまして」
マックスは無言で村長に水を向けた。
「村には銃はたったの三丁。女子供や老人もおります。私たちだけで村の近くに引っ越してきた、この野蛮な隣人に対処するのは困難なのです」
「で、俺にそのオークどもをどうにかしてほしい、と」
やおら村長は頷いた。
「傭兵は団体で行動することが多いと聞きます」と神父。「よろしければ、村にとどまり、正規兵が到着するまで、あなたのお仲間とともに村を守っていただきたいのです」
「いいや、それは無理だ」とマックスはかぶりを振った。「俺は徒党を組んじゃいない。一人だよ」
「なんと……」
神父の表情に暗い影が落ちた。彼は、ある程度の規模の傭兵集団の交渉役として、マックスがやってきたのだろうと考えていた。彼の経験では、傭兵とはそういうものだったからで、少なく見積もっても他に仲間が二、三人はいるだろうと踏んでいたのだ。
「一人で村全部を守るのは無理だ。それに援軍が来るまでのんびりしてるのもごめんだ」とマックスは言う。「だから、先手を打って皆殺しにする」
皆殺し、だって? マックスの口から飛び出してきた物騒な言葉に、誰もが驚いた。
それがどれだけ無謀なことか、ドニはよく知っている。ほとんどの場合、オーク・クランを安全に壊滅させるには、訓練を受け装備を整えた兵士がオークと同数、あるいはそれ以上必要だと言われている。
にわかには信じがたい話で、その場の全員がマックスを疑惑の目で見ていた。しかし当の本人からは、嘘をついている様子は微塵も感じられない。
「それでいいか?」
言葉を失っている村長に、マックスは確認するように言った。
「ええと、その」
「"行方不明者"の生死の確認もやるよ。生きてたら連れて帰る」
「マックスさま。あなたの言っていることは、われわれには少し、現実味を欠いています」と神父が村人の言葉を代弁した。
「聖職者は正直だな。信用できない、というのも分かるが、あんたら他に頼るものもないんだろう」とマックスは切り返す。
「仰るとおりですが」
「食われるのをただ待つよりはよっぽど前向きだと思うけどな」
言い方は辛辣ではあるものの、マックスの意見は正論だとドニは思った。
「それに、こうしてる間にも助けられる奴も助けられなくなるんだが」
むぅ、と村長は唸った。
「分かりました、あなたにオークの討伐を、村として正式にお願いいたします」
「よしきた」
「その前に、最後に一つだけお聞きしたいことがあります」
「うん?」
「見てのとおり、ここは小さく、貧しい村です。報酬は大したものは出せないのですが……」
「なんだ、そんなことか」
マックスは、服に親の仇のように取り付けられた小物入れの一つから、小さな本と鉛筆を取り出した。そして手早く何事か書き付けると、その頁を村長に切って渡した。
「帰ってきたらでいい、そこに書いてある品物を用意してくれ。そうだな……オークどもを始末した証拠と引き換えでどうだ」
村長は紙と、マックスの顔を交互に見比べた。
「こ、これでよろしいのですか」
「不満か?」
「いえ、滅相もありません」
マックスが提示した物は何なのか、ドニには分かりかねた。
「決まりだな」マックスは帽子を被りなおして、「行方不明者たちが最後にどこへ向かったか、わかるか」
「主に、村の西から南西にかけて、でございます」
「分かった。念のため、全員村から出るな。外出も控えろ。家には鍵をかけておけ」
「これから行かれるのですか」
「そうした方が助けられる可能性は高い。夜には戻るさ」
近所に出かけてくるような口ぶりで言うと、マックスは背を向けて歩き始めた。
「なぁ傭兵さん!」その背中にフィリアンが声をかけた。「女の子が一人、いるかもしれないんだ! 絶対に、連れて帰ってきてくれよな!」
少しだけ足を止めて、「覚えておくよ」
マックスは振り返らずに、歩き出した。