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For the greatest journey(1)

 ドニは午前中の畑仕事を早めに切り上げて、鍬を置いた。


 農具を片付け、畑を離れる。今日はもう畑には戻らないつもりだった。午後の仕事は、父と弟に任せてある。


 小さな村だった。たまに訪れる旅人やキャラバンと食料などの必需品を取引し、収穫期に開かれるささやかな祭りを最大の娯楽とする場所だった。


 村には小さな教会があった。ひときわ高い尖塔は、村のどこにいてもよく見えた。それがいつごろからこの場所にあるのか、ドニはよく知らない。自分が物心ついた頃にはそこにあって、年老いた男が一人で運営している。村の大人たちは彼を神父と呼んでいた。


 ここを聖女の生まれた地と呼ぶ彼は、そこに住む人々に一神教会の教えを届けるため、総本山のある南のロムルス共和国からはるばるやってきたのだという。一神教会は大陸中至るところに信徒を持つ宗教組織だが、それは彼のような末端の活動あってこそのものだった。


 聖女云々は村人の誰一人として知らなかった。というのも、村人たちは過去の歴史については無頓着で、過去よりも現在、そして未来を重要視していた。過去の事件よりも明日の天気、特に作物の方が大事なのだ。神父自身も古い文献に残るわずかな記述を見ただけで、聖女伝説の詳しい内容は杳として知れないが、謎に包まれいるからこそ、かえって神父の宗教的情熱に火をつけたのだった。


 そんな神父は、村で一番物を知っているし読み書きもできるから、みんなに頼られていた。ドニもその例外ではなかった。


 八年ほど前だろうか、旅人と取引をしたとき、彼はおまけとして一冊の本をドニによこしたことがあった。


 父も母も、当然ドニも字を読むことができなかったが、何が書かれているのか無性に気になり、本を持って教会へ向かったのだ。


 神父は快く、ドニに読み書きを教えてくれた。ただ彼に問題があったとすれば、教材に宗教的な本を選択したことだった。おかげで、書いてある内容は理解できても、その意味まではさっぱりで、勉強は退屈になりがちだった。


 そんな中でも印象に残る話がないわけでもなかった。その一つが、"神の稲妻"だった。いわく、かつて人間たちは地上に優れた文明を築いていた。しかし我こそは万物の霊長と驕り高ぶり、神を敬う心をすっかり失ってしまった。神は怒り、地上に無数の稲妻を落とした。結果、一昼夜と経たず、その文明は崩壊したという。裁きが下されたとき、生き残った人間の中で心の醜い者はオークに変えられてしまい、心の清い者、信仰心を完全に捨てていなかった者たちは人間のまま、あるいはその心に見合った別の種族になったというのだ。


 ようするにこれは、神を信じ清く正しく生きよ、という教会の教えを物語に落とし込んだものだとドニは理解した。つまるところただの御伽噺なのだが、どういうわけか神父はこの一節を痛く気に入っており、何度も読み聞かせたものだった。


 ともあれ、ドニは神父の力添えによって、読み書きを覚えることができた。


 旅人がくれた本は、共和国から南西に位置する半島王国の砂漠地帯を旅した男の旅行記だった。男は駱駝……どうやら馬に似た生き物、らしい、に乗り、砂漠を気ままに歩き回ったそうだ。


 砂漠とは何だろう。まずドニが興味を引かれたのはそこだった。記述による限り、そこは暑くて、埃っぽくて、木が一本も生えていないらしく、村で育ったドニにはとんでもない場所のように思えた。そんな場所には人など住んでいないのだろう。


 ページをめくると、ドニの予想は外れていた。本の著者は、砂漠の民と接触していたのだ。まさか、そんな所に人が住んでいるなんて。


 いつごろから砂漠に住むようになったのか、砂漠に住む前はどこにいたのか、あるいはずっとそこにいたのか、砂漠に留まる理由があるとしたらそれは何なのか。食事はどうしているのか。暑い場所だというのなら、水はどうしているのか。川は流れているのか。服はどうなっているのだろう、やはり俺たちより薄着なのだろうか。どんな形の家に住んでいる? そもそも、木がないのにどうやって家を建てるんだ? レンガや石だけで家を作るのだろうか。


 本を読み終わるころには、ドニの頭の中はそうした疑問で一杯になっていた。


 それを皮切りに、ドニは旅人や行商人から本を買うようになった。


 書物によって与えられた知識は、少年の好奇心を激しく刺激し、やがて外の世界への憧れへと姿を変えていくのに時間はかからなかった。いつかこの村を出て、本に書かれているような場所を見てみたい。できることならば、今まで誰も見たことのない景色を見てみたい。


 それがドニの夢であり、人生の目標であった。



 待ち合わせ場所である村のはずれには、猟師のフィリアンが待っていた。


「おっ、来たな」


 やや面長だが人好きのする顔立ちのフィリアンは、待ち侘びていたかのように言った。


「今日はどこまで行くんだ?」

「西の池あたりまで行こうと思ってる。あそこは鹿たちの水場になってるからな」


 ここ最近、ドニはフィリアンの狩に同行することが多かった。少しでも村から離れられる……外の世界に近づきたかったから、半ば無理を言って頼み込んだのだ。仕留めた獲物を運ぶくらいのことはドニにだってできる。


「いい鹿が獲れるといいな」とドニ。

「ああ、鹿と、雉も仕留めたいな。お前のとこの野菜と一緒にスープにしようぜ」


 フィリアンは肩の仕事道具を担ぎなおして、村の出口へと歩き始めた。


 銃、火薬の力で金属の弾丸を発射する道具だ。


「おう、フルール。どこへいくんだい」


 道の向こうからやってきた少女に、フィリアンは軽く挙手してみせた。


「おはよう、フィリアン、ドニ。今日はこれから山菜取りに行くところよ」

「やぁ、フルール。山菜だって?」


 半ばあわて気味に、ドニも挨拶を返した。


 村の大人たちの憩いの場である酒場の一人娘にして看板娘のフルールは、ドニより1つ年下で、気立てがいいと評判だった。村の男なら大抵が一目置くほどの器量良しで、見る限りではフィリアンもその一人のようだ。


 ドニもフルールに対して好意を持っているのは自覚していたが、それはただ単に可愛い、とか、綺麗だ、程度のもので、はっきりとした恋愛感情かと聞かれると、正直なところわからない。


 今だって、さぁ、見るがいい。太陽の下で揺れる彼女の蜂蜜色の髪と澄んだ瞳を。若い男性が好意を抱くには十分すぎるではないか。


 しかし、それでもドニは、彼女に好意を伝えてどうこうなりたい、という気持ちは、不思議なことに沸いてこない。他の男たちに遠慮しているわけではないが、ならば何故だろう、とドニは自問してみる。真実に最も近い答えは、彼女が美しすぎるからだろう、と考えた。


「そう、山菜。それから、お父さんが最近腰を悪くしてね、湿布を作るのに薬草も」

「薬草は森の奥のほうまで行かないと取れないんじゃないか?」


 フィリアンは続けて「よければついていくぜ」と提案した。


「ありがとう、でも大丈夫。これまでも薬草は一人でとってこれたし、あなたたち、これから狩でしょう?」


 フルールはやんわりと断った。こうでなければ、客は見知った顔ばかりとはいえ、酒場の娘は務まらないのだろう。


「じゃあ、良い狩を。がんばってね」


 離れていくフルールの後姿を、フィリアンは名残惜しそうに眺めていた。


「俺たちも行こうぜ、フィリアン」ドニは元気付けるように肩を叩いた。狩に出る以上、手ぶらで戻りたくはない。

「あ、ああ。そうだな。行こう」


 半ば放心状態から回復したフィリアンに少しだけあきれつつ、ドニは教会の鐘の音を聞きながら、狩への期待を胸に村を出た。



 動物の皮をなめして作った簡素な靴が緑の絨毯を踏みつける。日の光は木の葉越しに優しく降り注ぎ、その中を小鳥たちが歌いながら羽を休めている。だいぶ歩いたが、目的地である西の池まではまだ遠い。


 この辺りでは、まだ獲物らしい獲物を見つけることはできなさそうだったが、フィリアンの目は油断なく周囲を見回している。狩には危険が付きまとうからだ。そこの茂みから、いつ猪が飛び出してくるかわかったものではない。


 歩きながら、ドニは考える。まったく、体ばかりが大きくなってしまった。昔はそうでもなかったのだが、気づいたら大男だ。自分がこうもたくましく育ったのは、なんらかの理由があるのではないかと、迷妄じみた考えがドニの頭にわいてくる。


 まさか、あの本を読んだことがきっかけではないだろうか。思い起こせば、自分の身長が伸びていったのは外の世界を知ってからのような気がする。自分の好奇心に呼応するかのように。


 あれからなにが変わっただろう? 体は大きくなり、未知の世界への思いはまだ失っていない。


 だが、ただそれだけだ。俺は今まで何をしてきたろうか。朝起きて、畑を耕し、飯を食い、ときどきこうやってフィリアンと狩りに出る……何かを慰めるように。それはつまり、こういうことだ。なあ、ドニよ。外の世界を見たいんだってな。お前には無理だよ。旅に出たって、すぐに野垂れ死にさ。悪いことは言わないから、村にとどまって平和な人生を送ろうじゃあないか。外への思いとやらは、こうして狩りに出てしまえば少しは満たされるんだろう? なら、それでいいじゃないか。


 ドニは自分自身とその臆病さに落胆した。まったくそのとおりなのだ。村の生活は嫌いではないし、父や母、弟もいる。フルールはきれいだし、村の収穫祭では旅芸人たちがやってきて騒がしくも祭りを盛り上げてくれる。そんな小さな幸せを由としている自分がいる。やがて村の誰かと恋に落ちて、結ばれて、家庭を持ち、いまは鮮やかに咲き誇る憧憬も時間とともに色褪せてゆき、そして老いて死んでいく。そんな未来を受け入れてもいいと感じている自分が確かにいるのだ。


 いまはただ、村を出て外の世界を見たいという気持ちのほうが強いだけで、いつの日か、それが薄れてしまうことを、ドニは恐ろしく思った。時間は残酷で、強力な怪物だ。どんな熱意も削り取って萎ませてしまう。


「待て、ドニ。止まれ」不意に、フィリアンが声を発した。囁くような小さな声だが、緊張感が多分に含まれている。「隠れろ。向こうで何か動いた。大きい。鹿じゃあなさそうだ」


 言うとおりに、ドニは屈んで茂みに身を隠した。フィリアンも木の陰に体を寄せる。


「少し遠いな。まだこっちには気づいてなさそうだ」

「猪か?」

「いや、違う、と思う。何か動いたのが見えただけだったが……かなり大きい、というか、背が高い」


 フィリアンは獣ではなく、人間かもしれないと思っているようだ。


「近づけばよく見えるかも」

「駄目だ。下手に動いて、熊だったらまずい」


 万が一のときのため、狩りに出る猟師は熊撃ち用の弾を持っていくのが普通だ。フィリアンは相手の姿を見極めようと、じっと動かない。距離は十分にあるように見えるが、熊は意外なほどに素早い。仮に熊だとして、二発目を撃たせてくれるだろうか。


 不動の姿勢を崩さないフィリアンに倣い、ドニも息を殺している。


 生きている熊を相手にするのは初めてだ。つい先ほど感じた残酷な未来への恐怖はすでに胸中になく、ドニは確かな興奮を感じていた。


 フィリアンは、音を立てぬよう努めて弾を銃に装填し、射撃準備を整えた。目標を確認できない以上まだ撃てないが、備えておくに越したことはない。


 動きがあるまで、じっと待つ。狩猟とは獲物と、それを仕留める機会を待つことに他ならない。握り締めていた手の内側が、じっとりと汗で濡れているのをドニは意識した。見ている自分ですらこうなのだから、フィリアンの緊張はそれ以上だろう。


 長すぎる数秒間の後、相手が姿を現した。新緑の隙間から姿を覗かせたそれは、しかし熊ではなかった。


 一見、人間のような形をしているが、肌はくすんだ灰色で、頭髪は遠目からでも分かるくらいごわごわだ。顔つき……目や鼻のつき方は人間のものと同じだが、奇妙なまでに釣りあがった双眸や、下あごから大きく突き出した牙は獣のそれだ。体格も大柄で、手足や肩の筋肉は隆々としている。身に着けている粗末な布切れには、ところどころどす黒い染みが浮かんでいる。ごつごつと節くれだった手には弓を、背中には矢筒を背負っていた。


 未知との遭遇に、フィリアンはまったく浮き足立っていた。


 その一方で、ドニは固唾を飲み込み、その生物を観察し続けていた。知識の中に、それと合致する特徴を持つものを見つけたからだった。


「なんだ……あれは」フィリアンが荒くなりそうな呼吸を押さえながら言った。「なんか、やばくないか。撃っちまうか」

「待ってくれ、あれはオークだ」


 オークは人間ではない、とは必ずしも言い切れないと、ドニは知っていた。村にオークはいないが、他の大きな町では、人間や、翼人や、ドワーフたちと同じように文化的な生活を営んでいることもある。また、ごく稀にではあるがオークは先に挙げた他の種族たちとの間に、子孫を設けることさえあった。


 だから、現状については、町に住んでいるオークが、ほんの気まぐれでこんな田舎に狩りにやってきた、という考えも成り立たないわけではなかった。


 だが、ドニはオークの様子を見て、その希望的観測を否定した。少なくともあのオークには、知性や理性を感じ取ることができなかったからだ。彼の立ち居振る舞いは、飢えた獣を思わせる。


 オークには、肌が白いもの、黒いもの、赤銅色のものなどといった、固体による体色の違いはあれど、それが理性の有無を分けることはない。それは彼らが属するクラン……すなわち、育った環境が決定する。町に住むオークはやはりある程度の社会性を獲得するし、その逆も然りだ。


「まだ撃っちゃ駄目だ」窘めるようにドニは言った。「仲間が、いるかもしれない。見つかったら俺たちが狩られる」


 得物を見るに、あのオークは狩りの途中らしかった。


 凶暴なオーク・クランの生態について記した書物は言う。オークは通常、二人以上の集団を複数個出して食料の収集……狩りを行うと。


 仲間はどこにいるのか。ドニは視線をめぐらせた。右か、左か。もしやすでにそいつは自分たちに気づいていて、悪臭のする吐息を撒き散らしながら背後に迫っているのかもしれない。


 フィリアンも同じことを考えていたのだろう、ゆっくりと振り向いて、後ろを見る。幸いなことに、そこにオークはいなかった。


 オークに視線を戻して、「狩られる?俺たちが?」

「野蛮なオークどもにとっては人間も狩りの対象だ」

「おい、待てよ。そんな奴が他にもいるっていうのか。いや、そもそもなんでこんなところに」

「多分、どこかからクランごと移動してきたんだと思う。オークは群れを作るから」

「マジかよ畜生、熊のほうがよっぽど可愛げがあるぜ」

「オークは食えないからな」

「お前、度胸あるよな。殺されるかもしれないんだぜ、あいつに。怖くないのか」

「冗談でも言わないと漏らしそうなんだ」


 ドニは汗だらけの掌をフィリアンに開いて見せた。


「ビビってるのが俺だけじゃなくて安心したよ」


 苦笑いするフィリアンだったが、言い終った次の瞬間にまた表情が引き締まった。


「……何か来るぞ」


 猟師としての生活が培った鋭さが、動きを察知した。件のオークが、何かに気づいたように頭を動かしたのだ。まさか、見つかったのか。


 オークの頭の向く先を辿ると、そこには彼の同族がいた。何かを引きずるようにして、ドニたちが見ていたオークに近づいていく。


「奴の仲間か」

「手に何か持って―――うっ!」


 目を見開いて、フィリアンは呻いた。口元を手で押さえる。ドニにもその理由がはっきりとわかった。オークが引きずっているもの。あれは、人間だ。血に塗れて動かない、人間の死体を、そのオークは引きずっていた。


 死体が誰のものなのかは、顔が血でぐちゃぐちゃになっていて分からなかったが、村の人間であると見て間違いなかった。この辺りでは、他に人間は住んでいない。


 フルール。村を出る前に出会った少女の名が、頭をよぎった。彼女は山菜取りに出かけると言っていた。ドニは彼女が犠牲になったのではないかと疑ったが、死体の体格からして女性とは考えにくく、そのことが分かったドニは胸を撫で下ろし、そして犠牲者に申し訳なく思い、心の中で詫びた。


「だ、誰だあれ……もう死んでるのか」


 フィリアンの声は震えている。


「そう、みたいだ」


 死体を目にするのは、初めてではなかった。だがそれは、眠るように逝った老人の穏やかな死に顔であり、かくも無残な惨殺死体ではない。


 これからオークはあの死体を持ち帰り、首を落とし、皮を剥いで、肉を切り分けて、何が入っているのか想像するのもおぞましい鍋に放り込むのだろう。いいや、そんなまだるこしいことはせずに、そのままかぶりつくのかもしれない。自分たちがやるように、塩漬けにするかもしれない。


「クソッたれ化け物め」フィリアンは銃床を肩につけて、射撃姿勢をとった。「その薄汚ぇ顔を吹っ飛ばしてやる」

「駄目だったら。落ち着いて」


 ドニは思惟を打ち切って、フィリアンを声で制止した。


 彼の気持ちはよく分かった。ドニも、せめて彼の亡骸を取り戻し、神父に弔ってもらいたいと思う。彼はオークになど出会わなければ、遠い未来か、あるいは数年後かもしれないが、他の村人と同じように家族に看取られて死に、墓に埋葬されるはずだったのだ。


「なんでだよ。あいつらほうっておいたら、今度は村に来るぞ」

「だからこそだ。ここはやり過ごして、村にこのことを知らせないと」


 腕っ節には自信があるドニだったが、しかしそれがいま、この場で役に立つとは到底思えなかった。フィリアンの射撃の腕は確かだが、それだけでは不十分だ、とも。首尾よくあのオークたちを倒せたとしても、撃てば銃声が響く。銃声は近くにいるかもしれない他のオークの耳に入るかもしれない。


「やり過ごすんだ。あいつらが去るまで待とう」


 よくもまあ、こうも冷静な判断ができるものだと、ドニは自分自身に驚いていた。怖くないわけではない。今だって、気を抜けば歯ががちがち鳴りそうだ。


 村にいる父や、母や、弟たちを思うと、大きすぎる心拍音とあふれ出る汗で押し流されてしまいそうなほどちっぽけな正義感―――自分が所属する共同体に対する義務感と言い換えてもいい、が浮き上がってきて、ドニは危ういところでそれを繋ぎとめているにすぎない。


 この命綱がなければ、ドニは自分の内部に息づく一つの感情に、なにもかもを明け渡してしまっていたかもしれない。それとは幼いころからの付き合いであったが、このときばかりはその言葉に耳を傾けるわけにはいかなかった。


 二匹のオークは、二言三言、言葉を交わすようなそぶりを見せると(オークはときたま、そのクランだけで通じる言語らしきものを構築する場合がある)、森の奥へと消えていった。


「行ったのか?」

「狩りの成果に満足したんだろう」


 同じく、オークの生態を記した本によれば、成人男性一人を食料に変えた場合、十五匹ほどのオークを一日養うのに十分と言われている。おそらくあのオークの狩猟部隊は、自分たちの割り当て分の仕事をこなしたのだろう。


「……村に戻ろう。ここにいたら危険だ」


 無言で頷くフィリアンだった。


 それからドニとフィリアンは村へ引き返した。幸運なことに、帰り道ではオークの姿を見ることはなかった。

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