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Till death do us part(3)

 カンタンは、かつては軍の兵士だった。銃の腕を見込まれて小隊の選抜射手に任命されたが、結果から言えば、それは誤った人選だった。


 彼は任務中に気に入らない同僚や上官を、うっかり"誤射"してしまい、軍を追われた。それからは山賊まがいのことをしながら、"影の兵"としての仕事で生計を立てていた。


 赤い鉤爪の構成員のほとんどが彼と同じような軍人崩れだった。社会に適応できないはみ出し者たち。そのためか、どこか共鳴するところがあったのだろう、過ちを起こすことはなかったし、仕事ぶりも悪くなかった。


 陳腐な言葉を使えば彼女は、友情、というものを彼に対して感じていたのだ。影の兵とて人間であり、情がないわけではない。


 絶対に殺してやる。妖艶な女―――バルバラは鞭を振るった。


「ヴィンツ、エジェリー!あたしと一緒に上の奴をやるよ!」


 マックスは飛んできた鉤爪をかわす。足下の瓦が派手に砕けた。


「レジィ、あんたはそっちの娘とデカブツを片付けな!」


 叫ぶように言い放ち、バルバラは遮蔽に向かって跳躍した。屋根の上からの応射を警戒したからだ。


「合点だ!」


 巨漢のドワーフ、ヴィンツが威勢良く答えた。エルフの少女、エジェリーは無言のまま散開する。


 マックスは追撃が来る前に、素早く銃を構えた。屋根に片膝を突き、照準を覗きこむ。


 セオリーどおり、仕留めるのは危険な武器を持った奴からだ。ヴィンツは巨漢の割りには素早かったが、難なく捕捉し、頭に狙いをつける。


 引き金を絞る直前に横から妙な重圧を感じ取って、マックスは射撃を中止した。後ろに飛んで、屋根から突き出た煙突の裏に身を滑り込ませる。一瞬後に、軽快な射撃音が連続して響いた。


 伏兵の気配はなかったはずなのに、一体何処に潜んでいたのか。


 そう考えている間に、また同じ重圧がのしかかってくる。今度は後ろからだ。


 反射的に身を低くすると、煙突に何本ものナイフが突き刺さった。


 ナイフが飛んできた方向へ目を走らせる。人影が一つ、マックスが構える前に闇へ姿を消した。


 一連の攻撃の精度自体は大したことはないが、連携は取れている。厄介なことになりそうだ。


 表情を険しくして、「ドニっ、こっちは忙しい!片付けるまで耐えろ!」とマックスは叫んだ。

「片付けるだって?」バルバラは民家の屋根に鉤爪を引っ掛けて鞭を引っ張り、その力を利用して大きく跳躍した。「ずいぶん甘く見られたもんだ!」

「挽肉にしてくれるわっ!」

 民家の壁を打ち抜かんばかりに蹴りつけて、ヴィンツも三角飛びの要領で屋根に上がる。「ぐちゃぐちゃにしてからのほうが具合がいいかもしれんからのう」おぞましい言葉を口にしながら。


 狼頭の獣人、レジィは仲間たちの方を気にもかけずに、ドニたちと向かい合っている。


「向こうもおっぱじめたことだし、こっちも始めるか」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんたら、何が目的だ?」


 あまりにも一方的な攻撃に、ドニは当惑していた。混乱、と言い換えてもいい。街中で、いきなり攻撃を受ける理由が分からない。


「おまえ自身にゃ恨みはないよ、当然、そっちの女にもな」


 発声器官が人間と著しく異なるが故の獣人特有の訛りは、ときに威圧感を与える。


「ま、女のほうには個人的な用事があるけど、お前の方には何にもないんだよ。だから―――さっさと死ね」


 向こうはやる気だ。喧嘩ではなく、殺しを。話し合いが意味を成さないと悟ると、ドニは腰のショットガンを素早く構えようとした。獣人の武器は大型の銃……ライフルだ。大きい分射程や威力に優れているのだろうが、速度なら小さくて軽い分、こちらが有利なはずだ。そう分析していた。


 しかし獣人の腕にまとわりつく黒い靄が、その予想を覆した。


 こいつも魔法使いか。そう思ったときには、獣人はライフルを腰だめに構えていた。ドニの銃口はまだ明後日の方を向いている。馬鹿な、速すぎる。


 獣人よりも早く撃つことを諦めて、ドニは上体を横にずらした。銃声が響くと、右上腕部に焼けるような痛みが走った。撃たれたらしいが、もし避けようとしなかったら胸を撃たれていただろう。


 ほとんど倒れこむような姿勢になりながら、ドニはショットガンを獣人に向けて突き出した。腕の痛みはひどかったが、動かなくなるほどの傷ではない。引き金を引くと、銃声と共に腕が跳ね上がる。獣人は横っ飛びに飛んで射線から逃れる。立て続けに撃った二発目は、建物の影に逃げ込まれて不発に終わる。


 苦痛に歯を食いしばって体勢を立て直すと、ドニの背後から呼ぶ声がした。


「こっち、早く!」


 首を向けると、赤毛の少女が塀の裏側から顔を出して手招きしている。


「そんなとこにいたらすぐ撃たれるわよ!」


 少女の言うとおりに、ドニは遮蔽に走った。疼痛のする右腕を押さえながら。塀に背中を預けて傷を押さえていた手を開くと、赤黒い血がついていた。


「くそっ」ドニは呻きながらショットガンに弾を込めなおす。「あんなに速いなんて……なんでこう魔法使いばっかりに出くわすんだ」


 俺の方が早く撃てると思ったのに。まさか外の世界では、魔法を使えるのが普通なのだろうか。


「魔法?」と怪訝そうな顔で少女が問う。

「そうだよ……お前だって使うだろ、あの変な靄を出したり引っ込めたり」

「なにそれ。ひょっとしてアンタ、意力のことを言ってるの?」


 また聞いたことのない言葉が出てきて、ドニは思わず少女の顔を凝視してしまう。


「まさか、意力のことを知らないの? 見るからに田舎者だとは思ってたけど」

「悪かったな、田舎者で。それより、なんなんだ、その、意力って」

「なに、って言われても説明に困るけど」戸惑いつつも少女は言葉を搾り出した。「なんていうのかな……一般的には心の力だって言われてる」

「心の、力」


 ドニは反芻するように呟いた。


「おしゃべりしてる場合じゃないから、ざっくり説明するわよ。訓練されてない意力使いでも、自分の力を強くしたり、動きを速くしたりできる。人によっては、物に意力を込めることもできるらしいけど」


 だから俺より早く撃てたのか、とドニは納得した。マックスの常人離れした腕力も、意力によるものらしい。


「俺を吹き飛ばしたのもその力で?」


 その言葉を非難と受け取ったのか、少女は少しだけ言葉を詰まらせる。


「そうよ。私は声に意力を乗せて、なにかを吹き飛ばしたりするのが得意なの」


 そんな力があるなんて知らなかった。それこそ御伽噺のようでにわかには信じられなかったが、マックスといいこの少女といい、当然のようにその力を行使しているのを見た上に、他でもない自分自身がその対象となったのだから、信じざるをえなかった。


「そんな力を使う奴に、どうやって対抗したらいいんだ」


 ドニは苦々しく呻いた。銃を持つ手が震えてしまいそうで、もう片方の手でしっかりと握り締めた。怖がっていることを、少女に気取られたくなかった。


「意力使いだって不死身じゃない。撃てば倒れるけど……」


 獣人が放ったであろう弾丸が、塀に当たって耳障りな音を立てた。


「まともにやりあうのは避けたほうがいいわね。向こうは戦い慣れしてるもの。その分こっちが不利だわ」


 少女は塀から銃だけを出して撃ち返す。マックスの持っている拳銃よりひとまわり大きい程度の銃だが、ライフルより連射はずっと早い。


「じゃあ、どうするんだよ?」

「決まってるでしょ。逃げるのよ」

「逃げるって……」


 マックスを置いて逃げていいものだろうか。いくら彼がタフだといっても、罪悪感を持たずにはいられなかった。


「じゃあどうするの? 意力も使えない、戦闘経験もないあなたが、どうにかできるとでもいうの?」


 そう言った直後に、すぐ側を銃弾が飛んでいく音が聞こえた。兆弾らしい。少女は目をつぶって身を縮こまらせる。戦闘経験がないのはお互い様のようだが、彼女の意見は正しい。


「ところで、あいつらに襲われる心当たりは?」ドニは塀越しに周りを窺いながら聞く。

「あるわけないでしょ。初対面よ」と彼女はにべもなく返した。

「あいつらから金を盗もうとしたわけじゃあないんだな」

「人を泥棒みたいに言わないでよ」


 彼らの狙いは何なのか、ドニは未だに気にかけていた。獣人は、自分たち自身に用はないと言っていたが、それを信じるなら、なぜこんな街中で攻撃を仕掛けてくるのか分からない。


 赤い鉤爪、影の兵。彼らの仕事の多くは非合法なもの、すなわち犯罪行為だ。盗みや殺しがその代表格だが、自分たちの命を狙っているのではないとすると―――


「まずい、かも」


 少女は遮蔽から少しだけ顔を出して、様子を窺っている。


「どうしたんだ」

「相手を見失った。こっちの遮蔽を回り込んで、射線を確保しようとしてるんだわ」


 ドニはぞっとして辺りを見回した。獣人の姿は見えないが、いまにもこちらに狙いをつけようとしていると考えると、気が気でなかった。


「とりあえず、移動しないと」


 額に前髪を張り付かせて、少女は言った。


「三、二、一で私が適当に撃つから、それにあわせて走って」

「危険じゃあないのか?」

「それを言ったら、私より先に遮蔽から出るあなたの方が危ないわよ……そういえば、名前を聞いてなかったわね。私はファニア」


 言いながら、少女は握把から突き出た弾倉を引き抜いて、交換する。


「ドニだ」

「そう、ドニ。言えるうちに謝っておくわね。お金のことも、腕輪のことも、あいつらのことも。多分、あいつらの狙いは私だから。巻き込んじゃって、ごめんね」


 気の強そうな見た目とは裏腹に、少女―――ファニアはしおらしい声で謝罪した。


「そういう話は、終わってからゆっくりとしよう」


 彼女に聞きたいことは沢山ある。ひとまず、生き延びることが大切だ。


 ファニアは小さく笑んで数え始めた。


「三、二、一……走って!」


 塀から体を晒して、ファニアは獣人が潜んでいそうなところに弾をばら撒いた。狙いは適当だが、もとより当てようなどとは思っていない。せめて銃声だけでも聞かせてやれば、相手の射撃を阻害できると考えてのことだ。


 銃声を背中に聞きながら、ドニは力の限り駆けた。少し走ったところで、手ごろな路地を見つけてそこに体を押し込む。


「ファニア、こっちだ!」


 声に反応して、ファニアは振り向く。手の中の銃は、既に空だ。脇目も振らずにドニの方へと向かう。


 五歩目を踏んだとき、銃声が轟いた。短い悲鳴を上げて、ファニアは何かにはたかれたように体の制御を失って地面に倒れた。


 自分が撃たれたかのようにドニは叫び、闇雲にショットガンを連射する。


 息を荒げながら、倒れたままのファニアに視線を移す。足を撃たれたらしく、出血はさほどでもなさそうだ。しかし、動く気配はない。ショックで気を失っているのだろうか。


 走って助けに行くべきか考えていると、ファニアに近づく人影があった。長い銃を持ったシルエット。獣人に間違いなかった。


「出て来い、デカブツ!」


 銃口を彼女の頭に向けて、獣人は声を張り上げた。


「出てこないとこいつを殺す!」


 出ていけば俺も殺されるし、その次に彼女も殺される。直観的に、ドニはそう理解した。


 彼女はなんでもない、見ず知らずの人間だ。多くの言葉を交わしたわけではないし、どういう人間なのかも判然としない。


 客観的に見て、出ていく理由など欠片もないのだ。殺されるのは、嫌だ。


「五つ数える!それまでに出てこなかったら、こいつを殺すぞ!」


 俺は撃ち合いをするために村から出てきたんじゃあない。ドニは振り返った。路地を抜ければ、獣人に見られずに逃げられる可能性は高そうだ。


「一つ!」吠えるような獣人の声。


 足を踏み出して、恐怖からの逃避行動を開始した。


「二つ!」


 俺はまだ死にたくない。見たいものが沢山あるんだ。海を見ていない、雪も見ていない、エレクサゴンの首都であるナオネトにだって、いつかは行ってみたい。


「三つ!言っておくが、俺は人を殺すことなんてなんとも思っちゃいないぞ」


 まだまだ旅は続くんだ。ここで終わらせてたまるか。


「四つだ!女が死んでもいいのか!?」


 ドニはぴたりと動きを止めた。彼女を見捨てて、俺はどうするんだ。旅を終えて、村に帰って、このことを誇らしげに自慢するのか。


 旅を続けていれば、危険な目にあうことは覚悟していた。脅威に対峙しなくてはならなくなることだって、予想していた。望むものはそうした障害を乗り越えた先にある。逃げるなと自分に言い聞かせる。


 ドニは深く息を吐く。何かを手に入れるには、何かを犠牲にする必要があるものだ。しかしファニアを犠牲にするつもりはなかった。人間性を捧げる気もない。取り落としそうになりながらも、ショットガンに弾を込めなおす。


「五つ!……もったいないが、殺すって言っちまったしな」


 差し出すのは、自分の弱い心だけで充分だ。俺の命だって、お前なんかにくれてやるもんか。


 だが、あの獣人は強い。意力も使えないし、戦闘経験もない、ただ体格がいいだけの人間がのこのこ出て行っても、結果は火を見るより明らかだ。


 あいつの目的は何だ、考えろ。


 はっきりしているのは、殺害それ自体が目的ではないこと。でなければ、こうももったいつける理由がない。


 そこでドニは閃いた。もしかしたら、一泡吹かせてやることができるかもしれない。


「じゃあ、さよならだ」

「待て、ここだ!」


 獣人が引き金を引こうとしたまさにその瞬間、ドニは路地から出た。


「ハッ!やっと出てきやがったか」


 獣人はファニアに向けていた銃を上げ、口から牙を覗かせた。

 そして、ドニをじろりと睨み、次に驚いたように眉を上げた。


「なんのつもりだ?」


 ドニは左手に握った皮袋へ、ショットガンの銃口を突きつけていた。


「お前らの目的は、これだろ?」

 怪訝そうに思いながらも、銃を向けようとした獣人を「動くな!」と強い口調で制する。

「動いたらこいつを吹っ飛ばすぞ!」銃を突きつけたまま、ドニは言葉を続けた。「これを壊されたら困るだろう。どうだ、取引しないか」

「取引だぁ?」


 顔を歪めつつも、獣人はドニを撃とうとはしなかった。


「そう、取引だ」


 獣人は歯噛みした。ついさっきまで圧倒的優位にあったはずが、なぜ取引などせねばならないのか。無視して撃ってしまおうか、とも考えるが、あれが本当に"ブツ"だったらまずい。バルバラに大目玉を食らってしまう。畜生め、依頼人はろくに情報を渡しやしない。


 女が持っているもの全てを、瑕疵のないまま奪取すること。それが依頼だった。女の持ち物の中に、何か欲しいものがあるに違いないのだが、持ち逃げされることを恐れて依頼人はそれを明かさなかったのだ。


 苛立つ獣人に、ドニははっきりとした声で告げる。


「条件は一つだけだ。こいつをくれてやるから、俺たちを殺さないでくれ」


 ドニに殺意のこもった視線を投げかけつつも、獣人は考える。ブツを頂いてから殺せばいいではないか、と。女の方はしばらく生かしておくとしても、目当てのものさえ手に入れば男に用はない。


 だが、いきなり取引をもちかけてくるのも怪しい。最初の反応を思い出すと、襲われる理由が本気で分からないように見えた。


「俺たちが聞いた話だと、ブツは女が持っているってことだったが、何故お前が持っている」

「当たり前だ、彼女とは……恋人だ。ブツの管理は俺の担当だ」


 なんだよ、手垢つきかよ。獣人は少し残念に思う。


「俺たちが来る前に、言い争うような声がしたが?」

「……恋人でも喧嘩の一つや二つ、するだろう」

 獣人はさらに問いかける。「どうして最初攻撃される理由が分からないと言った? それなのに、なぜいまさらそいつを差し出そうとする?」

「うまく、やり過ごせると思ったんだよ、最初は。何も持ってないふりをすれば、逃げられるかもしれないって。でももう無理だ! 俺もファニアも撃たれた! こんなのはもう沢山だ!」


 相手の言っていることは本当なのか、嘘なのか、獣人は見極めようとする。夜に道の真ん中で口論とは、不自然ではないか。命乞いに見せかけて、一杯食わせようとしている可能性は捨てきれない。


 不安の種は、もう一つあった。相手の意力がどの程度なのか、まったく分からないことだ。さっきのやりとりで意力障壁や強化は苦手なのだろうが、他の分野については不明だ。


 もう少し質問すればぼろを出すかもしれない。獣人は口を動かす。


「じゃあ、最後の質問だ。これに答えたら、取引に乗ってやる。その袋の中身は、何だ」


 詰問する獣人の瞳は、闇夜の中でわずかな光を反射し、不気味なほどにきらめいた。


「これが何なのかは、分からない。旧世界の品物らしいが、そんなのどうだっていい。ただ助かりたいだけなんだ」


 悲鳴に似た言葉を聞いた瞬間、獣人の口が小さく開いた。すぐに閉じて、今度は唸るような声を喉から絞り出す。旧世界の遺物か、それなら依頼人の提示した額にも納得がいく。


 いい彼氏を持ったな。獣人はさきほど足を打ち抜いてやった女のことを思う。彼氏は旧世界の遺物と引き換えに、お前を助けようとしてくれるんだぜ。そんな彼氏も、お前が目覚める頃にはくたばってるだろうがな。


 ドニは獣人の次なる言葉を辛抱強く待っていた。気を抜くな、まだ最後の穴が残っている。気づけば、手が白くなるほど強く、ショットガンの握把を握り締めていた。頬を一筋の汗が滑り落ちていく。


「いいだろう。その袋をこっちに投げろ」と獣人は言った。

「分かった」ドニは物分りがよさそうな振りをしている。「ただ、俺と彼女の安全は約束してくれるんだろうな」

「ああ、絶対に殺さないよ」


 ドニは安堵したように息をついた。馬鹿が。絶対に許さないよ。獣人の腹の中にはどすぐろい殺意が渦巻いていた。彼女の面倒はちゃんと見てやるからな。


「よし、そっちへ投げるから、もう少し近づいてくれ。ここからじゃ届かない」


 五、六歩ほど近づいて獣人は足を止めた。


「そうだ、そこでいい。そら」


 皮袋を放り投げると、それは放物線を描いて獣人のすぐ手前に落ちた。銃口を向けたまま、腰を落として拾い上げる。


「へへ、ありがとうよ」皮袋を懐にしまいこみ、獣人は牙を剥いていやらしい笑みを浮かべた。「じゃあ―――」死ねよ。


 引き金に触れる指へ、力を入れようとする。


「意力には得手不得手があるのは知ってるな」ドニは一転して鋭い口調で言った。「お前、それを拾ったな?」


 わざとらしく口角を吊り上げて、獣人に負けないくらいの嘲笑を作った。


 見る間に獣人の顔が凍りついていく。まさか、こいつ、これに意力を込めて破裂させるつもりか。このために意力障壁をあえて展開しなかったのか。自分の意力を意識させないために。


「うおおっ!」


 懐に手を突っ込み、今しがた手に入れた皮袋を明後日の方向へ投げつけた。


 最後の穴を飛び越えた。ドニはショットガンを獣人に向ける。相手の意識も銃口も、こちらには向いていない。


 即興で作り上げた、穴だらけの作戦は、奴らの狙いが"モノ"であると確信したことから出発した。命が狙いでなければ、持ち物だろう。だから、獣人はファニアをすぐには殺さなかった。仲間、すなわちドニが目当てのものを持っている可能性を考慮して、動けなくなった彼女を餌におびき寄せようとしたのだ。


 また、目的のものが壊されてはまずいはずだ。だから、人質まがいの行為が成り立つと踏んだ。


 相手が、"それ"の大きさや形を詳しく知っていたら、欺瞞が露見する恐れもあったが、これについてはまったくの賭けだった。ただ、依頼する側からしたら、人を殺してでも手に入れたいほどの物を持ち逃げされてはたまらない、という心理が働く可能性はあった。確実に手に入れるため、詳細な情報を渡すことも考えられたが、結果として、ドニはこの賭けに勝った。


 獣人が袋の中身について聞いてきたときは、マックスの言葉を思い出して咄嗟に答えたにすぎない。彼が口にした"旧世界"という単語が、深く印象に残っていたからだ。もともとファニアが持っていた腕輪について使われた言葉だから、もしかすれば、と一縷の望みも込めて。


 袋の中身を見せろと言われる前に、この言葉を使うことが重要だった。そうなる前に、旧世界の言葉が持つ重みで、相手に真実味を与えねばならなかったからだ。もっとも、この手が上手くいくかは非常に怪しいものではあったが。


 とにかく、"旧世界"が持つインパクトは、獣人を納得させることができた。それから上手くショットガンの射程内に誘導し、自分の手の中にあったものを拾わせた。


 そこに、さも自分が意力を使えるかのように、思わせぶりなことを言ってやれば、あとは獣人の勝手な思い込みで、自ら隙を晒すのを待つだけだった。


 まさに今が、その時だ。


 外さない。ドニは引き金を引いた。小さな弾頭が嵐のように獣人に襲い掛かる。


 もう一発!駄目押しとばかりに、連射する。千載一遇の機会を、逃すわけにはいかなかった。これで仕留められなかったら次はない。


 薄い闇の向こうで、獣人の体は小さく二度、揺らいだ。鉛弾が皮膚を突き破って筋肉にめり込んでいく。


 獣人は倒れなかった。その体を包む黒い靄が、銃弾の威力を弱めたのだ。マックスがオークの凶弾を防いだように。


 苦痛に吠える獣人の目には、はっきりとした憎悪が浮かんでいる。


「クソがァッ!」


 再装填する時間はない。そもそも、弾がないのだ。予備の弾は、さっき獣人に投げた袋の中だ。


 いきおい、手段は一つに絞られる。斧を手にドニは獣人へ躍りかかった。獣人は弾を叩き込もうとする。銃声が耳朶を打ち、鋭い痛みが脇腹を貫いた。吹き飛びかける意識を繋ぎとめ、頭めがけて斧を振り下ろす。硬いものにぶち当たって、金属が悲鳴を上げた。手が痺れる。


 獣人はすんでのところで眼前に銃を翳していた。刃はその銃身を半ばまで裂いたところで止まっている。畳み掛けないと、やられる。ドニは二撃目を加えようとする。


 その刹那、顔に衝撃が来た。銃床で顔面を打擲されたのか。一瞬バランスを崩したが、たたらを踏んでこらえる。鼻腔の中を、粘性の高い液体が這い降りていく。鼻が折れたかもしれなかった。


「やりやがったな、クソッ! 殺してやる、苦しませて、殺してやる!」


 呪詛を吐きながら、獣人は銃を捨て、腰に下げた山刀を抜いた。俊敏な動きから繰り出される斬撃がドニを襲う。


 無我夢中で持ち上げた斧の柄が小さく削り取られた。攻撃を防いだ、と言えなくもないが、まったくのまぐれであって実力によるものではない。


 ドニはしゃにむに斧を振るう。攻めなくては、勝てない。横薙ぎにした斧を、獣人は身を屈めてかわす。そして山刀を突きこんだ。


 獣人の刃は、身を守るために動かした左腕に突き刺さった。前腕部を貫通した切っ先は、ぬらりとした血に濡れていた。乱暴に引き抜かれた刃が、傷口周りの組織をわずかに削り取ったところで、遅ればせながら激痛が走り、ドニは短く悲鳴を上げた。


 次に左の拳が、突き上げるように顎を叩く。がら空きになった胴体に今度は蹴りが飛んでくる。胃液が食道を逆流し、独特の悪臭が鼻を突く。そのまま、ドニは受身を取ることもできずに倒れた。


 地面に手をついて上体を起こし、殺意に塗れた獣人を見上げる。犬歯をむき出しにしたその姿は、いやがおうにも恐怖心を刺激する。山刀についた血液は、空気に触れてどす黒く変色し始めていた。


 最初から無理だったんだ。少ない知恵と勇気を振り絞ったところで、勝てるはずがなかったんだ。オークの時も、そうだったじゃないか。


 なんで勝てると思ったのだろう。獣人に隙を作れると思ったから? だが、その策略だって結局は裏目に出てしまった。あのまま脇目も振らずに逃げ出していれば、少なくとも自分だけは助かっただろうに。


 世の中は、残酷だ。希望を見せておいて、より深い絶望に叩き込もうとする。あがけばあがくほど絡みつく、蜘蛛の巣のように。


 ドニの手にはまだ斧が握られていたが、もはや抵抗する気はすっかり消え失せ、にじり寄る獣人を慄然と見つめるしかできなかった。

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