第二十五話:青天白日
「じゃ、じゃあさ。一つずつ、実践しながら教えて」
そして感光や絞りのピントをいじるだけで雰囲気がまるで違う写真が撮れることに、美空はあっさりと興奮した。機嫌をよくして次々と玲花に教えをねだる。
用語の意味さえ分かってしまえば、玲花はまるで歩く取扱説明書だ。被写界深度を浅くして背景をボケさせることまで覚えるころには、美空はカメラの楽しさを覚えていた。
つまり、一般的なデジカメと一眼レフは、主たる目的がわずかに違っているのだ。
被写界深度が深いデジカメはブレもボケもなく鮮明に写真を残すもので、景色を焼き付けて切り出すことを目的としている。しかし撮影、シーンに応じて設定を変えていく一眼レフは景色を残すことよりも、被写体を撮る、ということを楽しんでいる。
美空はようやく、玲花がカメラを好む意味を理解していた。
写真は記録を残すためではなく、ファインダーを、景色を撮るためのものだ。
「すごいね、玲花」
なにがすごいのかはともかく、とにかく美空はそう言った。
「写真、楽しい?」
「うん。すごく面白いよ!」
近距離に設定を変えて、美空は玲花にカメラを向ける。少し驚いたような玲花の、楽しいと断言された喜びの残滓が見える表情を写真に残した。
「美空も」
「はい」
手を出す玲花にカメラを渡し、美空は少し離れて自然に微笑んでいる。玲花はしっかりとピントを合わせて、少し中腰気味になってわずかに見上げる形で、シャッターボタンを押す。
その瞬間、美空の目が逸れて、表情が褪せた。
笑顔を収めようとした玲花は焦り、動揺して美空の視線を追うように振り返る。丘陵の高台を囲う木々にかぶさる空が、青すぎることに気がついた。
空しくなるほど、空は美しく晴れている。
「もうちょっと早く、カメラ教えてもらえばよかったな」
美空は玲花の隣に戻っていた。シャッターはもう切った。玲花のカメラを握る手に、悔しく力がこもる。玲花の手に写った感情に美空は気づいていない。ほんのちょっとした失敗を語るように、なんでもないように、美空は言った。
「そしたらきっと、お母さんを撮ってたのに」
「美空、あの。あの……」
その顔を見てしまった玲花は、何も言葉を見つけられず、うつむく。
美空は顔を上げて、駐車場に目を向けた。木立に隠れて見えない。だが、そこに間違いなくあるはずのバイクを、”青藤のヘスティア”を見る。
「玲花はまだ、戦うつもりなんだよね」
「……うん」
迷ったのは、ただ、答えるべきかどうかだけだ。玲花の意志には、微塵の迷いも躊躇いもなかった。美空はまぶしそうに目を細める。
「そっか。玲花は、強いな」
「そんなことない。美空のほうが」
「ううん。みんなを助けたのは、玲花だけだよ。玲花は、強いよ。すごく」
詩緒奈も、命を落とした星斗と義正も。海からきちんと救い上げたのは、玲花の功績だ。
美晴だけしか守ろうとしなかったのに、それさえ守れなかった美空とは違う。
笑顔を、美空は無理矢理浮かべ続けていた。
「なんか、私……なんで戦ってたのか、分かんなくなっちゃった」
「無理して、戦わなくていい」
玲花の勧めに、首を振って拒絶する。
「迷ってるわけじゃないの。守らなきゃって、やるべきだって思ってる。でもなんで、そんなこと思ったのか、分かんなく、なっちゃって、さ」
口許が痙攣するようにつり上がる。声が震えて、肩を縮めて、笑顔が歪んでいく。
「戦わなければ、守ろうなんて思わなければ、お母さんは死ななかったのに……なんで、私、こんなこと思わなきゃ、いけなかったんだろうって、思って……もう、わっかんないよ……」
萎縮する心のまま、美空はうずくまった。
やるべきことはやらなければ、という焦燥が、縮まろうとする臆病さを突き上げる。内外からの圧迫に、美空の心は軋みを上げていた。
「ねえ、美空。少し、聞いてもいい」
玲花は静かに諭すように、質問をした。
「いい、けど?」
「美空はさ、いつ、どんなときに街を守ろうって、思ったの?」
「日曜、あの、瓦礫から女の子を庇ったとき。すごく怖がって、不安がってて。……街が壊されて喜ぶ人なんて、いないよ」
「なんで街が壊れて喜べないの? 壊れちゃいけないの?」
「いけないっていうか……だって、オフィスとか壊れるだけで、大変だよ。ほら、車。人じゃなくて車が壊れたって、人生変わっちゃう人いるよ、絶対」
「それって別に、災害とか事故とかと、同じじゃないの?」
「だ、だって、災害じゃないじゃん! ほんとにスペースデブリなら、そんなの、どうしようもないけど、だってこれ、人災で戦闘だし! そんなので壊されて、喜ぶ人なんて……」
言葉が緩んだ。玲花への反論の底に、共通する気持ちが流れている。
「不条理で街が壊れるなんて……まして、身勝手な戦闘の巻き添えなんて、そんな理不尽なことはなくて、それは喜べないから……悲しいから。笑えないよ、そんな冗談」
芋のつるを引き上げるように、切れないように慎重に、言葉と気持ちの根源を分厚い土壌の底から引きずり出す。もはや玲花を見てはいない。
「笑えないのは、避難のときみたいな不安と恐怖は、全然そんなの、嬉しくない。みんな笑えないから、みんな笑ったほうが楽しいから、だから私は、街を守りたいんだ」
言葉をふるいに掛けるように、気持ちを選り分けていく。掘り出した塊から、土を払って、その姿を慎重に露に削りだしていく。美空の顔は上がっていた。
「みんなが笑っていれば、私も笑えて、私は笑っていたいから……だから、守らなきゃいけないんだ。街じゃない。私は、笑顔を守りたいんだ」
美晴はいつも笑っていて、だから、憧れていた。美晴がとにかく笑えという言葉を、美空は何よりも納得していて、だからこそ、やらなければいけなかったのだ。美空が、笑うために。難しい話はなく、困難な理想も立派な志もそこに存在しない。それはつまり、簡単な話だ。
美空は笑っているべきなのだ。
ぶるり、と心が震えた。
霧がかった景色が晴れて、全景を広角レンズがピントを合わせて写している。
「美空って、本当に、笑顔を大事にしてるんだね」
玲花が笑いをこらえるように言う。
美空は胸を張って、自信を湛えた最高の笑顔で、玲花に応える。
「当たり前だよ。だって私、お母さんの、娘なんだから……っ」
涙が溢れた。
黙ったまま玲花は美空を抱きしめる。凍りついた悲しみが人の温もりで溶け出したように、美空は声を上げて泣きじゃくった。
「嫌だよぉ、お母さんが死んじゃうなんて」
だけど、事実なんだ。
「お母さんが死んじゃったら、私、なにもできないよぉ」
でも、どうすべきかは、もうすべて教わっているんだ。
「お母さんがいなくなっちゃったら、私一人ぼっちだよぉ」
お母さんも、そうだったんだ。それでも笑って、たった一人で私を育てた。
「悲しいよぉ」
悲しいとも。
ああ、と子どものように声を上げて、美空は泣いた。嗚咽して、過呼吸に陥りながら、止め処なく溢れる涙を頬に垂らした。ただ悲しさに泣き濡れた。
玲花は美空の頭を優しく撫でる。
「悲しいときは、泣いたほうがいい。でないと、ちゃんと、笑えないから」
聞こえているかどうかも分からないほど、美空は大粒の涙をこぼし続ける。
それは死んだ美晴の哀れみでもない、残された我が身の苦しさでもない、理由のない問答無用の悲しみだった。そうして美空は、美晴を悼んだ。
きっと自力で泣き止むだろう。