第十一話:変転回帰
アテナはくるくると空を落ちていく。
はるか上空で、竜人が右肩を押さえて憎々しげに美空を見下ろした。
「くそ……やってくれる」
忌まわしそうに吐き捨て、顎を上げて空に飛び去っていく。そんなことなど、今の美空に見えもしなければ聞こえもしない。
「機体を持ち直して! 美空っ! 美空!」
玲花の声を、美空は音としか認識できていなかった。昏倒寸前の意識で、しかし両手は操縦桿を震えるほど握り締めている。青ざめた顔で、瞳は激しく揺れていた。耳鳴りと嘔吐感で、身動きどころではない。キャノピーの空は色合いが目まぐるしく変わる。空の青が、どんどんとパステルの水色に近くなっていく。
きつく目を閉じて、一度力を抜いた。墜落している今に動揺する心を追い出す。今真面目にやっているところだというのに、頭が引っ張られる感覚は抜けない。
なんだか締まらない、と美空はおかしくて小さく笑った。
「よっしゃ」
目を開ける。まだ目が回っていて頭がクラクラとしているが、動揺と焦燥は収まり、すっきりと冷静さを取り戻していた。
外を見るのは諦めて、計器に目を向ける。高度計らしい縦長のリールがクルクルと数字を減らしている。水平計は狂ったコンパスのようにバタバタと踊っている。
スカイダイビングのように、アテナの両手両足を突っ張って、回転を緩める。背部や足の推力を少しずつ入れて様子を見ながら回転を止めていった。
「オッケ!」
操縦桿をひねる。両手足を畳み、真っ直ぐ垂直を向いた戦闘機は再び上昇を始める。
瞬間に高速で巨大な塊がすれ違っていった。
「あれ?」
「うわっ。美空さん? 大丈夫?」
下方に銀の鎧武者がいる。
美空は操縦桿を操作して、がちょりと体を開いて変形させた。ホバリングして手を上げる。
「星斗くん、駆けつけてくれたんだ。ありがとう。あいつは?」
「えーあ、うん。ヤマトは逃げて行ったよ」
美空は表情に困った。逃がしたと焦るべきか、言いたい放題して逃げたと怒るべきか、戦いが終わったと安堵すべきか、結局なにも壊させなかったと誇るべきか。
とりあえず苦笑して、ため息に相槌を混ぜた。
「……そっか」
「美空!」
詩緒奈の声に顔を下ろすと、黄色いゴテゴテしたロボットが飛んでいる。
「詩緒奈。大丈夫だった?」
「もちろん。美空こそ、今日初めて乗ったのに、いきなり無茶ばっかりして!」
「あ、あはは……他に対処法が思いつかなくて」
思い返してもぞっとする。支援という話はどこに行ったのか。美空としても状況が逼迫して必要に迫られない限り、あんな無茶は御免こうむる、というのが正直なところだった。
「そういえば、玲花は?」
「玲花ちゃんの”青藤のヘスティア”は飛べないから、地上で観測手やってくれてるよ」
「あ、そうだったんだ」
苦笑していた美空が、シートに体を預けて、脱力する。
キャノピーの頭上に広がる日の傾いた空は、黄みが差してどこか紫がかっていた。
「はぁー……なんか、終わったと思うと、どっと……疲れた……」
「美空? ちょっと、大丈夫!?」
がきゅ、と金属のこすれ合う音が、暗くなった視界のなかに響く。
美空の目蓋は重く、意識は急速に遠く霞んでいった。
極度の緊張と身体負荷による疲労で、美空は意識を失った。美空が次に覚えているのは、目を覚ました基地の医務室だ。学校の保健室を少し本格的に整備したような部屋で、意外にも玲花がそばについていた。医務室の出入り口が自動扉ではなくノブの引き戸だったことばかり、美空の記憶に強く残っている。
医務室だけではなく、廊下にぽつぽつとある扉は、非常口のような重々しい金属製だった。廊下自体は照明が多く、床に張られた病院のようなリノリウムが光沢を存分に発揮している。白々と明るくひと気がない、温もりを拒絶するような空間設計は、妙に陰気な雰囲気を感じさせた。秘密基地というよりは、必要に駆られて設置したアジト、という感じだ。
そのあとは特に何もない。老原の簡単な称揚の言葉のあと、危険な戦闘行動をたしなめられ、もう帰っていいよと言い放つ。バイトじゃないんだからと美空は思ったが、言い回しの問題で、要するに倒れた美空を労わってのことだ。
基地は内海のど真ん中にあり、港まで戻るには行きにも使った海底トンネルを使って、湾岸のビルまで行かなければならない。詩緒奈に心配の小言を加えられながら、自動車アルテミスで送り届けられた。そこから徒歩と電車で帰路に就いて、今に至る。
電車に揺られるときも、最寄の駅に降りたときのホームの感触も、駅前のスーパーで生野菜の青臭い匂いを嗅ぎながら巡ったときも、レジで財布の小銭を覗き込んだときも、ロゴ入りのビニール袋を提げてマンションやビルの立ち並ぶ住宅地を歩いているときも。
現実的な日常がそこにある、という事実が、美空には奇妙なほど非現実的に感じられた。
美空の振り仰ぐ空は夜に塗り替えられて、とりわけ輝きの強い星だけを点々と散らしている。白く霞んだ黒い夜は、街頭に照らされて、煙たくくすんで見えた。
「……信じられないな」
変形ロボに乗って戦ったことが、ではない。
あれだけ戦って、いつもの日常に何事もなかったかのように回帰できることが、なぜだか、信じられないことのような気がした。
他所の家が掲げる玄関の電灯が、アスファルトを照らす。道路の真ん中に張り付く大きな白のひし形が、亡霊のように青みがかって見えた。
美空はスーパーの袋を握る右手を持ち上げる。その手首には、赤にコーティングされた細いチェーンブレスレットがぶら下がっている。
クラストは時間を選ばず出現するが、しかし同時に何度も現れることはないという。そもそも今日一日で二度現れたこと自体、珍しいことだった。その理由も、美空が参加したことに対する威力偵察とハッキリしている。もう心配はいらないと老原は太鼓判を押した。
しかし、偵察を行うという組織だった動きと、変形ロボと大きさの釣り合う怪物のような外見が、イメージのうえで重ならない。敵の全体像がつかめなかった。
「まあ、深く考えても仕方がないか」
ため息と一緒に頭を切り替えて、美空は笑った。今日は肉じゃがだ。
美空は駅から徒歩十分ほどの、坂を乗り越えた先にあるマンションの一室で暮らしている。エレベータもない古い建物の、しかも四階と、少々立地に難はある。とはいえ2DKの間取りは充分に快適で、住んでいて狭いと感じることはなかった。
一度、詩緒奈の一軒家に行き慣れたころ、厳密に比べてみようと考えて明らかな大きさの違いにげんなりして以来、他人の家と比べたことはない。
玄関を開けて、外気と変わらない冷え冷えとした真っ暗な廊下が伸びている。底冷えのするフローリングを駆け抜けて、ダイニングの電灯のスイッチを叩いてから電気ストーブにかじりつくようにして暖房を入れる。暖かくなるには時間が掛かる。ようやく電灯が死に掛けたセミのような音を漏らして点った。埃をうっすらと被った青白い光を、古びた白の壁紙に投げかける。かじかんだ指先を揉み解して、買ったものを冷蔵庫に入れ始めた。冷蔵庫には、作り置きのタッパーが詰まっている。
美空は、母親と二人暮らしの、母子家庭だった。
まあそんなものかな、と美空は己の境遇を軽く受け止めていた。別に母子家庭だから野菜が高くなるとか、定期券が一週間早く切れるとか、そういうことがあるわけではない。
ただ、美空は素直に、母親を尊敬していた。女手一つで、不自由なく当たり前に暮らさせてもらっている。バイトの給料を家計に足さなければ生きていけない、ということもなく、お小遣いにしろと言い放てる。その気概とバイタリティは、純粋に憧憬の念を抱かせられる。
今日はお腹が空いたから一合多めに炊こう、とか、そういうなにも構えない態度で生きていける今は、もしかして幸せなのかな、と美空はなんとなく考えていた。
知らず、笑みが浮かぶ。
美空の母、美晴はとにかくよく笑う人だ。
というのも、人生笑うが勝ち、を座右の銘として日々を生きているからだ。釣り目がちで、普段笑っている落差もあって、いざ怒るとそれはそれは恐ろしく鬼の形相なのだが、怒るだけ怒って最後に微笑むこともあって、とても信頼されている。
一度、本当に一度だけ、小学生のころの美空は母子家庭ということでいじめにあった。そのときばかりは笑みを収めた美晴だが、彼女は美空の肩をつかんで、諭すように言った。
「笑え。とにかく笑え。なにがなんでも笑え。笑ってやれ、笑い飛ばしてやれ」
翌日、からかってくる連中に笑顔で茶化し返したら、その日でいじめは終わった。物珍しさに退屈が火をつけただけで、恨みも害意もあってのことではなかったからだ。
美晴は次に、美空に対してこう諭した。
「笑えるようになったら、次は動け。やるべきだ、こうすべきだ、って、ほんのちょっとでも思っちまったら、首を突っ込め。諦めて絶対に突き進め。それがどんなに辛い道でも。それが、人生で一番多く笑う秘訣だ」
まったく乱暴な論理だ、と美空は思う。もし非行に走りたいと思ったら、どうするのだ。
そんときゃやりゃあいいんだよ、と美晴は放言した。そんで警察にしょっ引かれりゃいい。そのあとあたしがぶん殴る。
親としては最低だったが、人間としては最強だ。
美空はハッキリと、母親を尊敬し、憧れていた。




