第一話:日常墜落
茜色のレンガを敷き詰めた広い駅前は、人がごった返している。
日曜日の朝だ。
ロータリーをめぐるバスを横目に、半地下鉄のメトロは駅舎を発車していく。謙虚に広場の中央を避けた西寄りに、図々しく場所を取る噴水のモニュメントが、日時計であることも知られずに高々と鼻を空に突き向けている。林立する高いビルやランドマークに囲まれる砦のような駅前広場で、榛木美空は首を伸ばすようにして辺りを見回していた。
丈の短いカーディガンを羽織り、ショートパンツからは脚がすらりと伸びる。セミロングの髪をふわりと揺らして首をめぐらせ、肩掛け鞄がぱたりと背中を叩く。やんちゃ盛りの犬のような瞳が、ひと際強く輝いた途端、美空は弾むように駆け出した。しなやかな手を振り上げる。
「詩緒奈ー! おっはよー!」
「美空! ちょ、ちょっと大声出しすぎっ」
久苑詩緒奈は顔を上げて美空を認めると、うろたえて周囲に目を配る。
ロングの巻き髪がその仕草に揺れ、チュニックの裾に指を添えて、プリーツスカートにロングブーツを隠すようにつま先を合わせていく。居合わせた人々から一瞬だけ向けられた驚きと苦笑の視線をかいくぐって、美空は意気揚々と詩緒奈の前に到着した。ひらりと手のひらを向ける。
「おっはよう。待った?」
裾を伸ばすように添えていた手を払い、詩緒奈は細くため息をついた。苦笑を浮かべて、美空の笑顔を見上げる。
「……もう、朝から元気だなぁ。まだ待ち合わせ時間前だよ、そんなに待ってない」
「そっか」
にまり、と美空は屈託のない笑みを深めた。
「さっ、それじゃあ行こう。詩緒奈と二人で出かけるなんて久しぶりだ。このところいっつも彼氏とばっかりで、私に構ってくれないもんねぇ」
「うーん、そんなに星斗くんとばっかりってわけでも、ないんだけどね」
「またまたー。その星斗くんのためにバドミントン部まで辞めた人が、なに言ってるの」
「バドミントン部のくせに、他所の運動部の助っ人に出ずっぱりな人に言われたくないなあ」
美空の冷やかしに、詩緒奈は苦笑とともにジャブを返す。声を上げて笑う美空に効いた気配はない。
動く歩道に乗り、ベルトに背中を預ける美空を見て、詩緒奈は小首をかしげる。
「そういう美空こそ、そろそろ恋人の一人でも見つけたの?」
「はっはっは。ないない、そーゆーのわっかんないし」
武将のような豪快な笑声を上げて、美空はさっくりと否定した。
然り、とばかりに詩緒奈はうなずく。
「いやそこ、うなずかないでよ」
「自分で言ったんじゃない」
「そりゃそうだけどさー。いやほら、こう、乙女心?」
「どの口でそれ言うかな」
恋愛に興味がないと放言した同じ口の戯言に、詩緒奈はからからと笑う。
その表情を見て、美空は安心したように口元を緩めた。
動く歩道の両翼では、アスファルトを鏡面反射するガラスの街並みがゆったりと流れていく。
そのビルの一つに大きな画面が貼り付けられて、ニュースキャスターが衛星からの軌道エレベータ建設計画を嬉しそうに報じていた。宇宙がぐっと近くなりますね、旅行会社が宇宙旅行の販売を計画しているそうです、宇宙資源の発掘とデブリ駆除の方策も、宇宙研究機関の見解が。
「美空? 前、前」
「え? うおっと」
動く歩道の継ぎ目をあわてて降りて、つんのめる。わずかに曲がった次の歩道に足を乗せた。足ばかりが先に行き、ついで全身が流れていく。
両手を水平に広げる美空を、呆れ顔の詩緒奈が眺めている。
「ちゃんと前見て。転ばないように気をつけてよ?」
「うん、ごめんごめん。でさ、今日はどこ行こうか」
「買い物とかでいいんじゃないかな。んー、靴買いたいな」
「オッケ、いいね」
楽しそうに笑う美空がガクンと転びかけ、あわててベルトに手をかけて体勢を立て直した。また継ぎ目に差し掛かったわけではない。エスカレータを水平に敷いたような歩道が、突然稼動を停止させている。
突然のことにどよめく高架歩道に、ブザーのような警報が降り注いだ。
「な、なに?」
「しっ!」
目を白黒させる美空を制して、詩緒奈は険しい顔で歩道のスピーカーをにらみつけている。
ビー、ビーとブザーを鳴らし続けていたスピーカーが、言葉を発した。
『緊急避難勧告。再突入したスペースデブリ群の落下警告が発令されました。直ちに最寄の指定場所に避難を開始してください。繰り返します……』
「デブリぃ?」
美空は怪訝を顔中にあらわして、立ち上がる。
スペースデブリの再突入は珍しい話ではないが、その大部分は大気圏で燃え尽きる。数十年前ならば、まれに燃え尽きない大きなデブリが地上に落下することもあっただろう。
だが今は、宇宙研究機関主導の五十年計画で、ほとんどが破砕・再突入による焼却で、除去されている。ましてや、それで避難勧告が出されるような話を、美空は聞いたことがなかった。
首を伸ばして歩道の下を見てみれば、信号がすべて赤になった影響で渋滞が発生していた。何人かは車を降りて様子を窺っている。俄かに起きた異変に、誰もが困惑と不審を見せていた。
「美空」
「詩緒奈。落下予測なんてなかったよね?」
軽い気持ちで振り返った美空は、目を丸くした。
詩緒奈は緊迫そのものといった表情を顔に貼り付けている。
腕を取って、思いがけないほど強い力で美空を引っ張った。
「いいから、避難しなきゃ!」
「う、うん」
ちらりと見た道路でも、次々と現れた警官の誘導で、大多数の人がゆっくりと避難を始めている。何人かが警官に説明を求めていて、その周囲でだけ混乱が発生していた。
腕を引かれ、連れられる子どものように、美空はどこに行くかも分からないまま詩緒奈について早足に高架歩道を降りる。いつしか長蛇の行列となっている人波は、高いビルの足元を縫うように、誘導に従って歩いていく。
美空は急に不安に襲われた。
やにわに訪れた異変に世界さえ驚いているかのように、日曜日の活気は不安に取って代わられている。心配と憶測を囁きあう避難の人々の表情は、みな揃えたように曇っていた。
それらを眺めて、美空もまた顔を曇らせる。
「なんか、やだな。こういうの」
雨が降る寸前の空のような焦燥に街が沈み、人々の口と足は重く鈍っている。
隣を歩く詩緒奈が、美空をちらりと見上げて、革の腕時計を見下ろした。再び美空を見て、微笑した口を開く。
「ねえ、美空」
振り返る美空の手に、細い赤色のブレスレットが握らされる。
詩緒奈は優しく微笑んで、ブレスレットを握る美空の手を包むようになでている。
「お守り。これを持っていれば、大丈夫だよ、絶対。お揃いだしね」
くすりと笑って、腕時計と一緒に巻かれる黄色いブレスレットを見せた。
細いチェーンを二重に巻くようなそれは、渡されたブレスレットのそっくり色違いだ。
「詩緒奈……ありがと」
美空の言葉に、詩緒奈は安心したように笑ってうなずく。
視線を落とし、歩きながらブレスレットを腕に巻く美空は、一瞬遅れて気づいた。
詩緒奈が身を翻し、人波を外れて、ガードレールを身軽に飛び越える。
「ちょ、詩緒奈!?」
「美空は先に避難してて!」
叫び、道路を埋め尽くす車の間をすり抜けて、公道を突っ切って渡っていく。
美空が驚いているうちに避難する後続に押されて進んでしまい、よろめいている間に詩緒奈は角を曲がって消える。