猫の怪
猫が追いかけてくるのだよ、と男は言った。
新太郎は眉をかたっぽ上げただけで、黙っていた。男はどんどん先を続けた。
猫が追いかけてくるのだよ。病院、カッフェー、遊郭、情人の家、家の車に乗るときさえ、ドコマデモドコマデモ追いかけてくるのだよ。
身なりのいい男だった。大きな商家の跡取りらしい、手入れの行き届いてパリッとした洋装である。此の店にはどうやって来たか問うたら車でと答えた。唸る程金の有る家のこと、自分の運転ではあるまい。従いて入ってきて頭を下げた、連れの男が運転手だろう。
男の話はひどく長く、オマケに行きつ戻りつした。客の話を聞きなれた新太郎でもウヘエと思う程要領を得なかった。
全て載せてはキリがなし、要点だけをかいつまむ。コトの起こりは三月程前。一杯ひっかけた帰り道、ちょうど春で桜が開いて居た。夜桜見物としゃれこんで、川沿いの並木をトコトコと歩いて居ると、目の端をスウと横切る影を見た。
ハテと見やっても誰も居ない。風のしわざと歩き出すと、今度は反対側をマタ、スウと横切る。見やったが誰も居ない。ゾクとした背をニャアという声が撫でた。道端の捨猫のような可愛らしいモノではない、モット気味悪い声だったと男は言った。
ここまで聞いて新太郎はハアと息を吐いた。よくあることじゃ御座いませんか。川沿いなら猫の霊の二匹や三匹、耳が嗄れる程鳴いて居りますよ。世の中にはモット恐いのが腐る程居るのですよ。
イヤ、と男は言った。其れで終わるなら、此処には来ない。おれはそんな肝の細い男ではない。追いかけてくるのだ、あの猫が。昼も夜もおれを従け回すのだ。
目の端を横切る影は初め夜だけだった。そんな事もあるサと気にも留めていなかった。瓦斯灯の照らす大正の御世に、猫の怪などナンセンスと思った。しかし昼にも来るようになったのだ。影と声なら生易しい方、此の頃は頬にやわりと生暖かい、毛皮の感触すら感ぜられるようになった。股の間までくぐられたと訴えた。
おれは恐いのだ。今はいい、だが此の先が怖いのだ。あの猫が、奴からは触れられるが俺からは決して触れられぬあの魔性の猫が、何時か俺に爪を立てるのではと。牙を立てるのではと。恐い。おれは恐い。
ハアと、新太郎は気のない声を出した。鯖の背もかくやの青い顔で拝み屋はオマエかと袖を引っ張るから、どれ程困って居るかと思ったらこの程度だ。性根のふやけたぼんぼんと云うのを新太郎は初めて見た。新聞や読み物でしか見たことのないものが目の前に居るのは甚だ新鮮な気持だったが、ずっと見て居るとヤハリ腹が立つ。此れはサッサと追い出さねばと思った。
若だんな、アタシはもう二十年も拝み屋稼業をしておりますがネ。精いっぱいの優しい声で新太郎は言った。こんなのは大したことじゃないんですよ。少ぅし夜遊びをお控えになって、奥方の居るお家に篭っていれば、その内詰まらなくなって退散するでしょう。猫の怪と云うのはいたづらものですよ。取り分け河川敷に居るのは一等そうなのです。
しかし男はガタガタと震えっぱなしで、助けてくれ助けてくれと言うばかりだ。全く此れでは話にならない。ヤレヤレと額を押さえて新太郎、先からずっと部屋の隅で黙って居る運転手に目をやった。
お宅の御主人様は何時もこの調子なのですか。流石に口には出せなかった。だが目には充分に出ていた。エエそうなのです昔からこの有り様で。どうもご迷惑をお掛けします。運転手の目も口程に語って居た。
黙って居れば出て行くのを、無闇と退治するのは好かんのですがネ。新太郎はマタ息を吐いて、脇の棚をガサゴソと漁った。御客の頼みは無碍に出来ません、どうぞ此方をお使い下さい。
取り出したのは一見空の虫籠だった。男はドンナ秘密の宝物が出て来るかと期待していたらしい、あからさまにガッカリした顔をした。運転手は少しだけ目を丸くして、これは見た目より若いかもしれぬと新太郎は思った。
勿論、只の虫籠では御座いませんよ。虫は虫でも、蟲を飼って居るのです。虫の字を三つ書いて蟲です。何より獣の霊が好物なのです。本当はモット性質の悪いのを喰わすのです。
十匹ばかり入って居ります。若だんなの御話の猫ならば、そうさな三日で喰らえましょうか。大した悪サもして居らぬのに何だか可愛そうな気も致しますが。
幾らだ、と男は言った。新太郎が値を言うと吝い顔をした。まけろ。言下にこれである。若だんな、御許しを。其れでは干上がってしまいます。三度ばかり値の遣り取りをして、ようやく男は納得した。運転手はその間じゅう部屋のすみで苦笑いをかみ殺して居た。
金を出し、蟲籠を受け取って男は挨拶も無く店の扉を開けた。オヤ、と新太郎は思った。運転手には開けさせぬのか。そう云えば来るときも開けさせていなかった。蟲籠も運転手に持たせるのが相場でないのか。
お気を付けて。男の背中に新太郎は声をかけた。お連れ様も。付け加えたのは此の横暴な男に四六時中付きあわされて居る哀れな運転手に同情したのだった。
男は振り向いて新太郎を見た。連れ? 眉が上がっていた。
おれは独りで此処に来たが。
新太郎はぽっかり口を開けた。男が益益怪訝な顔をした。イエ、ですが、確かに。
運転手を指そうと指を伸ばしかけて、新太郎は口をつぐんだ。運転手が笑っていた。唇の端を仄かに持ちあげて新太郎を見ていた。口は笑っていたが目は少しも笑っていなかった。
イエ、何でも御座いません。どうぞお気を付けてお帰り下さいまし。
男が出て行った。運転手も出て行った。扉がバタンと閉まった。
新太郎は額を拭った。汗でビッショリと濡れて居た。フト自分の言ったことを思い出した。世の中にはモット恐いのが腐る程居るのですよ。
猫を追ッ払ったとしてあの男、後どの位生きられるだろう。
イヤ、と新太郎は首を振った。過ぎたことだ。忘れよう忘れよう。拝み屋には客がドンドン来るのだ。イチイチ気にしては身が持たない。
と、カラン、と呼び鈴が鳴り、新太郎は猫撫で声を出した。いらっしゃいまし。