歓楽街
冬休みも近づき、幼少だった頃を思い出して書きました。
小学生だった頃、冬休みが近づくと、同一町内の子らが集められ、高学年が音頭をとり、過ごし方の留意点などをまとめ、最後に復唱した。
僕が小2の時だった。
5年の女の子かリーダーとなり、《お父さん、お母さんの手伝いは嫌がらずにやりましょう》と、これは理解できたが、幾つ目かの《『歓楽街』には決して1人では行かないようにしましょう》とあり、歓楽街の意味がピンと来なかった。
質問なんかはしない性格であった。
漠然と(長崎市内)浜の町までは行ってもいいが、思案橋から先は駄目なんだろうなぁと考えた。
そんな子供の頃の僕を誉めてあげたい。
でも僕は思案橋の近くの横丁を少しだけ知っていた。
ビートたけしがペンキ屋の倅であるのは有名だが、僕の家も似たようなもので、僕は家に来てた職人さんのマーコ兄ちゃんと、タツ兄ちゃんに育てられた。
タツ兄ちゃんは僕を連れてパチンコ屋にも行ったし、赤い口紅を塗った《怖い姉ちゃん》逹のいるところにも行った。
家で夕飯を食べて帰る毎日であったタツ兄ちゃんは、おそらく、夕暮れに僕を連れて、当日の「女のローテーション」を確認してから帰っていたのであろう。
子供には、どぎつい赤い口紅の女の人は、生肉を食った後のような印象があって怖かった。
怖かったけど、彼女逹は子供の僕が大好きだったようだ。
当時の彼女逹の格好は、1960年の前後であり、ミニスカートが考案されるには十年余りはやく、ボディコンの服なんて一着もない頃である。
漫才の《いくよ・くるよ》のくるよちゃんがよく着てる、島田紳助がサーカスの象使いが着てると言ったあんな服、それも信号よろしく赤青黄の原色であった。
とにかく僕は食べられるかもしれないと怖かった。
であるから5年生の女の子が、歓楽街に1人で行かないように注意するのも、もっともなことだと思った。
二十歳になってからこっち、僕の作品で判るように、僕は人一倍歓楽街には通いつめたほうだろう。
世の中にデフレという言葉があると知らない時分、ほとんど毎晩通ってた頃もあった。
そして判ったことがある。
《歓楽街》に《歓楽》は実は、ほとんどない。
こちらの財布が陥落してしまうことは、まま、ある。
最後のシャレが言いたかったわけでもないのですが‥




