恩師
テリア王国・国立魔術学院――。
千年の静寂を湛えたその場所で、ファウロス・ヘルミスは、人生で何度目かの「世界の終焉」を告げられた。
その内の二つは、愛した人間の妻たちの死。それは季節が巡るような、静かな喪失だった。そして、今――
「セレスティア・アルヴィレーンが、……追放?」
彼はちょうど、書架を漁っていたところだった。
白いシャツの袖口には、かつて卒業生から贈られたという、小さなカフリンクスが控えめに光っている。その手が、止まる。
掴む力を失い、ヘルミスは、手にしていた分厚い魔術書を落とした。ゴドンッという重い音が、静かな私室に響いた。
「どう……いう、こと――ですか?」
銀灰色の髪が、微かに波打つ。
同僚の教師がもたらした報せは、あまりに卑俗で、あまりに愚劣な内容だった。
ヘルミスのエメラルド色の双眸から、教え子たちを見守る柔らかな慈しみが、音を立てて剥がれ落ちていく。
「……正気か。この国は、国宝をドブに捨てて暖を取るほどに、知性を腐らせたというのか?」
王宮から流布されていた流言飛語。
セレスを貶める怪文書。
ヘルミスはそれらを、魔術師として当然浴びるべき「嫉妬の洗礼」だとして静観していた。
悪意を御し、敵を灰にする知略を持ってこそ、セレスティア・アルヴィレーンという傑作は完成する――そう信じていたからだ。
だが、国家が下した決断は、彼の計算を遥かに超えて無能だった。
「くそどもが……」
吐き捨てられた乱暴な毒に、ヘルミスは自分自身で愕然とした。これほど汚濁に満ちた言葉を口にしたのは、一体、何百年ぶりのことだろうか。
彼は足元に転がった魔術書を、沈黙で見下ろした。
『境界式の再編成と特異構造』――それは偶然の悪戯か、かつてセレスが在学中に幾度となく紐解いていた書だった。
脳裏に蘇るのは、深夜の資料室。
魔灯の淡い光の下、セレスが視線を伏せ、静かに零した言葉。
『先生の仰る通り、正しい構造で成り立つ魔法陣は美しいわ。でも――醜い心を抱えた私の構造は、再編成しても、美しく変わるとは思えない』
あの時、彼女が「実験」と呼んだ出来事の真相を、この学院で正確に把握していた者は、ヘルミスしかいない。
それを事故として処理し、記録を整え、彼女の醜さを世界から切り離したのも――彼だった。
『セレスティア。
きみの心が苦しいのなら、必ずしも高潔である必要はない。
……その醜い輝きこそが、僕の見つけた真理なのだから』
あの言葉は、教育とは程遠いものだった。恐らくそれは、ただの自己満足に過ぎなかった。
「……僕は」
声が、掠れる。
彼女に、強さを求めすぎたのだ。
国家に耐えうる才能として。
理論を更新する存在として。
そして――師としての誇りの中に、彼女を閉じ込めていた。
「僕は……」
拾い上げた魔術書の表紙を、ゆっくりと撫でる。
指先が、微かに震えた。
千年生きてきた。
多くの才能を見送り、多くの学生を育てた。
それでも。
「……セレス」
名前を呼ぶ声は、吐息のように掠れていた。
「僕の……セレス」
その言葉に、自分自身で嫌悪が走る。
それでも、止められなかった。
――彼女は、もうここにはいない。
追放された。
この国は、彼女を切り捨てた。
泥濘のようなあの心に、もっと寄り添えていれば――そんな仮定が、今さら意味を持つとは思えなかった。
だがもし――卒業証書を、渡していなければ。
「僕のセレス」
ファウロス・ヘルミスは、初めて悟った。
自分が築いてきたこの世界が、一人の教え子を救うことすらできなかったのかと。
魔術書を胸に抱き、彼は静かに目を閉じた。
その沈黙は、千年の誇りが、音を立てて崩れ落ちる音がした。




