特権区画
案内されたのは、城の西翼。
城の中で最も空気に瘴気が濃く、同時に最も「特権」が香る場所だった。
扉が開いた瞬間、セレスは悟る。
――ここは居住区ではない。
これは、選りすぐりの獲物を飾るための宝石箱だ。
広さも、調度品も、ただ豪奢なのではない。
過不足なく、逃げ道のない完成度だ。
美しさは、檻として最適化されていた。
壁一面を埋め尽くす書架へと歩み寄り、無意識に背表紙を指先でなぞった瞬間、セレスの指が凍りついたように止まった。
並び順。背表紙の微かな擦れ。そして、角がわずかに折れた栞の跡。
それは、数日前までテリア王国の自室に並んでいた、セレス自身の蔵書そのものだった。
亡命の際、持てるはずもなかった膨大な私物。偶然などではない。魔帝の手の者は、セレスが牢獄に繋がれている間に、敵国であるテリアの王宮に悠々と忍び込み、彼女の「生活」を根こそぎ奪ってここに運び込んだのだ。
「……趣味が悪いわね」
吐き捨てるような呟きに、部屋の隅の「影」が、感情を排した声で応えた。
「――陛下は、優れた『知』を、相応しくない場所へ遺しておくことを嫌われます。それらは貴女という主を失い、あちらの国で焼かれるのを待つばかりでした。……救い出したことに、不服が?」
影から一歩進み出たのは、額の両脇から小さな角を生やした少女だった。悪魔族。
黒レースを纏ったその姿は可憐ですらある。
だが、彼女が歩くたび、分厚い絨毯の繊維がわずかに軋み、空気が凍りつく。
魔圧だ。
両手に嵌められた鉄のメリケンサックには、無数の呪詛が刻まれている。
それはまるで、処刑具のようだ。
「お世話を務めさせていただきます。イリヤと申します」
淡々とした声。
感情がないのではない。
殺意を、完璧に統制しているのだ。
「いいえ。……泥棒の言い訳にしては、いささか上品すぎると思っただけよ」
セレスは鏡に映る自分を見た。
牢獄から出たばかりの、薄汚れた亡命者がそこにいる。
視線を巡らせれば、用意されたドレスが目に入る。
仮縫いすら不要な、狂気的なまでの正確さ。
寸分違わず、彼女の身体を知っているサイズだ。
書架の本も、景色の切り取り方も、家具の配置も。
すべてが「セレスティア・アルヴィレーン」という存在を前提に組み上げられている。
魔帝の執着が、指先に絡みつくようだった。
「湯浴みの準備をなさい」
セレスは微笑む。
「陛下が覗き見をしているのなら――せいぜい、美しいものを見せて差し上げたいわ」
その言葉に、イリヤの黒い翼が、ほんのわずかに波打った。
バスルームへと向かうメイドの背を見送りながら、セレスは、窓の外の毒々しく輝く帝都を見据えた。自分のすべてを知り尽くした男が、すぐ近くにいる。その圧倒的な支配に、彼女は吐き気を覚えると同時に、肌が粟立つような、禁断の昂揚を抑えられなかった。
唇を歪め、心の底で嗤う。
窓を開けると、肺を刺すような重苦しい空気が流れ込む。普通の人間なら数分で正気を失うほどの瘴気。だが、セレスはそれを深く、深く吸い込んだ。
「……ああ、不快だわ。本当に不快」
焼けるような喉の痛みが、「お前はもう、人間ではない」と、セレスに囁きかけていた。




