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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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6/10

快適な暮らし

 魔術を封じる黒曜石の手枷をはめられ、魔力を遮断する結界の牢に閉じ込められてから、十日が過ぎていた。


 本来ならば、飢えと瘴気に蝕まれ、孤独に精神を削り取られるはずの監獄。

 だが、鉄格子の向こう側に広がる光景は、地獄の底に咲いた、狂った真昼のようだった。


 石壁の湿り気は、どこから引き寄せたのか最高級のタペストリーで覆われ、床には素足で歩けるほど毛足の長い絨毯が敷き詰められている。窓もないはずの天井からは、不可解な魔力を帯びたシャンデリアが吊るされ、淡い光を牢内に振りまいていた。


 その光の下、髪を上品にアップしたセレスは、豪華な椅子に深く腰を下ろし、優雅に紅茶を啜っていた。鉄格子が軋む音が聞こえても、彼女は魔術書から視線を上げない。


「……何のご用かしら。ティーセットは一人分しか用意していませんのよ」


 それは、午後のお茶会に不意の訪問客を迎えた家主のような、傲慢なまでの平穏。

 狼頭の側近、ロカ・グランファングは、こめかみの血管を浮かせ、背後の影へと声を絞り出した。


「……陛下。ご覧の通りです。この女、自分が囚人であることを忘れております」


 影の中から、漆黒の外套をたなびかせた魔帝、ヴェラルク=ザハ・ヴェルグが足を踏み入れた。魔帝自らの御成りだ。

 その圧倒的な圧力を浴びて、セレスは初めて本を置いた。そして立ち上がり、ドレスの裾を摘んで、完璧なまでのカーテシーを捧げた。


「その品々……どうやって持ち込んだ。結界は生きているはずだ」


 魔帝の赤い瞳が、牢内の「異常な快適さ」を値踏みするように射抜く。セレスは毒を孕んだ蕾のような微笑を浮かべた。


「『アイテムボックス』にございます、陛下。大陸の凡庸な魔術師が持つ、ありふれた収納スキルですもの。陛下が驚かれるほどのことではございませんわ」


 大嘘だ。


 セレスが使ったのは、空間そのものを接合する転移魔術だ。彼女はこの監獄の壁を、代償を支払えばいつでも通り抜けられる。

 だが、それは行わない。なぜなら、自分を捨てた人族の国よりも、この残酷な魔王の足元の方が、よほど「美しい地獄」だと直感しているからだ。


「なるほど、ありふれたスキルか。……お前の言う『普通』とは、国家の安全保障を根本から叩き潰すレベルを指すのだな」


 魔帝が一歩、鉄格子へ歩み寄る。その瞳に宿るのは、獲物の解体を楽しむ捕食者の好奇だ。


「テリア王国の連中は、虎の尾を踏んだのではない。この世で最も美しく、最も始末に負えない『災厄』を、自ら手放したわけだ」


「買いかぶりすぎですわ。……本当は、手枷もそのままに過ごそうとしましたのよ。けれど、手首はムズムズしますし、空気は淀んでいるし。何より――私という『最高級の魔術師』を、こんな豚小屋に押し込めておく陛下の無慈悲さに、少しだけ教育が必要だと思ったのです」


 不敬を通り越し、もはや宣戦布告に近い言葉だ。

 一瞬の静寂の後、魔帝は爆発したように笑い声を上げた。


「はははっ!! お前のような女、俺の長い歴史の中でも見たことがない!!」


「陛下、笑い事ではありません! 監視を強めなければ――」


 慌てる側近を制し、魔帝は鉄格子の隙間から迷いなく、大きな手を伸ばした。

 次の瞬間、セレスは強引な力で鉄格子まで引き寄せられる。


「っ……!?」


 冷たい鉄格子の感触と、魔帝の暴力的なまでの体温。

 逃げ場を塞ぐように腰を抱かれ、赤い瞳が、至近距離でセレスを焼くように見詰める。その指先が、彼女の顎を乱暴に上向かせた。


 セレスのこめかみから、汗が一筋流れる。


(この男は、私の嘘を、見透かしているのではないだろうか――)


 魔帝がにやりと笑う。


「セレス。俺はお前に強烈な興味が湧いた。お前という器の底に、どれだけの毒が溜まっているのか……すべて飲み干さねば気が済まぬ」


 今にも唇を奪われそうな距離。支配者の熱に当てられ、セレスの頬に初めて朱が差した。

 それなのに――魔帝は、耳元で氷のように冷たい宣告を投げた。


「だが、覚えておけ。俺を裏切れば――お前の親友、ミレア・フェルノアの命を対価として徴収する」


 人質だ。

 最愛の存在を盾に取られた瞬間、セレスの瞳が妖しく潤んだ。そして、怯える代わりに、艶やかに綻んだ。


「……あら、それは素晴らしい提案ですわ、陛下。私が裏切りさえしなければ、ミレアは『魔帝』という世界最強の壁によって、誰よりも安全に守り抜かれる。――そう解釈してよろしいのですよね?」


 人質を「警護」と言い換える。奪われた自由を「契約」だと笑い飛ばす。

 セレスが放つ異様なまでの余裕に、側近は胃を押さえて項垂れた。


「……陛下。この女、毒蛇どころか、自ら毒を飲むことを愉しむ猛獣ですぞ」


「構わん。俺はこの女が気に入ったのだ」


 ヴェルは満足げに笑い、漆黒のマントを翻した。


「出ろ、セレスティア。肩書は……そうだな、『魔術書研究員』でいいだろう。お前には、俺の近くでその『毒』を研鑽させてやる」


 石牢の鍵が、開く音がした。


 セレスは静かに笑い、自ら作り上げた「快適な檻」から、一歩、外へと踏み出した。

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