失格者
血の匂いのする空間転移を経て、セレスは自室へと帰還した。
待っていたのは、赤子を抱き、落とさぬように必死に抱き締めていたイリヤと、泣き叫ぶ坊や。
「セレス様――」
セレスは無言で、イリヤの腕から、我が子をそっと抱き上げた。
産後の体には、その僅かな重みさえも鉛のように響く。
セレスは赤子の柔らかな頬に顔を埋め、その匂いを存分に吸い込んだ。何度も、何度も、壊れ物を慈しむように、その背をなぞる。
赤子は段々と、眠りに落ちていく。
「――坊や。私の坊や」
そう言うとセレスは、憑き物が落ちたような顔で、再び我が子をイリヤの腕の中に預けた。
「この子を連れて、私の隠れ家へ。今すぐに」
唐突な断絶に、イリヤの思考が停止する。
「……何を、仰っているのですか」
「この子を託せるのは、世界で貴女だけ。だから、死んでも護り抜きなさい。私の、坊やを」
「――!? そんな……それならば、セレス様ご自身が坊ちゃまと共に行かれるべきです。今ならまだ――」
「いいえ、イリヤ。私はこの国の皇后です」
セレスの唇が、冷酷な弧を描いた。
それは民への慈愛ではなく、魔帝ヴェラルク=ザハ・ヴェルグという男と、地獄の底まで連れ添うという、血塗られた契約の証明だった。
「坊ちゃまにとって、母君はセレス様、ただお一人なのです! 捨てないでください!」
「ええ。……陛下と私の、たった一つの大切な希望。だから――さあ行きなさい、イリヤ――!!」
まただ――と、イリヤは絶望する。また、イリヤはセレスに送り出されるのだ。
なんて身勝手な主だろう。最も過酷な役割を「信頼」という名の鎖で縛り付け、押し付けて来やがるのです。
イリヤは赤子を強く抱き直した。
溢れ出る涙を拭うことさえ許されず、強制的に開かれた転移の門へと、イリヤは赤子を抱いて、飛び込んだ。
◇
部屋に残されたのは、静寂と、肩に止まった一羽のシマエナガだけ。
セレスはその鳥を見つめ、指先でその小さな頭を弾いた。
「名は返してあげる。……もう、私を見なくていいわ」
命名の契約を解除し、セレスは窓を開けた。
「さあ、自分の巣へお帰り」
名もなき鳥は、夜空へと飛び去り、見えなくなった。
セレスは独り、鏡の前に立った。
乱れた衣服を整える。それから、鏡に映る自分へ向かって、にっこりと笑った。




