選択
ネクレイア城――地下ならば、逃げ道はある。
そう判断したヘルミスは、石段を下った。湿った冷気が、ハイエルフの端正な貌を撫でた。
そこで彼は、――自分が、逃げた過去の残骸を目にした。
◇
ミレアの家の戸を叩く音は、いつもと何ら変わりない。
靴先も入らない程、薄く戸を開けたのは、ルキウスだ。セレスの顔を見て、頬骨が引き締まる。
彼の背後。薄暗い部屋の中には、ミレアが立っていた。
せり出した腹に添えられた指が、白く強張っている。彼女は、親友の瞳を見た。
そして理解したのだ。
なぜ、セレスが来たのかを。
「――入って」
押さえられた声。ミレアのものだ。
セレスは無言で足を踏み入れた。
ミレアは、召集令状を手にしていた。
あの王子――いや、既に国王か――は、セレスの判断を鈍らせるために、ミレアを戦場に立たせるつもりなのだ。
ミレアは召集を断ることはできないし、逃げれば、この村の人間は、一人ずつ首を刎ねられる。
或いは、セレスが死ねば、ネクレイアの人質でもなくなるミレアは、『知りすぎたもの』として、いまや夫となったルキウスに、始末されることになるだろう。
だから、今、ミレアとルキウスを、セレスは独断で、自分の隠れ家に転移させようとしていた。
村人全員を、説得する時間などない。
そんな演説など、持ち合わせていない。
ミレアの視線が揺れる。窓の外、魔族であるルキウスを孫のように受け入れてくれた、無垢な村人たちの暮らし。彼らを見捨てて、生き残るのか。
そうして、この腹の子を育てるのか――母として。
村人か、セレスか。
いや――生むか、生まぬかだ。
ミレアの視界から、選択肢が一つずつ消えていく。
やがて、ミレアはセレスの指を掴んだ。その手は、冷え切っていた。
「……魔女だもの。……私たち」
ミレアが、自嘲気味に笑った。その笑みには、清廉な乙女の面影はもうない。
「ええ。魔女だもの」
セレスは、躊躇なく空間を抉じ開けた。現れた転移の門は、どす黒い亀裂のように室内を割り裂く。
ミレアとルキウスは、互いの手を強く握りしめた。
感謝の言葉も、惜別の笑顔もない。
自分たちが捨て去った村の「静寂」を背負い、二人は闇の向こうへと消えた。
ただ、ミレアは一度だけ、腹に触れた。
それが祈りだったのか――誰にもわからないまま。




