侵入者
赤い月が、夜空に浮かんでいる。
赤子を抱いて、セレスは中庭へ渡る廊下を歩いていた。
腕の中の小さな命が、おしゃぶりを加えて、あむあむと口を動かしている。
イリヤは、半歩後ろに控えている。
――騒がしい。
帝都の空気が、明らかに変わっていた。
金属が触れ合う音。
張り詰めた魔力の流れ。
どうやら、侵入者があったらしい。
魔兵たちが、各々武器を構え、周囲を警戒している。
空にも、索敵が巡回していた。
セレスは、足早に私室へ戻った。
扉を閉め、結界を重ねる。
幾重にも魔力を走らせてから、ようやく息を吐いた。
窓際で赤子をあやす。
魔帝によく似た赤い瞳が、乳を探すように揺れ、ふと――
泣き声が、止んだ。
まるで、何かを見つけたかのように。
その時。月灯りの届かぬ部屋の暗がりが、僅かに歪んだ。
その暗がり。セレスの背後から、二本の腕が伸びる。
清らかな体温が、唐突に背中へ触れた。
「――迎えに来たよ、セレス」
ヘルミスだった。
殺気がない。それゆえ、帝都の深部まで、入れたのだろう。
イリヤが、戦闘態勢を取った。魔力が、鋭く立ち上がる。
「一緒に帰ろう。セレス」
その声に、血の気が引く。
腕の中の命を護るように、セレスは無意識に背中を丸め、隠すように強く抱きしめる。
「その子も、僕は愛することを誓う」
ハイエルフの体温が、背中に滲む。
セレスの皮膚が、拒絶するように粟立った。
「一人でお帰りください、先生。今なら、イリヤも動かさないと約束します」
「セレス」
ヘルミスの腕が、僅かに強ばる。
その指先が、我が子の髪に触れようとしたその時。
セレスは、長く、静かな息を吐き出した。肺腑の底に溜まっていた過去の残滓を、すべて吐き捨てるように。
「あなたはもう。私の中にはいないのです」
背後で、何かが壊れる気配がした。
音はなく。
ただ、沈黙だけが落ちた。
腕が、ゆっくりと離れる。
ヘルミスは悲しむこともなく、ただ人形のように、窓から闇へと滑り落ちた。
空を見上げれば、彼を探すネクレイアの魔兵が、影のように巡っている。
◇
緊張から、一気に解き放たれたセレスは、床に崩れ落ちた。
産後の体は悲鳴を上げている。
イリヤが駆け寄る。開いた窓を閉じると、セレスの肩を抱いた。
「セレス様! お体を――」
セレスは息を整えながら、ヘルミスが、危険を冒してまで来た理由を、考える。
それは、一つの結論に辿り着いた。
『テリア国による、ネクレイア魔帝国への侵攻』
「イリヤ」
セレスはベビーベッドに赤子を寝かす。
「私は今から、ミレアに会いに行く。この子を見ていて」
イリヤの顔が青褪める。
セレスはアダマンタイトの杖を持ち、躊躇なく、転移魔術を詠唱した。
自らの魔力を無理やり逆流させ、空間を力任せに引き裂く。
鼻からツゥ……と、血が垂れた。




