楔(くさび)
帰国したことを魔帝に知らせるため、セレスは魔帝の執務室に向かった。
◇
少し前。
分厚い扉の内側で、低く抑えた会話があった。
「自分は、あの女が皇妃に相応しいとは思いません」
ロカの声だった。
低く、濁りのない声だ。感情はない。ただ、無機質に乾いている。
「お子は、どうなさるおつもりですか。陛下の魔力と釣り合うお子を、あの女が宿すとは思えません」
沈黙。
「――セレス以外の女を、娶る気はない」
「……それは――」
「なら、お前が継げばいい」
言葉を遮るように、魔帝は続ける。
「そうだ。結婚はしないのか。あの、黒い毛艶の魔狼族の女」
「ここに来る前に切りました。娼館の女です」
ロカは、一瞬も間を置かず答えた。
切った。
捨てた、ではない。
選別し、不要と判断し、処理した――そういった類の言葉だった。
「いいではないか。身分など関係ない」
「そういう話ではありません」
ロカの声は揺れない。
愛を語らぬことこそが、忠誠の証だと信じている者の声だ。
短い沈黙。
セレスは、今まさに、その扉の前で足を止めた。
「だが、そうだな――人族との交渉は、セレスが前に出た方が早い」
扉の向こうから漏れたその声は、整いすぎていた。
温度も、躊躇も、揺らぎもない。
重厚な扉に添えた指先が、止まる。
叩こうとしていたことを、指が忘れたように。
声は、よく知っているはずだった。
何度も名を呼ばれ、夜空を裂いて飛んだ声だ。
――なのに、重ならない。
息の荒さも、熱も、風を引き裂いたあの速度も、そこにはなかった。
あるのは、決定事項を読み上げるような、音だけ。
セレスは、ノックする手を下ろした。
扉を開ければ、彼女は仮面を被らねばならない。
魔帝の婚約者。
人族と魔族を繋ぐだけの、ただの楔。
都合よく打ち込まれ、都合よく抜かれる、道具としての金属片。
今のセレスには、その役を演じ切るだけの魂が、残っていなかった。
踵を返す。
その背後で、扉が開く音がした。
振り返らずとも分かる。
そこにいるのは、ロカだ。
廊下の空気が、僅かに軋んだ。
セレスの足元を照らしていた魔灯が、音もなくひび割れる。
セレスの怒りは、震えにはならない。
ただ、制御されたまま、外へ滲み出ただけだ。
「……立ち聞きとは、感心しませんな。セレスティア様」
独り言。
背後から投げかけられた声は、丁寧で、冷ややかで。傷ついた獲物の呼吸数を測る者のそれだった。
セレスはそれと知りながら、歩いた。
ただ、割れた魔灯の破片だけが、廊下に散らばっていた。




