魔術師の正義
魔帝の沈黙は、処刑人の刃よりも冷たく、重い。
言葉ひとつで首が落ちる。
謁見の間の瘴気が渦を巻き、人族であるセレスの肺を容赦なく焼き焦がしていく。喉の奥にせり上がる血の味を飲み込み、彼女は血のように赤い双眸を凝視し続けた。
「俺の領地で、黒魔術を学ぶという意味は、理解しているのか?」
魔帝――ヴェラルク=ザハ・ヴェルグの声は低く、感情の起伏を一切含まない。
問いというより、確認だった。
「理解しております、陛下」
躊躇も、逡巡もない。
「黒魔術は、人族の禁忌だ。
それを会得した時点で、貴様はどこにも帰れなくなる」
「存じております」
「魔帝国に身を置けば、いずれ戦に立つ。
貴様の敵は、人族になる」
「はい」
淡々と肯定を重ねるセレスを、魔帝はしばし無言で見つめた。
赤い双眸が、獲物の骨格を透かし見るように細められる。
「……不思議だな」
ぽつりと零れた言葉に、嘲りはなかった。
「人族は、裏切られると復讐を語る。
理不尽に追い落とされれば、正義を掲げる。
だが貴様からは、どちらも感じられん」
魔帝は身を乗り出し、肘掛けに肘をついた。
「聞こう。この国を裏切らないというのなら、その理由はなんだ?」
それは核心だった。
忠誠の誓いではない。
思想の確認でもない。
保証の所在を問う声だった。
セレスは、一瞬だけ視線を落とした。
そして、静かに笑った。
「裏切らない理由、ですか?」
「ああ」
「ございませんわ、陛下」
即答だった。
謁見の間の空気が、わずかに軋む。
側近の獣魔人が、ぴくりと尾を揺らした。
「……ほう」
「私は、信頼に値する人間ではありません。
正義も、忠誠も、誓いも――必要とあらば捨てます」
セレスは顔を上げ、真っ直ぐに魔帝を見据えた。
「ですから、保証をお求めになるのは無駄です」
数秒の沈黙。
そして、魔帝は低く笑った。
「いい答えだ」
愉悦が、はっきりと滲んでいた。
「では問おう。
貴様に――逃げ場は、あると思うか?」
その言葉に、セレスは初めて息を止めた。
「人族の国に戻れば、処刑。
他国に逃げれば、研究対象か、討伐対象。
魔帝国を出た瞬間、貴様は世界中の敵になる」
赤い双眸が、細く光る。
「理解したか?」
セレスは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、奇妙な高揚が満ちていく。
――ああ。
これでいい。
「はい、陛下」
「ならば、貴様は自由だ」
その言葉に、側近が一瞬だけ眉を動かした。
「裏切る自由もある。
だが――裏切った瞬間に終わる」
魔帝は、はっきりと告げた。
「俺は貴様を信じない。
信じる必要がない構造を、すでに与えたからだ」
沈黙。
そして、セレスは微笑んだ。
「……素晴らしいですわ」
魔圧に肺を潰され、唇の端から一筋の血を零しながらも、セレスは心底うっとりと微笑んだ。
「正義より、よほど誠実です」
魔帝は満足げに口角を吊り上げた。その赤い眼差しが、檻に入れる前の猛獣を愛でるような昏い熱を帯びる。
「気に入った。――投獄してやる」
次の瞬間、無骨な魔族の兵がセレスを拘束した。人族の王宮で受けたような、形式ばかりの丁重さなどそこにはない。肉に食い込む力、死の臭い。
やはり、セレスは抵抗しなかった。だが、あの時とは、意味が違う。
石牢へと引きずられながら、セレスは暗い悦びに震えていた。
ここに来て、初めて―― 逃げ場のない「居場所」が確定した。
ここには、『自由』と『尊厳』がある。
鉄格子の閉まる鈍い音が、セレスには福音のように聞こえた。




