王
セレスがまだ、王宮魔術師・筆頭になる『前』のことだ。
国王陛下の体には、いたる所に悍ましい痣が浮き出始めていた。
それは病というより、内側から滲み出した何かが、皮膚を押し上げているように見えた。
セレスは、エプロンをして、口元を覆い、手袋をはめる。
準備を終えても、呼吸の速さは変わらない。
ベッドに横たわる王は、天井を見つめていた。
視線だけが、ゆっくりと動き、セレスの手を追う。
白い軟膏が、痣の縁をなぞる。
指先は一定の速さで、止まらない。
「……名を」
王の声は、思っていたよりも掠れていた。
セレスは顔を上げずに、処置を続ける。
「名を、聞いておらぬ」
「セレスです」
短く答えた。
王はしばらく黙り込んだ。
「ほかの者とは、違う」
息を吸う音が、寝台の布を震わせる。
「皆、この痣に触れるのを嫌がる。手袋越しでもだ。だが、きみは……」
セレスの手は、変わらず動いている。
「丁寧だ」
それが褒め言葉だと、セレスは理解した。
理解したが、返す言葉はなかった。
「セレス……正式な、名は?」
軟膏の白色が、塗っていく合間にも濁っていく。
セレスは、手を止めずに答えた。
「……セレスティア・アルヴィレーンです」
その名が落ちた瞬間、部屋の空気が、目に見えない重さを持った。
王の目が、見開かれる。
「アルヴィレーン――アルヴィレーンと言ったのか?」
「はい。陛下」
その名が刻むのは、かつて彼が地図から消した村の記憶。
王の喉が、鳴る音がした。
「お前は」
言葉が続かない。
息だけが、浅くなる。
「儂を、殺しに来たのか?」
セレスは、初めて王を見た。
視線が交わる。
王の瞳に宿ったのは、恐怖ではなく「期待」だった。自分の首を絞める手が、かつて焼き払った村の生き残りであってほしい。その劇的な因果応報で、己の罪を浄化したかったのだ。
だが、セレスは無機質な視線のまま、手袋越しに、冷たい軟膏を取る。
「いいえ」
即答だった。
「儂を、恨んでいないというのか?」
「はい」
「――なぜ?」
問いが、縋るような形をしていた。
「これが、今の私の仕事ですから」
王の呼吸が、一瞬、止まる。
「……仕事?」
「王宮魔術師としての。治療です」
痣の上を、指がなぞる。
まるで、壊れた器具を整備するように。感情を殺し、ただ効率的に、王の命を延命させるため。
「儂は……」
王の声が、震え始める。
「多くを奪った。名も、土地も、未来も」
セレスは、手を止めない。
「はい」
「それでも、きみは……」
「陛下」
セレスは、淡々と告げた。
「陛下は、名も知らぬものの命を奪うたびに、何を失ったかを、考えたことはありますか?」
その声には、憎しみすら欠落していた。
「大義なんてありません。明日の糧を得るために、私は、あなたの指し示す場所を焼いてきただけです」
沈黙が落ちる。
王は、何かを待っていた。
怒りか、涙か、呪詛か。
だが、来ない。
代わりに――
「私は、考えました」
王は絶望した。目の前の生き残りは、復讐者ですらなかった。己の罪を断罪してくれる者さえ失った王は、震える声で問うた。
「今のきみは――なにを望む?」
「安寧を」
それが、自分が奪い続けたものの名前だと、王は遅れて理解した。
その日、セレスは王から「筆頭魔術師」という名の、最も重い鎖を授けられた。




