竜人の国
六年前。
竜人族の杖を希望した卒業予定者が、三人。
ヘルミス先生の引率で、この地を訪れた。
その中に、セレスもいた。
懐かしい――とは、もう思えない。
胸の奥で、記憶が乾いた音を立てて崩れた。
イリヤが通行書を門番に差し出す。
竜人族の国は、相変わらず華やかだった。
永世中立国家。
戦争も、正義も、ここでは一度、骨抜きにされる。
今夜から五日ほど滞在するホテルへ向かうため、馬車を降りた、その時。
背後で、別の馬車が止まった。
騎士を護衛につけた、王族用のそれだ。
振り返った瞬間――
馬上の男と、視線が絡んだ。
セレスは、ほんの僅かに、息を止めた。
アーデルハイト。
テリア王国騎士団・団長。
赤毛に、茶色の瞳。
鍛え抜かれた体躯は、戦場の記憶そのものだ。
彼は馬上から、動かなかった。
ただ、見ていた。セレスを。
その瞳が、揺れる。
(――生きていた)
そう言っているような目だ。
そしてその事実が、アーデルハイトの胸を抉った。
セレスは、死んだと思われていた。
少なくとも、彼の中では――。
それが今――
魔族を従え、異国の地で、かつてよりも鮮烈に、かつてよりも毒々しく、咲いている。
アーデルハイトの喉が、微かに鳴った。
自分が命令に従った世界で、彼女は切り捨てられた。
自分が剣を振るった戦場で、彼女は別の選択をした。
――そして、生き延びた。
それが、彼の敗北だった。
彼女は、もう、「守られるべき存在」ではない。
その時、馬車の扉が、開く。
嫌な予感は、寸分も外れなかった。
降りてきたのは、テリア王国の王子。
セレスを認めた瞬間、その顔に、露骨な嫌悪と、歪んだ喜悦が浮かぶ。
「……なぜ貴様がここにいる?」
声が、震えていた。
怒りではない。
それでは果たして――未練だろうか。
「まさか、この僕を追ってきたのか?
それとも――、今度は魔族の国から情報を流しに来たか? 売女」
言葉は下劣だが、視線は、執拗に、セレスの魔力の残滓をなぞっていた。
国家が、喉から手が出るほど欲しがる魔術の才能。
自分のものになるはずだった。
拒まれ、逃げ、今は魔帝の側で使われている《《力》》。
「……汚らわしい」
王子は、ハンカチで口元を覆った。セレスの背後を一瞥する。
「そんなものを従えて――。
魔族の国に亡命? あんなものは国ですらない。気でも触れたか――。
それとも最初から、獣と通じていたのか?」
イリヤが前に出る。殺気が、剥き出しになる。
だが、セレスは静かに手を伸ばし、イリヤを制した。
「下がりなさい、イリヤ」
その声は、冷えていた。
「馬鹿を相手にしても、時間の無駄よ」
一瞬、王子の顔が、理解できないものを見るように歪む。そして、「相手にされていない」という事実に――激高した。
「貴様――!!」
拳が振り上げられた。
その腕を、アーデルハイトが掴んだ。
「殿下」
低く、抑えた声。
「これ以上は、国際問題になります」
「だからなんだ! 僕は王子だぞ! その女は――」
「どうか、お控えください」
その一言には、忠誠よりも、疲労が滲んでいた。
王子は舌打ちし、腕を振り払う。
「もういい! 貴様も、あっちへ行け! 顔も見たくない!」
怒りを撒き散らしながら、王子は執事に支えられて、ロビーへと消えた。
風が、国境の空気を撫でる。
アーデルハイトは、短く息を吐いた。
その背中を見て、セレスは、ほんの小さく笑った。
「……大変そうね」
「笑い事じゃない」
そう言いながらも、彼の視線は、再び、セレスに戻る。
今度は、逃げ場のない重さで。
「……久しぶりだな」
アーデルハイトの声は、戦場の砂を噛んだように擦れていた。
「ええ」
それだけで、十分だった。
「……少し、話さないか」
「殿下を放っておいて?」
「本人に、行けと言われた」
自嘲気味に、肩を竦める。
ここは永世中立国家。
誰もが、国家より先に、竜人の裁きを恐れる。
セレスは頷いた。




