長閑な日
薬草畑には、色とりどりの花。小高い丘の上には、一本の古木。
乾いた葉擦れの音が、丘の斜面をなぞっていく。
その根元に、簡素なテーブルと椅子が二つ。
――二度と来ることはない。そう思っていた場所。
セレスは胸の奥に走る小さな疼きを無視し、丘を登った。
畑仕事の合間の休憩だろう。
ミレアは腰を下ろし、湯気の立つ茶を啜っている。
だが、その向かいに座る男の姿を認め、セレスの足が止まった。
浅黒い肌に黒髪。
精悍な顔立ち。
耳は先が尖り、額の両端から短いツノが生えている。
種族は、悪魔だろうか。
あれは恐らく、ミレアを見張っている、ネクレイア魔帝国の――暗殺者。監視役。
その男は隠れる気配すらなく、堂々とミレアの淹れた茶を飲んでいた。
ミレアが毒を盛っていないと確信しているのか、あるいは毒ごと飲み干す自信があるのか。監視対象と茶を囲むその光景は、奇妙に歪んで見えた。
ミレアが、その男を味方に引き入れている。
そうでなければ、成立しない光景だ。
――さすが、『お茶会の魔術師』。と、セレスは思った。
「あなたって、本当に突然来るんだから」
ミレアが、呆れたように微笑む。その声には、親友だけが許された温かな棘があった。
「いいのよ。あなたに会えるだけで、十分なんだもの」
セレスが答えると、ミレアはふっと肩を竦めた。
「ルキウスから聞いたわ。今の肩書は……『魔帝の婚約者』ですって?」
ルキウスというのは、その監視役の男の名だろう。
ミレアの言葉は軽いが、その瞳の奥には、深い憂慮が沈んでいた。
「テリアの王子の求婚を蹴って、魔帝を選ぶなんて。……私を人質に取られたことへの罪悪感? 私たちの間に、そんな無意味な気遣いは必要ないはずだけど」
「違うわ」
セレスは、即座に否定した。
「これは、ただの契約だもの」
セレスの胸の奥に、侮蔑とも自嘲ともつかない笑みが込み上げる。
その時、低い声が、二人の間を割って入った。
「俺は、たとえ貴女が皇妃候補だとしても」
その男――ルキウスは、片足を膝に乗せ、テーブルに肘を立て頬づえをつき、射殺すような視線をセレスに向けた。
「ミレアを人質に使ったことは、許さない」
セレスは目を丸くした。
「あら」
そして、あえて微笑んだ。
「随分……ミレアにご執心のようね。これは――魔帝への裏切りではないかしら?」
煽るような言葉が、唇から滑り落ちた瞬間。
「これ以上はおやめください」
後ろに控えていたイリヤが、影のようにセレスの横へ滑り込み、ルキウスの視線を遮った。そして――
「お兄さま」
一瞬――静寂が丘を支配した。
セレスは口を、あんぐりと開けた。
ミレアも知らなかったのか、驚いた様子で口元に手を充てる。
「イーリーヤー! なんだその『お兄様』なんて気取った呼び方は! 昔みたいに『にぃに』って呼んで飛びついてこいよぉ!」
先ほどまでの冷酷な暗殺者の顔はどこへやら、ルキウスは猫なで声でイリヤに抱きついた。だが、イリヤは『無』の表情のまま、頬をこねくり回す兄の手を冷ややかに受け流す。
「お兄様。私は今、セレス様の『拳』です。身内であっても、主を侮辱する者は殴り捨てます」
ルキウスの顔から、ふざけた色が消えた。彼は妹の手を離すと、セレスへ向けて吐き捨てるように言った。
「……その女に、何をされた」
「私は、セレス様に魂を救っていただいたのです」
イリヤの断言に、ルキウスは忌々しげに顔を顰めた。
だが、それ以上はなにもない。
風は棚引き、丘は平和だ。
セレスはふと、眼下に広がる静かな村を見つめた。
「そういえば、旅行に出たっていうご両親は? まだ、帰ってないの?」
その問いに、ミレアは深く溜息を吐いた。
「たぶん、一生帰って来ないわ」
「え?」
ミレアの父はこの村の出身で、薬師の資格を得て、ここに店を構えた。
ミレアの母は元は剣士で、各地を放浪する冒険者だった。
旅の途中、薬を仕入れるため、この店に寄ったのがきっかけで、二人は恋仲になり、後に、ミレアが生まれたのだそうだ。
冒険者だった母は、それからずっと、父の店を手伝っていた。
ミレアが店を継いだので、父はミレアに店を譲り、二人は念願だった冒険へと、仲睦まじく旅立ったらしい。
「私をほったらかして。きっと今もこの空の下のどこかで、幸せな旅の途中なんだわ」
不貞腐れて頬を膨らませるミレアに、セレスは微笑んだ。
「……素敵なご両親ね」
その微笑みは、かつて孤児院の窓から、遠くの街明かりを見ていた時と同じ、渇いた色をしていた。
一生帰ってこない――死すらも共有し、誰にも邪魔されない場所へ。
セレスには、それが、妙に眩しく思えた。
そしてひっそりと、左手の薬指に唇を重ねた。
そこに、ヴェルの噛み痕があった。




