夜に選ばれる
森は静かだった。
風もなく、枝葉の擦れる音すら遠い。
小高い丘の上で、ヴェルは足を止め、腕の中のセレスをそっと地に降ろした。
夜露に濡れた草が、足裏でかすかに鳴る。
遠く、フクロウの鳴き声が聞こえる。
ヴェルはセレスを抱き寄せたまま、夜空を仰いだ。
月は高く、雲一つない。
「……俺が、まだ言葉を持たなかった頃」
低い声だった。
語りかけるというより、記憶を掘り起こす音に近い。
「ここで、同じ月を見ていた」
セレスは黙っていた。
促されなくとも、今は聞くべきだとわかったからだ。
「恐怖だけが、俺を支配していた。
名もなく、姿も定まらず、ただ人の夢の底を歩いていた」
セレスの喉が、無意識に鳴った。
「あなたは、なんの魔物だったの?」
問うと同時に、胸の奥がざわつく。セレスの脳裏に、幼い頃の記憶が一瞬過る。足元が、僅かに揺れた。
ヴェルの手が、即座にセレスの背を支えた。
「どうした?」
セレスはヴェルの胸に額を預けた。
そのまま、腕を回す。
「大丈夫」
「初めての任務で、大変な思いをさせてしまった」
ヴェルが、セレスの頭を撫でた。
「ううん。私が勝手に首を突っ込んだだけ」
「だがそのお陰で、あいつの不正が白日の下に出たのだ。ただし……」
次の瞬間、ヴェルの腕に力が籠もる。
「二度と、同じことはするな」
静かな声。セレスに、拒否の余地はなかった。
「でないと……俺が耐えられない」
白銀の月が罪を暴くように、ふたりを照らす。
見上げたヴェルの横顔は完璧で美しく、セレスは息を呑んだ。
ヴェルは視線を下ろし、セレスを見詰める。
「俺はブギーマンだった。子供の悲鳴を苗床に、恐怖という名の果実を喰らって生きる、実体のない泥だ。……幻滅したか?」
セレスの指が、ヴェルの頬に触れた。
その指を、ヴェルが優しく包み込む。
「震えているのか?」
「ええ」
「どうして?」
「ブギーマンは、どんな魔術を使って、子供の夢を渡り歩くんだろうって……」
今になって、セレスの脳裏に、偽りの報告をした――という後ろめたさが甦る。
ヴェルの口元が、にやりと歪んだ。
「ブギーマンはどこにでもいる。だが俺は実態を得て、時間軸を越えることができなくなった。だが、転移の魔術は使える。それが、唯一の名残りなのだろう」
転移魔術――セレスは、自分も使い手であることを伝えるべきか、迷った。
あの時、嘘をついていたとなれば、この国を、ヴェルを、欺いたことになる。
この男は嘘を見抜くだろうか。それとも、嘘ごと私を飲み込むのだろうか。見限られたくない、という願いが、喉の奥で煮え立ち、告白を封じ込めた。
「セレス。改めて申し込むぞ」
突然、ヴェルが片膝をつき、セレスに向かって左手を伸ばした。それは敬意ではなく、救済でもない。契約だ。
「俺にすべてを差し出せ。お前の過去の痛みも、隠し持っている嘘も、魂ごとすべてだ。その代わり――俺の永遠を、お前に刻んでやる」
魔帝が笑う。牢獄で見せた、あの「不遜な女」への渇望を剥き出しにして。
この男はきっと、知っていたのだ。セレスの欺瞞を。
それでも。逃げることはできる、とセレスは思った。
セレスは、その場に立ったまま――
『あなたの嘘と、私の嘘。それを重ねて、誰も入れない檻を作りましょう』
そして、吸い込まれるようにして、セレスは魔帝の手を取った。
指先が絡め取られ、体は、ヴェルに引き寄せられていた。
抱擁は荒く、体温は熱すぎるほど。
うなじを掴むように抑えられた。
衝動は、セレスの声を奪った。
噛みつくようなキス。
息を奪われ、視界が揺れ、思考が断ち切られる。
身体が覚えてしまう速度で、熱が流し込まれてくる。
セレスは一瞬、反射的にヴェルの腕に指をかけた。
それが抵抗なのか、確認なのか。
もう自分でも、分からない。
確かなのは、檻の鍵は――外からではなく、内側から閉められた。
◇
翌朝、セレスを包んでいたのは、暴力的なまでの静寂だった。
広大なベッドに、ヴェルの姿はない。公務に戻ったのだろう。そこにあるのは、人肌の熱を失い、シワだけを残したシーツ。
――セレスティア
耳元に残る残響と、昨夜浴びた熱量。けれど今、セレスの肌を撫でる朝の空気は、孤児院の納屋で感じた冷気と酷似していた。
守られるはずの場所で、誰にも必要とされていない朝。
ゆっくりと起き上がり、部屋の外で待機していたイリヤを伴い、セレスは自室に戻ると身支度を整え、親友ミレア・フェルノアの家へ向けて出発した。
ヴェルが用意してくれた、空を飛ぶ馬が引く、優雅な馬車に乗って。




