居場所
イリヤが用意してくれた風呂の湯は、以前と同じ温度だった。
熱すぎもせず、冷たすぎもしない。指先を沈めた瞬間に、細胞が「正しい」と安堵する温度。
それなのに――。
セレスは、息を整えるのにほんの少し、時間を要した。
湯に身を沈める。
水面が肩まで届き、耳元で小さく音を立てた。皮膚を撫でる感触は柔らかく、疲労も緊張も、確かに溶けていく。
けれど、胸の奥に溜まった何かだけが、湯に混ざらない。
沈まない澱のように。
湯気の向こうで、自分の輪郭がぼやける。
ここに戻ってきたはずなのに、どこか、足場が定まらない。
湯を上がり――用意された寝衣は肌に優しく、ベッドは身体を過不足なく受け止めてくれる。横たわれば、自然と力が抜けた。
安全だ。
守られている。
そう言い聞かせるほどに、胸の奥の冷たい芯が疼く。
目を閉じれば、瞼の裏にはあの男の瞳があった。
この世で最も美しい『魔帝』。
あの眼差しを独占する。その代償として、自分は何を差し出すのか。
――ここでなら、穏やかでいられる。
――ここは、私を受け入れてくれた世界だ。
この場所を護るために。
ヴェルの隣に立つために。
私には、どこまでの覚悟があるのだろう。
肺の奥を深く、瘴気で満たす。
けれど、答えに辿り着く前に、意識は沈んでいった。
深い水底へ落ちるように。




