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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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魔族の帝国

 ネクレイア魔帝国。

 瘴気が、喉を焼いていた。息を吸うたび、肺が軋む。人間が長く立っていていい場所ではない。


 セレスは謁見の間の石床に額を擦りつけながら、込み上げる嘔吐感を魔力でねじ伏せていた。空気に混じる瘴気が、人族である彼女の細胞を一つひとつ破壊していく。  だが、彼女は指先一つ震わせなかった。ここで心を折れば、文字通り「塵」として掃き捨てられるだけだと知っていたからだ。


「顔を上げろ」


 それは、玉座の魔帝か、隣に立つ側近か。どちらの声だったか――セレスは顔を上げた。


 玉座に鎮座するのは、暴力的なまでの「美」。


 吸血鬼ノスフェラトゥか、夢魔インキュバスか。あるいは、竜人ドラコニアンから分岐した、より深き魔種なのか。


 漆黒の角、血を固めたような双眸。魔族を統べる始皇帝――ヴェラルク=ザハ・ヴェルグ。


 纏った黒の礼装の上からも、均整の取れた逞しい体が透けて見えるようだ。

 そのかおはあまりにも完璧すぎて、セレスの防衛本能が「あれを見てはいけない」と脳内で絶叫を上げた。


 それを悟られぬよう、竦む心を奮い立たせ、セレスは真っ直ぐに魔帝を見つめ返した。


「ほう……人間にしては、随分と不遜な目をしている。名は? なんと言ったか」


 肺を圧迫するような重圧。低く、よく通る声だった。


 先ほど、「顔を上げろ」と言った声とは違う――おそらくあれは、傍らに控える側近のものだったのだろう。


 魔帝の隣に立つ二本足のそれは、月光のごとき銀の毛並みの、狼の貌をしていた。爛々と輝く金の瞳。背後にはゆったりと尾が垂れている。


 深紅の軍服を毅然と纏い、腰に豪奢な装飾の長剣を佩いたその佇まいは、戦場を統べる将軍さながらの風格を漂わせていた。


 彼は、獣人ではない。()()()だ。

 

 違いは顔だ。獣人は、人の顔立ちをベースに、耳や尾といった部位にのみ獣の特徴を備える。だが、獣魔人は血に瘴気が混じっているため、より獣に近い見た目をしているのだ。


「そやつは、セレスティア・アルヴィレーンにございます、陛下。テリア王国の、王宮魔術師の筆頭を務める女です」


 側近が、そう言葉を添えた。

 魔帝の冷たい目が、セレスを見下ろす。


「それで、その人間族の魔術師が、なんのために、俺の領土へやってきた?」


 単純な問い。

 だが、答えを誤れば、ここで終わる。


()、筆頭です、陛下。私は追放され、あの国では、今や魔術師も名乗れません。ですから、この国で雇ってほしいのです」


 嘘ではない。

 だが、真実でもない。


「……不可解だな。罪人とはいえ、元は王宮魔術師だ。人間族に友好的な小国にでも行けば、歓迎されるはずだ。なぜ敢えて、この国を選んだ? 隠している真意を言え」


 魔帝は、逃げ場を許さぬ鋭利な視線で、セレスを見た。

 セレスはあえて、裂けた唇で笑ってみせた。


「真意、でございますか?  魔族の頂点に立つ陛下の慧眼を、この私如きが欺けると、そこまで買いかぶっていたたけるなんて……恐悦至極に存じます、陛下」


 その声色には、媚びも皮肉もなかった。


「黒魔術です。陛下――それは、魔人の血より生ずる魔術体系。

人族の間では禁忌とされ、触れたいと口にした瞬間に、魔術師としても、人族としても失格になる領域」


 静かな自嘲が、唇に浮かぶ。


「興味は、ずっとありました」


 顔を上げ、その瞳は爛々と輝き始める。


「私は、人族の社会で生きるために、()()()()()()であろうとしました。役に立ち、秩序に従い、危うい衝動は、すべて理性で縛り付けて。

――黒魔術を求める自分は、人であってはいけない存在だと、私自身が、私に言い聞かせてきたのです。ですが……追放された――」


 その言葉だけが、重く落ちた。


「名誉も、立場も、人としての居場所も、すべて失って。それでも私は、生きていた。その時、ようやく気付いたのです。私は()()()()()()を、やめてもいいのだと」


 微かに、笑う。


「魔帝国を選んだのは……ここなら――探求者として、息ができると思ったのです」


 それは、セレスが抱く偽らざる本旨であった。

 沈黙が落ちる。その魂の奥底を暴こうとするかのように、魔帝の瞳が、一層鋭く光を放った。


「なるほど、渇きか……。つまり貴様は、悦楽を求めて俺の国に来た、というわけか」


「はい、陛下」


「罪人を匿うリスクを差し引いても、それ以上の見返りが見込めるだけの才は、確かにお前にはあるだろう。だが――」


 赤い双眸が、灼熱のように、セレスを圧する。

 それは、媚びや欺瞞が一切通用しない、本物の王だけが持つ暴力的とも言える眼光だった。


 セレスはわずかに顎を引き、背筋を凍らせながらも、その視線から目を逸らさなかった。ここで瞳を伏せれば、二度と顔を上げる機会は訪れないだろう。


 沈黙が、重く、鋭く、謁見の間を満たしていく。

 死を覚悟したほどに冷え切ったセレスの耳の奥で、ただ、早鐘のような鼓動だけが、まだ生かされていることを叫び続けていた。


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