魔族の帝国
ネクレイア魔帝国。
瘴気が、喉を焼いていた。息を吸うたび、肺が軋む。人間が長く立っていていい場所ではない。
セレスは謁見の間の石床に額を擦りつけながら、込み上げる嘔吐感を魔力でねじ伏せていた。空気に混じる瘴気が、人族である彼女の細胞を一つひとつ破壊していく。 だが、彼女は指先一つ震わせなかった。ここで心を折れば、文字通り「塵」として掃き捨てられるだけだと知っていたからだ。
「顔を上げろ」
それは、玉座の魔帝か、隣に立つ側近か。どちらの声だったか――セレスは顔を上げた。
玉座に鎮座するのは、暴力的なまでの「美」。
吸血鬼か、夢魔か。あるいは、竜人から分岐した、より深き魔種なのか。
漆黒の角、血を固めたような双眸。魔族を統べる始皇帝――ヴェラルク=ザハ・ヴェルグ。
纏った黒の礼装の上からも、均整の取れた逞しい体が透けて見えるようだ。
その貌はあまりにも完璧すぎて、セレスの防衛本能が「あれを見てはいけない」と脳内で絶叫を上げた。
それを悟られぬよう、竦む心を奮い立たせ、セレスは真っ直ぐに魔帝を見つめ返した。
「ほう……人間にしては、随分と不遜な目をしている。名は? なんと言ったか」
肺を圧迫するような重圧。低く、よく通る声だった。
先ほど、「顔を上げろ」と言った声とは違う――おそらくあれは、傍らに控える側近のものだったのだろう。
魔帝の隣に立つ二本足のそれは、月光のごとき銀の毛並みの、狼の貌をしていた。爛々と輝く金の瞳。背後にはゆったりと尾が垂れている。
深紅の軍服を毅然と纏い、腰に豪奢な装飾の長剣を佩いたその佇まいは、戦場を統べる将軍さながらの風格を漂わせていた。
彼は、獣人ではない。獣魔人だ。
違いは顔だ。獣人は、人の顔立ちをベースに、耳や尾といった部位にのみ獣の特徴を備える。だが、獣魔人は血に瘴気が混じっているため、より獣に近い見た目をしているのだ。
「そやつは、セレスティア・アルヴィレーンにございます、陛下。テリア王国の、王宮魔術師の筆頭を務める女です」
側近が、そう言葉を添えた。
魔帝の冷たい目が、セレスを見下ろす。
「それで、その人間族の魔術師が、なんのために、俺の領土へやってきた?」
単純な問い。
だが、答えを誤れば、ここで終わる。
「元、筆頭です、陛下。私は追放され、あの国では、今や魔術師も名乗れません。ですから、この国で雇ってほしいのです」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
「……不可解だな。罪人とはいえ、元は王宮魔術師だ。人間族に友好的な小国にでも行けば、歓迎されるはずだ。なぜ敢えて、この国を選んだ? 隠している真意を言え」
魔帝は、逃げ場を許さぬ鋭利な視線で、セレスを見た。
セレスはあえて、裂けた唇で笑ってみせた。
「真意、でございますか? 魔族の頂点に立つ陛下の慧眼を、この私如きが欺けると、そこまで買いかぶっていたたけるなんて……恐悦至極に存じます、陛下」
その声色には、媚びも皮肉もなかった。
「黒魔術です。陛下――それは、魔人の血より生ずる魔術体系。
人族の間では禁忌とされ、触れたいと口にした瞬間に、魔術師としても、人族としても失格になる領域」
静かな自嘲が、唇に浮かぶ。
「興味は、ずっとありました」
顔を上げ、その瞳は爛々と輝き始める。
「私は、人族の社会で生きるために、正しい魔術師であろうとしました。役に立ち、秩序に従い、危うい衝動は、すべて理性で縛り付けて。
――黒魔術を求める自分は、人であってはいけない存在だと、私自身が、私に言い聞かせてきたのです。ですが……追放された――」
その言葉だけが、重く落ちた。
「名誉も、立場も、人としての居場所も、すべて失って。それでも私は、生きていた。その時、ようやく気付いたのです。私は人である努力を、やめてもいいのだと」
微かに、笑う。
「魔帝国を選んだのは……ここなら――探求者として、息ができると思ったのです」
それは、セレスが抱く偽らざる本旨であった。
沈黙が落ちる。その魂の奥底を暴こうとするかのように、魔帝の瞳が、一層鋭く光を放った。
「なるほど、渇きか……。つまり貴様は、悦楽を求めて俺の国に来た、というわけか」
「はい、陛下」
「罪人を匿うリスクを差し引いても、それ以上の見返りが見込めるだけの才は、確かにお前にはあるだろう。だが――」
赤い双眸が、灼熱のように、セレスを圧する。
それは、媚びや欺瞞が一切通用しない、本物の王だけが持つ暴力的とも言える眼光だった。
セレスはわずかに顎を引き、背筋を凍らせながらも、その視線から目を逸らさなかった。ここで瞳を伏せれば、二度と顔を上げる機会は訪れないだろう。
沈黙が、重く、鋭く、謁見の間を満たしていく。
死を覚悟したほどに冷え切ったセレスの耳の奥で、ただ、早鐘のような鼓動だけが、まだ生かされていることを叫び続けていた。




