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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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硝子の王宮

 ふたりを乗せた馬車は、帝都の重厚な門をくぐった。石畳を打つ蹄の音が、厳かに響く。城の前庭で停まった馬車の扉は、従者によって、恭しく開かれた。


 先に降り立ったヴェルが振り返り、中に座るセレスへと手を差し伸べた。その眼差しは、優しい命令を含んでいる。

 躊躇いながら取った指先が、ヴェルの温もりを感じ、セレスはほっと息を吐いた。


 魔帝に導かれ馬車を降りるセレスの姿に、侍従たちの空気が微かにざわめいた。

 そこへ、側近のロカが血相を変えて駆け寄り、目を見開いた。


「陛下! ただの研究員に、そのような扱いは――!」


 ロカの声は、焦りを隠せないほど上ずっていた。ロカが動揺さえしなければ、ただの礼儀で済んだかもしれない魔帝の行動――だが ヴェルは、淡々と、しかし絶対的な口調で返した。


「ただの研究員ではない。俺の、正式な婚約者だ」


 その言葉が石畳に落ちた瞬間、息を呑んだロカの、銀色の毛が一気に逆立った。


「……なっ……!?」


 ロカの、殺気にも似た動揺が、セレスを射抜く。


 セレスは無意識に、ヴェルの手を握る指に力を込めた。その手が、彼女の唯一の支えであるかのように。

 それが、ヴェルには嬉しかったのだろう。意図が測れなかったにせよ、頼られたと感じ、図に乗った――というのは、陛下に対して失礼だっただろうか。


「さあ、疲れただろう。今日は部屋で休め。俺が案内する」


 配下たちの前で、公然と熱々ぶりを披露したい魔帝は、セレスの腰に、しっかりと手を添えた。

 ――が。


「大丈夫よ。ひとりで歩いていけるわ」


 セレスの、あまりにも素っ気ない素振りに、魔帝の動きが止まる。少しムッとしたように、整った眉根が、不満げに寄せられた。


「どうしてお前は、俺に甘えようとしない」


 責める声ではない。

 むしろ、確かめるような、抑えた問いだった。


 そう言われても、セレスには答えが見つからない。

 戸惑いで視線を逸らした先に、セレスは、見覚えのある姿を見つけた。


「イリヤ」


 名を呼ばれ、イリヤはびくりと肩を震わせた。一瞬にして、緊張が全身を駆け巡ったのか――体を強張らせ、より一層深々と、頭を垂れた。


 その様子を気に留めず、セレスは続けた。


「部屋に行くわよ」


「――私にはもう、そんな価値はありません」


 思いもよらなかった返答に、セレスは瞬きをした。


「なぜ、そんなことを言うの?」


 問いは穏やかだった。

 だが、その静けさこそが、イリヤの胸を締め付ける。


「私は、セレス様を犠牲にして生き延びました。ここに並んでいられるだけでも、恐れ多いことです。処分されてもおかしくない身にもかかわらず、陛下から恩赦をいただきました」

 

 声は震えていた。


「再びセレス様に仕える至福など、望める身では、ありません。どうか……どうか、お許しください」


 それは、赦されることを恐れる者の、嗄れた祈りのようだった。

 イリヤの中では、罪が全てを支配しているのだろう。どれほど自身を卑下しても、足りないほどに。


 セレスは静かに息を吐き、言葉を紡ぐ。


「あなたが生きてここにいるのは、偶然ではないわ」


 だが、イリヤは顔を上げない。


「あなたは伝令として、生き残る必要があった。決めたのは、主である私よ。誰があなたを責められるのかしら」


 優しく問うその言葉も、イリヤにとっては棘に変わるのか。


 拒絶――二人の間を隔てる壁は、果てしなく高かった。

 その向こうで、イリヤは小さく、動かない。 


 セレスは、胸の奥がひどく冷えるのを感じた。

 まるで、何もない野原にひとり、取り残されたような寒さだ。声を出せば、白い息だけが虚しく散っていく。


 視線を落とした。

 足元は、いつの間にか柔らかく、踏みしめるたびに沈んだ。


 ――こんな場所だっただろうか。


 一歩進もうとすれば、足を取られる。

 振り返れば、辿ってきた道はもう見えない。

 霧の向こうに立つのは、枯れた木ばかりだ。


 セレスは、喉の奥で小さく息を詰めた。


 ……見覚えのある壁だ。

 だから、壁の内側が、どれほど居心地がいいものなのかも知っている。


 自分も、同じ場所に立っていた。

 誰も近づけないように、何も入らないように、ただ、凍えないためだけに。


 唇の端が、僅かに歪む。


「私付きのメイドをするのは、もう、嫌かしら?」


「そんな――! 滅相もございません!!」


 はじかれたように顔を上げたイリヤは、怯えるように肩を震わせ、それでもセレスの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 その瞳に映るのは、美しいほどの誠実さだ。

 

 ――ただの、勘違いかもしれない。

 けれどセレスには、そう見えたのだ。

 なら、間違ってはいないはずだ。きっと。


 セレスはふっと微笑む。


「だったら、今まで通りよ、イリヤ」


 セレスは、イリヤが抱える底なしの罪悪感を、あえて否定しなかった。否定すれば、イリヤの拠り所は消えてしまう。


 イリヤはすっと、息を吸った。


「かしこまりました。セレス様」


 そう言って、背筋を正したイリヤは、以前と同じ無表情。セレスが歩き出すと、規律正しい足音がひとつ、静かに後へ続いた。それは、二人の間に再び、確かな主従の絆が結ばれた音だった。

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