契約
車内は、魔灯の淡い光に満たされていた。
揺れは小さく、外の吹雪の音も、厚い結界に遮られている。
それでもヴェルは、片時たりとも腕を緩めることなく、膝の上のセレスを抱きしめていた。
指先を離せば、また吹雪の彼方へ奪われてしまう。
そんな思いに、囚われたかのように。
「結婚式は、いつがいいだろう。来月はどうだ?」
唐突な提案に、セレスは瞬きをした。
「待って、ヴェル。まだ婚約しただけよ。準備もあるし……少なくとも、今年中は無理だわ」
「……そうか」
短く答えたあと、わずかな沈黙。
「では、来年の一月は?」
期限を決めなければ、形にしなければ、失う。
焦りを隠しきれないその様子に、セレスは小さく息を吐いた。
「ヴェル。落ち着いて。人間族の寿命が短いのは事実だけど、明日死ぬわけじゃないわ」
「わかっている」
そう言いながら、ヴェルはセレスの手を取った。
「だが――お前のこととなると、話は別だ」
大きな手が、確かめるようにセレスの指を包み込む。
ヴェルの親指が、細い指の根元をなぞる。その動きは、優しいというより、執拗だった。
「小さいな。俺の手に、すべて収まってしまう」
低い声が、静かな車内に落ちる。
囁く吐息が頬を撫で、熱を帯びた気配が肌に触れた。
「……可愛いな」
その一言が、妙に大きく響いた。
思考が白熱灯のように焼き切れるのを、セレスは感じた。焦って気を逸らそうとしたが、今は目の前の男の熱が強すぎる。
ここから逃げようと、セレスは必死にほかの話題を探した。
――結果、口をついて出たのは、
「伯爵は、どうなったの?」
次の瞬間、ヴェルの表情が変わった。その瞳から、甘さが消え失せた。
抱き寄せる腕にも、力が籠もる。
「俺に触れられながら、奴の姿を思い浮かべたのか?」
声の熱はそのままに、色だけが不機嫌に染まる。
低く抑えた声の奥には、恐ろしいほどの独占欲があった。
「違うわ」
反射的に答え、セレスは居心地の悪さに視線を逸らした。
だが、顎を掬い上げられ、逃げ場を奪われる。
完璧な美貌が、至近距離に迫る。
セレスは観念して、彼を見返した。
じっと。
「……凄く、好きな顔」
魔帝は一瞬、目をぱちくりさせる。
途端に、冷酷な顔が、甘いクリームのように蕩けて崩れる。
セレスは思わず、眉根を寄せた。
「――ヴェル。その顔……配下の前では、しないほうがいいわ」
「どんな顔だ?」
「でろでろ」
言われてヴェルは襟を正し、再び魔帝の威厳を纏い直す。
「……そうか。心得ておこう」
軽く咳払いをすると、続けた。
「伯爵だが――左胸に杭を打ち込んでやったぞ。今は棺桶の中で眠っている。頑丈な鎖に巻かれてな」
「……目覚めることはないの?」
「お前が望まなければな」
セレスは眉を顰めた。
「どういう意味?」
「杭を抜いた者が、吸血鬼の絶対的な主人になる」
淡々と告げながら、ヴェルの指が、セレスの胸元に触れた。
「だから、抜くのはお前だ」
一瞬、セレスの息が止まる。
あの、伯爵が――?
柔和を装いながら、本質は極めて凶暴なただの獣でしかない、あの存在が――自分の意のままになる?
胸の奥で、甘く危険な高揚が蠢いたのを、セレスは自覚し、ほくそ笑む。
「……嬉しそうだな?」
頬を撫でるヴェルの指先が、妙に鋭い。
「そんなこと、ないわ」
「なら、今の顔は何だ」
「――あなたが、伯爵を私の下僕にと言ったんでしょう?」
苦し紛れの、言い訳のように答えるセレス。
ヴェルは低く笑い、顔を寄せる。唇が重なりそうなほどの距離で、囁く。
「そうだ。伯爵が仕えるのは、永遠にお前だけになる」
その囁きは甘く、それでいて逃れられないほど強い。
「――そしてお前は、俺だけのものだ。セレス」
その言葉は、口づけよりも深くセレスの魂を侵食した。
それは伯爵ごと、セレスのすべてを飲み込もうとする魔帝の、執着だろうか。
セレスは小さく息を飲んだ。胸は熱く、脳裏が痺れる。
けれど、その甘美な痺れの奥に、かすかな抵抗が残っていた。
(ヴェルとの愛の影に、ほかの男を潜ませるなど……)
胸がざらつく。
――気に入らない。
セレスは小さく息を吐いた。
これは、嫉妬ではない。だから、愛ではない。
――そうであってほしい。
想いとは裏腹に、セレスはヴェルの胸に深く顔を埋めた。




