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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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新世界の戴冠

 セレスが目覚めると、世界は熱に包まれていた。  

 凍え切っていた意識の底に、ゆっくりと染み込んでくる、穏やかな熱。それは遠い記憶――かつて父と母が、世界が優しかった頃の残滓を呼び起こす。


 強く抱きしめられている。大切なものを、もう二度と失いたくないと、訴えかけているかのようだ。


 鼻腔をくすぐるのは、逞しい体から立ち上る、熱と匂い。耳朶には、微かな息遣いが、規則正しく触れている。


 いつもなら、反射的に拒んでいただろう。

 だが、あまりにも疲れていたせいか――セレスは、しばらくその腕の中に身を委ねていた。


 意識が輪郭を取り戻してくると、セレスはそっと、その人を見上げた。

 

 美しい顔。ルビーの様な双眸は、微かに潤んで艶めいて、どこか、後悔の色を宿しているようにもみえる。視線を合わせようとするセレスを、穏やかに見返すその瞳を見つめながら、ぼんやりと、その名を呼んだ。


「ヴェル――?」


「ああ、大丈夫か?」


 低い声が、鼓膜を心地よく震わせる。


 魔帝は眉間に深い皺を刻んでいた。

 苦しそうで――それでも、セレスが目を覚ましたことに、心から安堵しているのが伝わってくる。


「思ったより……到着が早かったから、驚いたわ」


 セレスの視線が、魔帝の肩に、ちょこんと乗るフロストシマエナガに移る。小さな体で胸を張り、どこか誇らしげだ。


「ああ――こいつが飛んできたときは驚いた。だが、お前からの伝書だと知って、転移魔術で精鋭を連れて、先に駆けつけたのだ」


 柔らかく微笑む魔帝の眼差しには、セレスへの深い情が宿っている。

 転移魔術――そうか、この国にも使い手がいるのか。


「ここは後続の馬車の中だ。……戦闘で、魔力をほとんど使い切ってしまった。今の俺は、火を灯すことすらできん。暗殺するなら、今だぞ」


 冗談ぽく笑う魔帝に、セレスは小さく微笑み返した。

 頬に触れた彼の指先から、確かな温もりが伝わる。

 それが、心の奥をゆっくりと解かしていくのを感じ、セレスは戸惑った。


「セレス」


 不意に、魔帝の声から色が消え、真実だけが残った。


「俺の妻になれ」


 二度目の求婚。だが、その重さは、かつてのものとは違っていた。


「妾? それとも第二皇妃? どちらも嫌だと言ったはずよ」


「違う。正妃だ」


 即答だった。


「正妃? 馬鹿げてるわ。公の身にあって、自由が叶うはずがない。しがらみに縛られて死ぬのは御免よ」


「俺は、お前に不自由を与えるために求婚しているのではない。お前が、お前の望むままに、自由な『皇妃』の形を作ればいい。――それにお前は、ただ自分を着飾るだけの、愚かな皇妃になるとは思えない」


「そうかしら」


「あのメイドを救った。それが、お前の本質だ」


 買い被りすぎだ――と、セレスは思った。


 本当は、ただ愛でられるだけの花のように生きていたい。それが叶わない世界だから、爪を研ぎ、魔術を磨いてきた。自分には「魔術」以外に、世界と向き合う手段がなかっただけ。


 明日も、屋根のある場所で、充分な食事がしたいから――それだけの理由で、国に命ぜられるまま敵兵を焼いた。自分もいつか、同じように死ぬだろう。

 この世界がどうなろうと、どうだっていいのだ。


 今が確かなものではないセレスにとって、未来など、指の間をこぼれ落ちる砂ほどの価値もない。


 確かに、テリア国で処刑を免れたとき、セレスは心底ほっとした。だがそれは、生に固執したからではない。ただ、咎人として無様に果てるのが癪だっただけ。


 イリヤを助けたことも、英雄的行為などと呼ぶには程遠い。結局のところセレスは、絶望しかないこの世界から、自分自身を納得させて去るための、もっともらしい「出口」を、探していただけなのだ。


  この国に来たのも、魔族の魔術であれば、肉体を保ったまま、あらゆる痛みから解放された場所へ至れるのではないか。そんな淡い幻想を、抱いたから――という、その程度だ。


 セレスの中で、生きる理由はいつも「必要最低限」だった。


「――気紛れよ」


 自嘲するように呟いた声は、微かに震えていた。

 魔帝の腕の中で一度は温もった体温が、再び氷のように寒々としたものに帰っていく。閉じかけていた胸の空虚もまた、時間を巻き戻すように、静かに、ゆっくりと広がっていった。


「それでもいい。俺は――行方不明になったお前を、探しに行くことさえできなかった。お前を、誰よりも先に助ける理由が、欲しい」


 それが、正妃である必要はない。

 セレスはヴェルを、強い男だと思っていた。自分の未来をその手で切り拓けると信じ、研鑽を積み重ねてきた男。確固たる意志と、揺るがぬ信念を持つ魔人だ。


 そんな彼が今、自分を必要だと、理由を探し、言葉を重ねている。


「だが、お前がいない未来を考えた瞬間――俺は……」


 魔帝の唇が、震えた。


「俺の妻になるんだ。セレス」


 魔帝の瞳は、今にも泣き出しそうに見えた。強大な魔帝が、一人の女の拒絶に怯えている。 


 断っても、この国で生きてはいける。

 受け入れれば、何不自由はない。


 だが――国が傾いた時、責任を負うのは正妃だ。


 損得で考えれば、ヴェルと共に生きていくという選択は――。


 共に、生きる?

 セレスは、ふと思った。


 違う。損か得かではない。

 それは、セレスの孤独な世界――長いあいだ、誰も踏み入れさせなかった廃墟に、ヴェルを迎え入れたいと思えるかどうか、だ。


 差し伸べられたその手を取れば、セレスにも、未来というものが、少しは形を持って見えてくるのだろうか。


 セレスは困惑した。けれど彼の言葉は、心の奥底で色鮮やかな糸に変わる。その糸は、ぽっかりと開いた空虚を縫い合わせ始める。

 セレスはヴェルの胸元をぎゅっと掴んだ。黒い上質な生地に、歪な皺が寄る。

 

 彼の意図を確かめようと、セレスはじっとその目を見詰めた。

 ローズクオーツに似た瞳は、真実を求めて揺れていた。


 嫌いじゃない。匂いも、体温も。ルビーの様な赤い瞳も、高い鼻も、口角の上がった唇も、たまに覗く牙も、少し癖のある黒髪も、雄々しいツノも。逞しい胸板や腕、高い背丈と整った頭身も。


 それが「愛」かは――わからない。


「でも――」


「でも? なんだ、セレス?」


 低く響く、その優しい声も。

 彼の存在の全てが、セレスの五感を満たしていた。


 セレスは、自分がなにを言おうとしたのかわからずに、唇を噛んだ。

 そして、今一度、考える。


 愛したとして、『皇妃』だ。


 急に押し寄せるプレッシャーに、セレスは飲み込まれそうになる。

 襲ってくる眩暈に、目を伏せた。


「無理よ。私には、荷が重すぎる」


「荷だと? なにを持つつもりだセレス?」


 魔帝は、静かに笑った。


「深く考えるなセレス」


 慈しむように、魔帝が微笑む。


「俺を、利用するんだ」


 魔帝の手が、セレスの手を握りしめる。


「生き延びるため。

 互いの立場のため」


 魔帝が囁く。


「――愛しているかどうかは、別だ」

 

 感情の入り込む余地のない、端的な結論。

 魔帝は、逃げ場を塞ぐように指を絡める。


「だから、セレス」


 ヴェルの手を取った先の世界は、どんな色に見えるのだろう。


「俺の妻になれ」


 何度目か分からない、その言葉。

 純粋で、残酷。全ての孤独を終わらせる、呪文に似た響き。


 セレスは、目を伏せる。


 ヴェルの手を取っても、いいのだろうか――と。

 この、穢れてしまった手で。


 恐れや孤独、悲しみがざわめいた。過去の亡霊たちが、心の内で囁きかける。


 ――そうか。

 失うのが、怖いのか。


 息を呑む。


 だったら……。


 セレスは思った。もし――絶対にあり得ないが――もしも、国が傾いたら、ヴェルの手を取って、二人で地の果てまで逃げてしまえばいい。そうだ。その時はきっと、ヴェルはボロボロになっているだろうから。ボロボロになったヴェルを、私が連れ去ってしまえばいいのだ。


 セレスはひとりひっそり、ニヤリと笑んだ。

 

「――わかったわ、ヴェル。あなたの申し出を、受けるわ」


 その瞬間、空気が鳴動した。ヴェルの魔核が、狂ったように鼓動を刻む。


「本当か!?  撤回はさせないぞ!! いいんだな!?」


「ヴェル、落ち着いて……」


 魔帝の肩を止まり木にしているフロストシマエナガも、慌てて羽を、ばたつかせた。


「すまない……どうしたことか――俺の魔核がうるさいんだ。こんなのは、初めてだ」


「ヴェル?」


「――いや、すまない。……大丈夫だ」


 魔帝は息を整える。

 それから、セレスの顎をそっと支えた手の親指が、愛おしげにその唇をなぞった。

 肩の小鳥は、「ぴぴー」と鳴いて、白い羽で自分の視界を覆う。


 吸い込まれそうなほど深く、美しい瞳が、じっとセレスを見詰める。


 永遠に、この瞳を見ていたい。

 そんな衝動が、セレスの中に、確かに芽生えていた。


 これに魅入られたら、終わりだ。

 ――そう思っていた。


 それこそ、魂ごと喰われてしまいだろう。

 それでも最期に、歓喜の中で果てるのなら、それも悪くないと、セレスはヴェルの首に、自ら腕を回した。

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