おとぎばなし
昔々――あるいは、遠い未来のおとぎばなし。
ローズクォーツのように淡くも鮮やかな髪が、夕陽を受けて揺れていた。同じ色彩のその瞳は、幼いながらも真っ直ぐに、大人を睨み返している。小さな頬は赤く腫れ、指の跡がうっすらと残っていた。
「セレス。――なんでぶたれたか、わかってる?」
その声は冷たい。
けれど幼子は、唇を固く閉ざしたまま、何も言わない。
大人は、孤児院の寮母だ。
セレスは、その孤児院で暮らす子どもだった。
その日、同じ施設の子が、腹を空かせて市場のリンゴを盗んだ。セレスはそれを見て、追いかけた。諫めようと思ったのだ。
――だが、追ってきた店主に見つかると、その子は咄嗟に、セレスを突き出したのだ。
「こいつがやったんだ!」
セレスは店主に、容赦なく腹を蹴られた。
空腹で縮んだ腹からは、「ごぼっ」と、胃液だけが吐き出された。
そのまま首根っこを掴まれ、泥だらけのまま孤児院へと引きずられていった。
寮母は事情も聞かぬまま、怒鳴り散らす店主の前で、渋々頭を下げた。
「申し訳ありません、この子にはきつく言い聞かせますから」と。
そして、扉が閉まったその瞬間――怒りのはけ口を求めるように、寮母の掌がセレスの頬を打った。
それが理不尽であることを、セレスも理解していた。
だからといって、あの子を庇ったことを後悔はしていない。
正直に話せば、許されたのかもしれない。
それでも、セレスは唇を噛みしめ、何も言わなかった。
義理堅いのか、正義感が強すぎるのか、あるいはただの頑固者なのか――。
もしくは子どもなりに、それが「格好いい」と信じていたから――なのかもしれない。
セレスが殴られたのは、この日だけではない。
似たようなことは、月に何度もあった。
孤児院の寮母たちが、鍵付きのキャビネットにお菓子を隠していることなど、子どもたちの間では周知の事実だった。
夜になると、寮母たちの部屋からは、カップの音や笑い声が聞こえる。
「大人は、子供より体が大きいから、たくさん食べないといけないの」と言いながら、彼女たちは自分たちだけ、腹いっぱい食べているのだ。
子供たちには、パサパサの、カビも生えないような小さなパンと、具の無いスープを日に一度、与えるだけなのに――。
なにも答えないセレスを見て、寮母の眉がひくりと動く。
「まったく。可愛げのない子だよ。
こんなんじゃ、いつまで経っても貰い手なんか見つかりゃしないね。
――もう行きな。おまえの顔を見ていると、反吐が出る」
寮母はセレスに、唾を吐いた。
セレスは俯いたまま、部屋を出た。
そういうわけで、セレスの顔はいつも腫れていたのだ。
養父候補の大人が孤児院にやってくるたびに、寮母はセレスを納屋に押し込める。
「見せられる顔じゃない」と言って。
◇
ある夜、セレスは悪夢を見た。
黒い霧の中から、巨大な影が這い出てくる。それは牙と爪を持つ、恐ろしい魔物――のはずだった。
「……なぜ逃げない」
低く響く声が、夢の中を重く漂う。
「私に、逃げ込める場所なんてないもの」
セレスは、怯える様子もなく答えた。
「それに、どうして逃げなくちゃいけないの?」
「俺は恐ろしい魔物だぞ。食べられたくなければ、逃げるものだ」
「そう……だったら、あなたに食べられて、お腹の中で暮らしたほうが、きっとマシ」
魔物の目が細められる。幼子の感情を測りかねている様子だ。
強がっているようには見えない。その瞳には一点の曇りもないからだ。
「子供は大抵、俺を見ただけで叫び声をあげる。
それなのに――『喰われたほうがマシ』だと? どういう意味だ」
魔物の言葉にセレスは首を傾げ、少し考えるように目を伏せ、そっぽを向いた。
「……知らないわ。ただ、そう思っただけ」
その横顔は、凜として強く、だけど、壊れそうにも見えた。
魔物は続けた。
「それに――待て。おかしいぞ。俺は、おまえと、会話をしているのか?」
その質問に、セレスはまた、首を傾げる。
「まあ、いい。だが……。お前、肝が据わりすぎている。どう考えても、普通の子供には見えん」
「普通の子供だよ。――親はいないけど」
「捨てられたのか?」
「違うわ」
セレスは、ため息のように言葉を吐き出した。
「ある日、どこかの国の正義の騎士たちがやってきて、パパもママも、村の人も、みんな殺されたの。家も燃えて、全部なくなっちゃった」
他人事のように語る声に、涙の気配は微塵もない。
「パパとママが、私を下敷きに庇ったの。少しして、助けに来た兵士に見つかって。この国に連れてこられただけ」
「助けに、か」
魔物の言葉に、セレスは肩を竦めた。感情の読み取れない、乾いた仕草だった。
「でも、この場所では、みんな私を除け者にする」
「なぜだ?」
「醜いから、じゃない?」
魔物の目がぱちりと瞬いた。その瞳に、明らかな困惑が浮かぶ。
「……おまえが?」
「そうよ」
「いや、待て。おまえが――醜い?」
「なに?」
「いや、その……俺が言うのもなんだが――誤解するなよ。
俺は矮小な人間の幼子になど興味はない。ない……が、お前は、可愛い……ぞ」
セレスは、ぽかんとした。魔物の意外な言葉に、理解が追いつかないようだ。
そして、夢の中で初めて、小さく笑った。それは、乾いた笑いではなかった。
「うんこ」
「は?」
「うんこ、漏らしてたの。ここに来たときに」
セレスは、淡々と続けた。
「だからなのか知らないけど、あだ名は“ばい菌”」
その言葉には、恥じらいも、怒りもなかった。事実だけを述べているのだ。
焼けた家々の煤に塗れたあの日から、セレスはずっと“灰被り”のままだ。
孤児院に来てからも、打たれ、頬が腫れ上がる日々。その小さな体には、常に新しい痣と、消えぬ痛みが刻まれていた。
――今は夢の中だから、仮面も化粧もない。現実の汚れや、傷痕に覆い隠されていたセレスの本当の顔が、そのまま現れているのだろう。
「さ――どうぞ」
「なにが!?」
「私を食べに来たんでしょう?」
魔物は呆れたように、深く溜息をついた。
「……お前、ほんとに変な子供だな」
魔物は、自分の額を手で抑えた。
「俺が喰うのは悪い子供だけだ。お前は違うようだし。それに、俺は恐怖を食べるだけで、実際に魂を喰ったことは、まだ多分……ない」
「あなた、人も食べれないような弱い魔物なの?」
「――!!」
魔物は愕然として、それから、しゅんと落ち込んだ。
「ああ、そうだ――そもそも、俺は言葉だって理解できなかったんだ。こうして、お前と会話できている理由がわからない。魔核だって小さくて、祓い屋に見つかれば、俺なんかすぐに消される」
魔核というのは、魔物や魔族の心臓のようなものだ。そこから全身に、魔力を帯びた瘴気が巡るため、大きければ大きいほど強い。言葉を介さぬような魔物であれば、それは小指の爪ほどだろう。
「見てみろ――俺の魔核を」
魔物は自分の胸の中にずぶずぶと手を潜らせ、そして引き抜いた。
「ほら、こんなに小さ――ええええええええええ!!?」
手に握られていた魔核は、子供の頭ほどの大きさもあった。
セレスはその大声に驚いて、びくっと肩を震わせる。
「急に大きな声、出さないでよ!」
「す、すまない……だが――」
「どうかしたの?」
「わからない」
ひとりで勝手に困惑する魔物に、セレスも不可思議に思うだけだ。
「お前には、俺がどう見えている?」
「どう見えてるって?」
「毛むくじゃらの、化け物のはずだ。あるいは、大きな牙と爪の――」
セレスは首を横に振る。
「ううん……黒い服を着た、絵本で見た王子さまみたいな。素敵な――お兄ちゃん?」
その言葉に、魔物は息を呑んだ。驚愕が、その表情を支配する。 人族に似た手で、自分の顔を触り、体を見下ろしている。まるで、それが自分のものだと信じられないかのように。
「これは――どうしたことだ」
「なにが?」
「俺は、実態のない魔物だ。故に、夢の中では、その子供が抱える罪悪感を反映した、最も恐ろしい化け物の姿になる――はず……」
ハッとして、魔物はセレスを見た。その視線は、セレスの純粋な瞳を真っ直ぐに捉える。
「お前は、この姿を恐ろしいと思って想像したのか?」
セレスは、首を小さく横に振った。
「私、何にも想像なんかしてない」
そう言って、セレスは目を伏せる。
「毎日、辛くて、寂しくて。でも、いつか、ママが読んでくれた絵本の中の、王子さまが迎えに来てくれますようにって、お星さまに、ずっとお願いしていただけ」
それは、幼い少女の、祈りだった。
「それでね、その時がきたら、王子さまの手をちゃんと取れるように、どんなに苦しくても間違わないで生きていこうって、それだけは、自分に約束しているの」
魔物をじっと見上げるセレス。その瞳は、無垢な光に輝いている。
その眼差しを受け止め、魔物は頷き、魔核を体内に戻し、一呼吸置いた。静寂のあとで、気持ちが落ち着いたのか――魔物はどこからか手鏡を取り出し、自分の姿をまじまじと見つめ始めた。
「うむ。これは魔物ではない。間違いない――魔人だ」
魔物は、「うんうん」と一人頷いた。それからそっと、優しくセレスの手を取る。指先は、繊細で滑らかだ。
「お前は俺を、低次の醜い魔物から、人族を魅了出来得るほどの、高次の魔人に変えてくれたのだ。これは紛れもない進化だ。感謝する」
『苦しい』『腹が減った』『苛立たしい』――そういうものに似た、怨嗟の塊。魔物を支配するのは、名前のない感情だけだ。
だが、セレスと「会話をしている」という事実。それは、言葉を理解せぬ魔物から、理を持つ魔人へと進化した、明白な証拠だった。
変化は外見だけではなく、魂そのものの階梯をも、引き上げたのだ。
それが、少女の祈りによるものかは、定かではないが。
「あなたは、なんの魔物だったの?」
「俺か――俺は、全ての時間軸に存在する魔物だ。子供の夢を渡り歩き、恐怖を喰らう《《実態の無い》》矮小な魔物……だった。――つい、今しがたまでは、な」
魔物――否、魔人は続ける。その声には、歓喜が満ちている。
「そうだ――!! この姿に名前を付けてくれ!!」
「名前?」
セレスは首を傾げる。
「名付けは呪いだ。何者でもない者から、実態のある者への変化……。名を持てば俺は、この夢の外――現実の世界で、肉体を得ることができるはずだ!」
のちにこの魔人は、事実、実体化していた。
魔核が肥大化し、魔力が増大したために、己の力で実体化できたのか、それとも本当に、名付けによるものだったのかは、不明だが。
セレスは暫し考える。
「じゃあ――ヴェルは?」
「おお!! いい名だ!! 力強い響きだ!!」
魔人は心底嬉しそうに、頬を赤らめ微笑んだ。輝くような笑顔は、まるで純粋な子供のようだ。
「小さい頃に飼ってた、犬の名前だけど」
魔人の笑顔が、暫し固まった。
「……もう少し、高貴な雰囲気が欲しい……かもしれない」
「贅沢ね」
セレスは、少し不機嫌そうに頬を膨らませ、考える。
「じゃあ……」
難しい顔をして、セレスは夢の中で空を仰ぎ、首を何度も傾げ、腕組をし、人差し指で頭をトントンと叩いた。
その顔が、ぱあっと輝く。
「――ヴェラルク=ザハ・ヴェルグ……!」
その名を、少女が紡いだ瞬間、停滞していた夢の世界が鳴動した。
黒衣の男の輪郭が、鋭く、高く、神々しいほどに再定義されていく。
「なんだその名は……! なんだこれは――!!」
「ママが寝る前に読んでくれた、絵本の中の魔族の王様の名前!」
魔人はしばし黙った。『魔王』――その響きは、彼の野望に、確かに触れるものだった。魔人は満面の笑みを浮かべた。その瞳はまさに、新しい生を得た子供のように煌めいている。
「よし、お前。感謝の印に、なにか一つ、願いを叶えてやる」
魔人の言葉に、セレスの顔が華やいだ。
「じゃあ、私をここから連れ出して」
その願いに、魔人は渋い顔をした。
「それはだめだ。生きたまま、夢から連れていくことはできない」
「けちっ」
「けち――!?」
魔人は、初めて「呆れ」という感情を学んだ。
この幼子は、魔人を前にして、平然と不満を口にする。
ああ、そうか。……俺を、王に変えたのは、この娘の『無垢な傲慢』なのだ――と。
魔人が頭を抱えている間に、セレスは違う考えを浮かべた。
「だったら、魔術が使えるようになりたい!」
「魔術?」
「うん! 魔術が使えれば、きっと、特権階級になれるの! そうすれば、絶対ここから抜け出せる!」
幼い少女の、切なる願い。セレスの瞳には、未来への希望が燃えている。
「――だめだ」
「どうして!? 全部だめじゃない!」
「人族が魔術を使えるのは、精霊の加護のおかげだ。魔人や魔物が魔術を使えるのは、瘴気の核があるからだ。俺が与えられるとすれば、瘴気のほうだ」
「いいよ、べつに。それでもいい」
子供だから、その重要さが理解できなかったのか――セレスの言葉には、迷いも恐れもなかった。それは、あまりにも無垢で、あまりにも危うい想いだった。
「人族の血に、瘴気が混ざるのだぞ。お前は、魔物になりたいのか?」
魔人の問いに、セレスは擦れた声で小さく答えた。
「そんなのわかんない」
「いいか、今、お前が魔物になったところで、周りの大人たちに殺されるだけだ。だれも守ってはくれない」
諭すような魔人の低い声。
セレスはしょんぼりと俯いた。さっきまで輝いていた瞳が、淀むように沈む。心中は再び、暗い絶望の影に覆われた。
「――だが」
その言葉に、セレスはおそるおそる顔を上げる。瞳の奥に、再び微かな光が宿り始める。
「だが、ほんの少し――葉を濡らす夜露の一粒にも満たない瘴気を、お前にくれてやってもいい。それならきっと、人族の血が瘴気を押し退けて、魔物になることはないだろう……たぶん。だが、その程度の力では、魔術らしい魔術など、使えないだろうがな」
「じゃあ、やっぱりだめじゃない」
「だからだ。だから、お前は、その一粒を、自分で育ててみせろ。精霊の加護でも、魔核が発っし続ける魔力でもなく、お前自身の力で」
「育て方なんかわかんないよ」
魔人はふっと笑った。
「――そうだな。実を言うと、これは今、思いついたんだ。だから、俺にも、そんなことが可能かどうか、わからない」
「じゃあ、だめじゃない」
「諦めるのか? 0ではない可能性だぞ……きっと」
セレスは眉をひそめ、魔人をじっと見上げた。
「痛い?」
「たぶんな」
「大人に殴られるよりも?」
魔人は絶句した。その表情には、深い衝撃と、嘆きに似た感情が入り混じる。
もしかすると、このまま魔物になるかもしれない。
だが、死よりも辛い現実を生きるこの幼子に与えられるのは、希望しかなかったのだ。
「……だが、お前が受けてきたその頬の熱よりは、幾分か誇らしい痛みのはずだ」
「待って……」
セレスの顔色が、みるみる青褪める。その瞳には、恐怖と焦りが宿り始めた。
「どうした?」
「目が覚めそう。大人が私を、起こしに来た」
「待て。魔術の粒を――!!」
「だめ――!! 夢が消えちゃう!!」
セレスの意識が、急速に現実へと引き戻されていく。 目の前で、手を伸ばす黒衣の姿が揺らぎ、遠ざかり始めた。
魔人は、消えゆくセレスの手を、必死に掴もうと藻掻いた。 指先が、微かに触れる。
そして――
◇
眩い光が、セレスの視界を覆った。
それから、鼓膜をつんざくような寮母の甲高い声。
「起きなさい! 朝ですよ!」
セレスは、虚ろな目で、ぼんやりと天井を見上げた。
「王子さま」
温かい何かが、頬を伝った。どうやら、泣いていたらしい。
夢を、見ていた気がする。
内容は――靄がかかったように、はっきりとは思い出せない。ただ、胸の奥に、強く、温かい、確かな感触だけが残っていた。それは、手のひらの温もりだろうか。
しかし、昨日蹴られた腹の痛み、殴られた頬の痛み、全身を覆う重苦しい痛み――それらが邪魔をして、はっきりとしない。
夢と現実が、痛みと光の間でゆらゆらと溶け合い、セレスの思考を奪っていった。
夢の想い出のすべては、分厚く重い蓋で、閉じられてしまう。もう二度と、開封されることはないほど、厳重に――。
錆びついて、朽ち果てて、誰にも探されることのない、メビウスの輪の、奥深くへと――。




