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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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36/60

おとぎばなし

 昔々――あるいは、遠い未来のおとぎばなし。


 ローズクォーツのように淡くも鮮やかな髪が、夕陽を受けて揺れていた。同じ色彩のその瞳は、幼いながらも真っ直ぐに、大人を睨み返している。小さな頬は赤く腫れ、指の跡がうっすらと残っていた。


「セレス。――なんでぶたれたか、わかってる?」


 その声は冷たい。

 けれど幼子は、唇を固く閉ざしたまま、何も言わない。


 大人は、孤児院の寮母だ。

 セレスは、その孤児院で暮らす子どもだった。


 その日、同じ施設の子が、腹を空かせて市場のリンゴを盗んだ。セレスはそれを見て、追いかけた。諫めようと思ったのだ。

 ――だが、追ってきた店主に見つかると、その子は咄嗟に、セレスを突き出したのだ。


「こいつがやったんだ!」


 セレスは店主に、容赦なく腹を蹴られた。

 空腹で縮んだ腹からは、「ごぼっ」と、胃液だけが吐き出された。

 そのまま首根っこを掴まれ、泥だらけのまま孤児院へと引きずられていった。


 寮母は事情も聞かぬまま、怒鳴り散らす店主の前で、渋々頭を下げた。

「申し訳ありません、この子にはきつく言い聞かせますから」と。

 そして、扉が閉まったその瞬間――怒りのはけ口を求めるように、寮母の掌がセレスの頬を打った。


 それが理不尽であることを、セレスも理解していた。

 だからといって、あの子を庇ったことを後悔はしていない。


 正直に話せば、許されたのかもしれない。

 それでも、セレスは唇を噛みしめ、何も言わなかった。

 義理堅いのか、正義感が強すぎるのか、あるいはただの頑固者なのか――。

 もしくは子どもなりに、それが「格好いい」と信じていたから――なのかもしれない。


 セレスが殴られたのは、この日だけではない。

 似たようなことは、月に何度もあった。


 孤児院の寮母たちが、鍵付きのキャビネットにお菓子を隠していることなど、子どもたちの間では周知の事実だった。

 夜になると、寮母たちの部屋からは、カップの音や笑い声が聞こえる。

「大人は、子供より体が大きいから、たくさん食べないといけないの」と言いながら、彼女たちは自分たちだけ、腹いっぱい食べているのだ。


 子供たちには、パサパサの、カビも生えないような小さなパンと、具の無いスープを日に一度、与えるだけなのに――。


 なにも答えないセレスを見て、寮母の眉がひくりと動く。


「まったく。可愛げのない子だよ。

 こんなんじゃ、いつまで経っても貰い手なんか見つかりゃしないね。

 ――もう行きな。おまえの顔を見ていると、反吐が出る」


 寮母はセレスに、唾を吐いた。

 セレスは俯いたまま、部屋を出た。


 そういうわけで、セレスの顔はいつも腫れていたのだ。

 養父候補の大人が孤児院にやってくるたびに、寮母はセレスを納屋に押し込める。

「見せられる顔じゃない」と言って。


 ◇


 ある夜、セレスは悪夢を見た。

 黒い霧の中から、巨大な影が這い出てくる。それは牙と爪を持つ、恐ろしい魔物――のはずだった。


「……なぜ逃げない」


 低く響く声が、夢の中を重く漂う。


「私に、逃げ込める場所なんてないもの」


 セレスは、怯える様子もなく答えた。


「それに、どうして逃げなくちゃいけないの?」


「俺は恐ろしい魔物だぞ。食べられたくなければ、逃げるものだ」


「そう……だったら、あなたに食べられて、お腹の中で暮らしたほうが、きっとマシ」


 魔物の目が細められる。幼子の感情を測りかねている様子だ。

 強がっているようには見えない。その瞳には一点の曇りもないからだ。


「子供は大抵、俺を見ただけで叫び声をあげる。

 それなのに――『喰われたほうがマシ』だと? どういう意味だ」


 魔物の言葉にセレスは首を傾げ、少し考えるように目を伏せ、そっぽを向いた。


「……知らないわ。ただ、そう思っただけ」


 その横顔は、凜として強く、だけど、壊れそうにも見えた。

 魔物は続けた。


「それに――待て。おかしいぞ。俺は、おまえと、()()()()()()()のか?」


 その質問に、セレスはまた、首を傾げる。


「まあ、いい。だが……。お前、肝が据わりすぎている。どう考えても、普通の子供には見えん」


「普通の子供だよ。――親はいないけど」


「捨てられたのか?」


「違うわ」


 セレスは、ため息のように言葉を吐き出した。


「ある日、どこかの国の()()()()()たちがやってきて、パパもママも、村の人も、みんな殺されたの。家も燃えて、全部なくなっちゃった」


 他人事のように語る声に、涙の気配は微塵もない。


「パパとママが、私を下敷きに庇ったの。少しして、()()()()()兵士に見つかって。この国に連れてこられただけ」


「助けに、か」


 魔物の言葉に、セレスは肩を竦めた。感情の読み取れない、乾いた仕草だった。


「でも、この場所では、みんな私を除け者にする」


「なぜだ?」


「醜いから、じゃない?」


 魔物の目がぱちりと瞬いた。その瞳に、明らかな困惑が浮かぶ。


「……おまえが?」


「そうよ」


「いや、待て。おまえが――醜い?」


「なに?」


「いや、その……俺が言うのもなんだが――誤解するなよ。

俺は矮小な人間の幼子になど興味はない。ない……が、お前は、可愛い……ぞ」


 セレスは、ぽかんとした。魔物の意外な言葉に、理解が追いつかないようだ。

 そして、夢の中で初めて、小さく笑った。それは、乾いた笑いではなかった。


「うんこ」


「は?」


「うんこ、漏らしてたの。ここに来たときに」


 セレスは、淡々と続けた。


「だからなのか知らないけど、あだ名は“ばい菌”」


 その言葉には、恥じらいも、怒りもなかった。事実だけを述べているのだ。

 焼けた家々の煤にまみれたあの日から、セレスはずっと“灰被り”のままだ。

 孤児院に来てからも、たれ、頬が腫れ上がる日々。その小さな体には、常に新しい痣と、消えぬ痛みが刻まれていた。


 ――今は夢の中だから、仮面も化粧もない。現実の汚れや、傷痕に覆い隠されていたセレスの本当の顔が、そのまま現れているのだろう。


「さ――どうぞ」


「なにが!?」


「私を食べに来たんでしょう?」


 魔物は呆れたように、深く溜息をついた。


「……お前、ほんとに変な子供だな」


 魔物は、自分の額を手で抑えた。


「俺が喰うのは悪い子供だけだ。お前は違うようだし。それに、俺は恐怖を食べるだけで、実際に魂を喰ったことは、まだ多分……ない」


「あなた、人も食べれないような弱い魔物なの?」


「――!!」


 魔物は愕然として、それから、しゅんと落ち込んだ。


「ああ、そうだ――そもそも、俺は言葉だって理解できなかったんだ。こうして、お前と会話できている理由がわからない。魔核だって小さくて、祓い屋(エクソシスト)に見つかれば、俺なんかすぐに消される」


 魔核というのは、魔物や魔族の心臓のようなものだ。そこから全身に、魔力を帯びた瘴気が巡るため、大きければ大きいほど強い。言葉を介さぬような魔物であれば、それは小指の爪ほどだろう。


「見てみろ――俺の魔核を」


 魔物は自分の胸の中にずぶずぶと手を潜らせ、そして引き抜いた。


「ほら、こんなに小さ――ええええええええええ!!?」


 手に握られていた魔核は、子供の頭ほどの大きさもあった。

 セレスはその大声に驚いて、びくっと肩を震わせる。


「急に大きな声、出さないでよ!」


「す、すまない……だが――」


「どうかしたの?」


「わからない」


 ひとりで勝手に困惑する魔物に、セレスも不可思議に思うだけだ。


「お前には、俺がどう見えている?」


「どう見えてるって?」


「毛むくじゃらの、化け物のはずだ。あるいは、大きな牙と爪の――」


 セレスは首を横に振る。


「ううん……黒い服を着た、絵本で見た王子さまみたいな。素敵な――お兄ちゃん?」


 その言葉に、魔物は息を呑んだ。驚愕が、その表情を支配する。 人族に似た手で、自分の顔を触り、体を見下ろしている。まるで、それが自分のものだと信じられないかのように。


「これは――どうしたことだ」


「なにが?」


「俺は、実態のない魔物だ。故に、夢の中では、その子供が抱える罪悪感を反映した、最も恐ろしい化け物の姿になる――はず……」


 ハッとして、魔物はセレスを見た。その視線は、セレスの純粋な瞳を真っ直ぐに捉える。


「お前は、()()姿()()()()()()()()()()想像したのか?」


 セレスは、首を小さく横に振った。


「私、何にも想像なんかしてない」


 そう言って、セレスは目を伏せる。


「毎日、辛くて、寂しくて。でも、いつか、ママが読んでくれた絵本の中の、王子さまが迎えに来てくれますようにって、お星さまに、ずっとお願いしていただけ」


 それは、幼い少女の、祈りだった。


「それでね、その時がきたら、王子さまの手をちゃんと取れるように、どんなに苦しくても間違わないで生きていこうって、それだけは、自分に約束しているの」


 魔物をじっと見上げるセレス。その瞳は、無垢な光に輝いている。


 その眼差しを受け止め、魔物は頷き、魔核を体内に戻し、一呼吸置いた。静寂のあとで、気持ちが落ち着いたのか――魔物はどこからか手鏡を取り出し、自分の姿をまじまじと見つめ始めた。


「うむ。これは魔物ではない。間違いない――魔人だ」


 魔物は、「うんうん」と一人頷いた。それからそっと、優しくセレスの手を取る。指先は、繊細で滑らかだ。


「お前は俺を、低次の醜い魔物から、人族を魅了出来得るほどの、高次の魔人に変えてくれたのだ。これは紛れもない進化だ。感謝する」


『苦しい』『腹が減った』『苛立たしい』――そういうものに似た、怨嗟の塊。魔物を支配するのは、名前のない感情だけだ。


 だが、セレスと「会話をしている」という事実。それは、言葉を理解せぬ()()から、理を持つ()()へと進化した、明白な証拠だった。

 変化は外見だけではなく、魂そのものの階梯をも、引き上げたのだ。


 それが、少女の祈りによるものかは、定かではないが。


「あなたは、なんの魔物だったの?」


「俺か――俺は、全ての時間軸に存在する魔物だ。子供の夢を渡り歩き、恐怖を喰らう《《実態の無い》》矮小な魔物……だった。――つい、今しがたまでは、な」


 魔物――否、魔人は続ける。その声には、歓喜が満ちている。


「そうだ――!! この姿に名前を付けてくれ!!」


「名前?」


 セレスは首を傾げる。


「名付けは呪いだ。何者でもない者から、実態のある者への変化……。名を持てば俺は、この夢の外――現実の世界で、肉体を得ることができるはずだ!」


 のちにこの魔人は、事実、実体化していた。

 魔核が肥大化し、魔力が増大したために、己の力で実体化できたのか、それとも本当に、名付けによるものだったのかは、不明だが。


 セレスは暫し考える。


「じゃあ――ヴェルは?」


「おお!! いい名だ!! 力強い響きだ!!」


 魔人は心底嬉しそうに、頬を赤らめ微笑んだ。輝くような笑顔は、まるで純粋な子供のようだ。


「小さい頃に飼ってた、犬の名前だけど」


 魔人の笑顔が、暫し固まった。


「……もう少し、高貴な雰囲気が欲しい……かもしれない」


「贅沢ね」


 セレスは、少し不機嫌そうに頬を膨らませ、考える。


「じゃあ……」


 難しい顔をして、セレスは夢の中で空を仰ぎ、首を何度も傾げ、腕組をし、人差し指で頭をトントンと叩いた。

 その顔が、ぱあっと輝く。


「――ヴェラルク=ザハ・ヴェルグ……!」


 その名を、少女が紡いだ瞬間、停滞していた夢の世界が鳴動した。  

 黒衣の男の輪郭が、鋭く、高く、神々しいほどに再定義されていく。


「なんだその名は……! なんだこれは――!!」


「ママが寝る前に読んでくれた、絵本の中の魔族の王様の名前!」


 魔人はしばし黙った。『魔王』――その響きは、彼の野望に、確かに触れるものだった。魔人は満面の笑みを浮かべた。その瞳はまさに、新しい生を得た子供のように煌めいている。


「よし、お前。感謝の印に、なにか一つ、願いを叶えてやる」


 魔人の言葉に、セレスの顔が華やいだ。


「じゃあ、私をここから連れ出して」


 その願いに、魔人は渋い顔をした。


「それはだめだ。生きたまま、夢から連れていくことはできない」


「けちっ」


「けち――!?」


 魔人は、初めて「呆れ」という感情を学んだ。

 この幼子は、魔人を前にして、平然と不満を口にする。

 ああ、そうか。……俺を、王に変えたのは、この娘の『無垢な傲慢』なのだ――と。


 魔人が頭を抱えている間に、セレスは違う考えを浮かべた。


「だったら、魔術が使えるようになりたい!」


「魔術?」


「うん! 魔術が使えれば、きっと、()()()()になれるの! そうすれば、絶対ここから抜け出せる!」


 幼い少女の、切なる願い。セレスの瞳には、未来への希望が燃えている。


「――だめだ」


「どうして!? 全部だめじゃない!」


「人族が魔術を使えるのは、精霊の加護のおかげだ。魔人や魔物が魔術を使えるのは、瘴気の核があるからだ。俺が与えられるとすれば、瘴気のほうだ」


「いいよ、べつに。それでもいい」


 子供だから、その重要さが理解できなかったのか――セレスの言葉には、迷いも恐れもなかった。それは、あまりにも無垢で、あまりにも危うい想いだった。


「人族の血に、瘴気が混ざるのだぞ。お前は、魔物になりたいのか?」


 魔人の問いに、セレスは擦れた声で小さく答えた。


「そんなのわかんない」


「いいか、今、お前が魔物になったところで、周りの大人たちに殺されるだけだ。だれも守ってはくれない」


 諭すような魔人の低い声。

 セレスはしょんぼりと俯いた。さっきまで輝いていた瞳が、淀むように沈む。心中は再び、暗い絶望の影に覆われた。


「――だが」


 その言葉に、セレスはおそるおそる顔を上げる。瞳の奥に、再び微かな光が宿り始める。


「だが、ほんの少し――葉を濡らす夜露の一粒にも満たない瘴気を、お前にくれてやってもいい。それならきっと、人族の血が瘴気を押し退けて、魔物になることはないだろう……たぶん。だが、その程度の力では、魔術らしい魔術など、使えないだろうがな」


「じゃあ、やっぱりだめじゃない」


「だからだ。だから、お前は、その一粒を、自分で育ててみせろ。精霊の加護でも、魔核が発っし続ける魔力でもなく、お前自身の力で」


「育て方なんかわかんないよ」


 魔人はふっと笑った。


「――そうだな。実を言うと、これは今、思いついたんだ。だから、俺にも、そんなことが可能かどうか、わからない」


「じゃあ、だめじゃない」


「諦めるのか? 0ではない可能性だぞ……きっと」


 セレスは眉をひそめ、魔人をじっと見上げた。


「痛い?」


「たぶんな」


「大人に殴られるよりも?」


 魔人は絶句した。その表情には、深い衝撃と、嘆きに似た感情が入り混じる。

 もしかすると、このまま魔物になるかもしれない。

 だが、死よりも辛い現実を生きるこの幼子に与えられるのは、希望しかなかったのだ。


「……だが、お前が受けてきたその頬の熱よりは、幾分か誇らしい痛みのはずだ」


「待って……」


 セレスの顔色が、みるみる青褪める。その瞳には、恐怖と焦りが宿り始めた。


「どうした?」


「目が覚めそう。大人が私を、起こしに来た」


「待て。魔術の粒を――!!」


「だめ――!! 夢が消えちゃう!!」


 セレスの意識が、急速に現実へと引き戻されていく。 目の前で、手を伸ばす黒衣の姿が揺らぎ、遠ざかり始めた。

 魔人は、消えゆくセレスの手を、必死に掴もうと藻掻いた。 指先が、微かに触れる。


 そして――


 ◇


 眩い光が、セレスの視界を覆った。

 それから、鼓膜をつんざくような寮母の甲高い声。


「起きなさい! 朝ですよ!」


 セレスは、虚ろな目で、ぼんやりと天井を見上げた。


「王子さま」


 温かい何かが、頬を伝った。どうやら、泣いていたらしい。


 夢を、見ていた気がする。

 内容は――靄がかかったように、はっきりとは思い出せない。ただ、胸の奥に、強く、温かい、確かな感触だけが残っていた。それは、手のひらの温もりだろうか。


 しかし、昨日蹴られた腹の痛み、殴られた頬の痛み、全身を覆う重苦しい痛み――それらが邪魔をして、はっきりとしない。

 夢と現実が、痛みと光の間でゆらゆらと溶け合い、セレスの思考を奪っていった。


 夢の想い出のすべては、分厚く重い蓋で、閉じられてしまう。もう二度と、開封されることはないほど、厳重に――。

 錆びついて、朽ち果てて、誰にも探されることのない、メビウスの輪の、奥深くへと――。


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