泥
あれから、悠久の時が過ぎた。
あの時、果たされなかった『明日』が、『今、ここ』になった。
押し合い、絡み合った両手が、互いを離すまいと固く結ばれる。魔力と瘴気が拮抗し、空間そのものが苦しみに耐えられず、慟哭し始める。
「……ああ、いいね。きみは、本当に強くなった」
圧迫される肺の奥から、伯爵の感嘆が零れた。
「力も、理性も……全部、手に入れた。
それで――満足かい?」
「あんたは満足なのか?」
静かな魔帝の問い。
伯爵は答える。
「ああ。満足だ。この世界の秩序を作る側に生まれ、享受し、踏みしめてきた。これから先も、何ひとつ変わることはない」
「その秩序を俺が塗り替えるとしても――あんたは、そこに踏みとどまる人生を選ぶのか?」
伯爵は笑んだ。
「なにを言っている? 弱者に手を差し伸べるのは、憐みか? あいつらは、僕たちとは違うだろうヴェル。待たざる者は、勝手に生まれて勝手に死ねばいい」
伯爵が、魔帝の手を押し返した、その時――
意識を失っていたはずのセレスの指が、僅かに動いた。
それに連動したのは、「痣」。情報結晶が砕け泥が付着した、あの部位だ。
泥は既に落ち、乾いてはいたが、そこには痣のような痕があった。それは自らの意志で動き、伯爵の皮膚から毛細血管へと浸潤し始める。
瞬時に、その身に下賤な何かが侵入してきたと、伯爵は感じ取った。
青褪めた視線が、セレスに向かう。その視線の先で、セレスがゆっくりと、身を起こしたのを――見た。
「セレスティアああああああああああ――!!」
絶叫。
セレスは艶然と立ち上がった。その瞳には、「空白」など微塵もない。あるのは、獲物を解体し終えた魔女の、冷徹な愉悦だ。
「私が、あなたに籠絡されたとでも、思ったのですか?」
セレスの声は、氷の針のように伯爵の鼓膜を刺した。
伯爵は見た。彼女の瞳にあるのは、かつてのリュシーが持っていた「好奇心」ではなく、別の、光だ。
「笑える」
セレスの声が、凍りついた空気を切り裂く。
「さようなら。伯爵」
泥など、伯爵の魔力に、なんの作用も及ぼしはしない。
だが、排除しようとした、その絶望的なコンマ数秒。魔帝の魔力の奔流が、漆黒の極光となって、伯爵の指先から腕へ、腕から魔核へと、猛烈な勢いで伝わっていく。
「終わりだ。伯爵」
魔帝の声が、奥底から絞り出されるように低く響く。
伯爵の腕が、魔帝の圧倒的な魔圧に耐えきれず、ミシミシミシ――と、逆方向へ撓り始める。
「ぐぅっ――!」
耐えきれず手を振りほどいた伯爵は、自ら最大の隙を晒した。
そこへ、魔帝の拳が音速を超えてめり込む。
グシャッ、という鈍い音。
端正な鼻梁が砕け、吸血鬼の誇りが真っ二つに割れる。
飛び散る高貴な血。
伯爵の身体は、自身の血を撒き散らしながら雪原へと叩きつけられた。
「――げぼっ!」
上品さなど微塵もない、情けない呻き声が漏れた。
白い雪が、ドロリとした鮮血で汚れていく。
セレスを見下ろしていたはずの男は、自分の吐瀉物の中で喘いでいる。
見下ろすのは、魔帝と、魔女。
世界を統べる二人の影が、無様に這いずる伯爵の上に、深い絶望の影を落とした。




