愛を喰らう者たち
魔帝は、伯爵を見据えたまま、動かなかった。
沈黙が、先に場を支配する。
伯爵の唇が、愉悦に歪む。
「ふぅ~ん……そこまで惚れているのに、セレスはきみのことを、そんなふうには言っていなかったなぁ」
魔帝から目を逸らすことなく、伯爵の鼻先が、セレスの首元に沈む。
それだけで、空気がひび割れる。
「さては――相手にもされなかったのかな?」
伯爵はわざと軽やかに、追い打ちをかけるように笑った。
「魔帝ともあろうお方が、女ひとり、ものにできないなんて。――冗談みたいだ」
魔帝の視線が、僅かに揺れた。
それを見逃さず、伯爵は笑う。
「だけど、そうだね――」
空間が、崩壊し始める。
だが魔帝は踏み出さない。
踏み出せない。
「こうして、セレスを腕の中に抱いている限り……きみは僕に、手を出せない。けど、それは――」
伯爵の青い瞳が細く笑む。
「――つまらないか」
そう言うと伯爵は、セレスを抱き上げている腕の力を緩めた。
その足元――セレスはうつ伏せに、床に転がった。
魔帝の怒りで、周囲が黒い霜に覆われ始める。
だが、伯爵の周囲には及ばない。
伯爵は、歩み出る。
一歩目――セレスを踏んで。
二歩目――セレスの前に出た。
まるで、セレスを護るように。
そして、朱に変わった瞳が、魔帝だけを映した。
「さあ――宴を始めよう。ヴェラルク=ザハ・ヴェルグ!! きみの血潮で、僕の器を、存分に満たそうではないか!!」
声だけが、夜を這うように低く響く。
伯爵の足元からは、無数の蝙蝠が羽音を撒く。
それらは愛が形を成すように、そして、伯爵の欲望を映す影のように、大気まで赤く染め上げていく。
魔帝は、重たい一歩を、踏み出した。
第一撃――空間ごと伯爵を押し潰す「断罪」の重圧。
刹那、拳と拳がぶつかり合う。それはまるで、二つの星が衝突したかのようだった。衝撃波で天蓋が砕ける。そして、豪雪の夜空へ、黒い双星が舞い上がる。
息を吸う間もなく、第二撃が走った。空中で、二つの影が再び重なる。指を絡ませた掌で押し返し合い、瘴気と魔力が渦を巻く。閃光が弾けた。額と額がぶつかり、互いに退かない。純粋な――力比べだ。
だが魔族同士のそれは、筋肉が裂けても、骨が砕けても、終わることはないだろう。
「今、俺は、あんたのせいで、胸が張り裂けるほどの痛みを覚えている」
「いいことじゃないか。揺れ動く感情は、生の火種だ」
ふたりの背筋がしなり、再び力がぶつかり合う。
降りしきる雪片が、紅い瘴気と黒い魔力に焼かれ、音もなく蒸発した。
大地が呻く。ふたりの間に、世界の境界を揺るがすほどの、破壊の渦が巻き起こった。




