獣か、理性か
セレスの視界が揺れた。
膝から力が抜ける。
伯爵はセレスの細い身体を腕に絡め、横抱きに掬い上げた。
瞬間、セレスの脳内にあった膨大な魔術式が、古い羊皮紙が次々と焼け落ちるかのように、灰となって消えていく。
(ああ……消えていく。私を、私たらしめていたものが)
その壊れゆく意識の淵で、漆黒の男が息を吐くのを、セレスは見た。
緋色の瞳が、揺れている。
セレスは、その揺らぎを「観測」した。
男の瞳に映っているのは、蹂躙される世界への興味ではない。
ただ一点。伯爵の腕の中で、光を失い、人形へと成り果てようとしているセレスを、必死にこの世に繋ぎ止めようとする「狂おしいほどの執着」だ。
(あなたは……そんな目で、笑うのね)
意味を噛み締める前に、思考の糸が切れた。
伯爵の冷たい「愛」が、セレスの魂を音もなく塗り潰していく。
意識が落ちかけたその刹那、セレスは見た。
――魔帝が、動いた。
一歩。
ただ、それだけ。
床を踏みしめる音はない。
伯爵は、抱いたままのセレスを見下ろし、愉快そうに唇を歪めた。
「……なるほど。これは、悪くない」
その声は、あくまで穏やかだった。
伯爵は、魔帝へ視線を向ける。
「動けないんだ」
魔帝は答えない。
緋色の瞳は、伯爵を見ていない。
見ているのは――
伯爵の腕の中、力なく項垂れるセレスだけだ。
その視線を受けて、伯爵の胸の奥で、何かが疼いた。
伯爵は確信する。
――『ああ。勝った』と。
どれほど強大な存在であろうと、奪われる恐怖を知った瞬間、判断は鈍る。
「離せ――とは、言わないんだね」
あくまで軽く、世間話のように。
「……優しいな。
それとも――怖いのかい」
魔帝の睫毛が、わずかに伏せられた。
その仕草を、伯爵は見逃さない。
「図星、か」
伯爵は、セレスの背に回した腕に力を込め、その身体を自分の胸に引き寄せた。
守るように――否、誇示するように。
「きみは、壊したくないんだろう?」
沈黙。
だが次の瞬間、世界が――軋んだ。
衝撃は、音よりも先に来た。
伯爵の視界が、白く弾ける。
床には亀裂が走る。
壁が、悲鳴を上げた。
伯爵は数歩下がりながらも、セレスを離さない。
「……はは」
笑った。
「今のは、効いたよ」
視線を上げる。
そこに立つ魔帝は、なおも静かだった。
怒気も、殺意も、表に出していない。
ただ、ひとつ。
セレスを見るその目だけが、壊れそうなほどに――痛々しい。
伯爵は理解した。
(これは――この女は、踏み越えてはいけなかったもの)
だが、だからこそ。
伯爵の唇は更に深く、愉悦に歪んだ。
「……素敵だ」
低く、囁く。
「ここまで感情を抑えられるなんて。
さすがは、帝国の主だ」
そして、セレスの耳元へ。
「安心して。アレは――きみが見ている前で、めちゃくちゃにしてあげる」
セレスの指先が、僅かに動いた。
意識は、まだ完全には落ちていない。
その事実を、伯爵だけが知っている。
「――夜は、長い」
伯爵の言葉に、魔帝はまた、深く息を吐いた。
世界はそれに耐えきれず、悲鳴を上げた。




