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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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獣か、理性か

 セレスの視界が揺れた。

 膝から力が抜ける。

 伯爵はセレスの細い身体を腕に絡め、横抱きに掬い上げた。


 瞬間、セレスの脳内にあった膨大な魔術式が、古い羊皮紙が次々と焼け落ちるかのように、灰となって消えていく。


(ああ……消えていく。私を、私たらしめていたものが)


 その壊れゆく意識の淵で、漆黒の男が息を吐くのを、セレスは見た。


 緋色の瞳が、揺れている。

 セレスは、その揺らぎを「観測」した。


 男の瞳に映っているのは、蹂躙される世界への興味ではない。

 ただ一点。伯爵の腕の中で、光を失い、人形へと成り果てようとしているセレスを、必死にこの世に繋ぎ止めようとする「狂おしいほどの執着」だ。


(あなたは……そんな目で、笑うのね)


 意味を噛み締める前に、思考の糸が切れた。

 伯爵の冷たい「愛」が、セレスの魂を音もなく塗り潰していく。


 意識が落ちかけたその刹那、セレスは見た。


 ――魔帝が、動いた。


 一歩。

 ただ、それだけ。

 床を踏みしめる音はない。


 伯爵は、抱いたままのセレスを見下ろし、愉快そうに唇を歪めた。


「……なるほど。これは、悪くない」


 その声は、あくまで穏やかだった。

 伯爵は、魔帝へ視線を向ける。


「動けないんだ」


 魔帝は答えない。

 緋色の瞳は、伯爵を見ていない。


 見ているのは――

 伯爵の腕の中、力なく項垂れるセレスだけだ。


 その視線を受けて、伯爵の胸の奥で、何かが疼いた。

 伯爵は確信する。


 ――『ああ。勝った』と。


 どれほど強大な存在であろうと、奪われる恐怖を知った瞬間、判断は鈍る。


「離せ――とは、言わないんだね」


 あくまで軽く、世間話のように。


「……優しいな。

 それとも――怖いのかい」


 魔帝の睫毛が、わずかに伏せられた。

 その仕草を、伯爵は見逃さない。


「図星、か」


 伯爵は、セレスの背に回した腕に力を込め、その身体を自分の胸に引き寄せた。

 守るように――否、誇示するように。


「きみは、壊したくないんだろう?」


 沈黙。


 だが次の瞬間、世界が――軋んだ。


 衝撃は、音よりも先に来た。

 伯爵の視界が、白く弾ける。


 床には亀裂が走る。

 壁が、悲鳴を上げた。


 伯爵は数歩下がりながらも、セレスを離さない。


「……はは」


 笑った。


「今のは、効いたよ」


 視線を上げる。

 そこに立つ魔帝は、なおも静かだった。

 怒気も、殺意も、表に出していない。


 ただ、ひとつ。


 セレスを見るその目だけが、壊れそうなほどに――痛々しい。


 伯爵は理解した。


(これは――この女は、踏み越えてはいけなかったもの)


 だが、だからこそ。


 伯爵の唇は更に深く、愉悦に歪んだ。


「……素敵だ」


 低く、囁く。


「ここまで感情を抑えられるなんて。

 さすがは、帝国の主だ」


 そして、セレスの耳元へ。


「安心して。アレは――きみが見ている前で、めちゃくちゃにしてあげる」


 セレスの指先が、僅かに動いた。

 意識は、まだ完全には落ちていない。

 その事実を、伯爵だけが知っている。


「――夜は、長い」


 伯爵の言葉に、魔帝はまた、深く息を吐いた。

 世界はそれに耐えきれず、悲鳴を上げた。

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