小鳥
ダイニングホールの扉が、開いた。
「……だ、旦那様――」
執事の声は、途中で潰れた。言葉になる前に喉が震え、膝が折れる。
燭台の炎が、一斉に蹲った。消えるのではない。凍り付いたまま燃え続け、意志を奪われたように、扉に向かって、低く平伏している。
そこに、何かが立っていた。
人の形をしている。
だが、そう見える、というだけだった。
それは、静けさを纏っていた。
艶やかな漆黒。
視線を向けた瞬間、夜が増えた気がした。
誰もその名を口にしない。
声に出せば何かが壊れる――と、全員が理解していた。
伯爵の指が、セレスの腰へと食い込む。
それだけで、彼の内側に走った感情が伝わってくるようだった。
「……なるほど」
伯爵の声が、微かに上擦る。
「早かったじゃないか」
返事はない。
その男の視線は、伯爵ではなく、伯爵に抱かれたセレスだけを、捉えていた。
セレスは顔を上げる。
そして、その男を見た。
血のように濃い緋色の瞳。
夜を従える者。
側頭部から伸びる、太く湾曲したツノが、美しい。
その肩には、淡い氷光を宿す、小鳥――フロストシマエナガが、主の帰還を告げるかのように、静かに羽を畳んでいた。
伯爵は、その漆黒から目を逸らさず、ゆっくりと立ち上がった。
その動きに合わせて、セレスの身体も引き上げられる。そのまま背後から、伯爵に抱きすくめられた。冷たい指で顎を掴まれ、否応なしに、伯爵の方へと顔を向けさせられる。
「まさか、きみの仕業かい?」
セレスの耳元に、熱を帯びた吐息が落ちる。
「本当に、厄介だ」
その繊細な指が、セレスの瞼をなぞった。
「だが、そこが……」
囁きが、甘く歪む。
「度し難いほど愛おしい」
セレスの胸の奥に、冷たいものが流れ込んできた。
血ではない。
けれど思考が、ゆっくりと剥がされていく感覚――
身体が動かない。
声も出ない。
それでも、視線だけは逸らさなかった。
漆黒の男が、初めて息を吐くのを、セレスは見た。
それは、怒りではなく、咆哮でもない。
深く。低く。
抑えきれぬ何かを押し殺すような吐息だった。
血のような瞳が、わずかに揺れる。
その一瞬を、セレスは確かに「観測」した。




