無垢
雪はまだ、しんしんと降り続いていた。
けれど、城の外に出られないほどではない。
セレスは伯爵と朝食――伯爵にとっては夕食――を済ませると、城の裏手に広がる庭に出た。
白銀に覆われた地面を、火の魔術で溶かしつつ、森へと歩を進める。背後には、陽の光を避けながら、吸血鬼のメイドが影のように付き従っていた。
入浴の時も、眠りに就こうとする時でさえも、視線が外れることはない。
それを「監視」だと感じる感覚すら、最近は薄れていた。
森の中、セレスはふと立ち止まり、大きな木の幹に手を添えて空を仰いだ。
灰色の雲の切れ間から、白い羽毛の小鳥が、ひらひらと落ちてくる。
「かわいい……」
名前は、遅れて浮かんだ。
「フロストシマエナガだわ」
セレスは両手で、そっと受け止めた。。
綿毛のように真っ白な小鳥は、かすかに羽を震わせ、弱々しい鳴き声を上げる。
「怪我をしているのね」
掌に、淡い治癒の魔術を灯す。短い詠唱。
小鳥はたちまち柔らかな光に包まれ、やがてその光が消えると同時に、セレスの人差し指を、くすぐるように甘噛みした。
「さあ……。行きなさい」
そう言って放つと、白い羽影は雪明かりの中へ、溶けるように飛び立っていった。
◇
相変わらず、贅を尽くした食卓だった。
伯爵は、香ばしく焼かれた肉を切り分けながら、ただの会話を始める。
「森で魔術を使ったそうだね」
テーブルのワインの赤が、静かに揺れている。
「聞いたことのない術式だったと、報告を受けたが……」
セレスは、ナイフを持つ手を止めない。
「小鳥が怪我をしていたの。飛べないと可哀想だと思って、治療をしてあげたの」
「小鳥?」
伯爵は眉を上げ、すぐに微笑んだ。
「助けたのか」
「そうよ」
伯爵は一瞬だけ考える素振りを見せ、それから肩を竦める。
「そのままにしておけば、死んでいただろうね」
セレスの手が止まる。
「でも、きみは助けた」
声音は淡々としている。
その言葉は、否定でも称賛でもなかった。
ただの事実確認だ。
「選んだ以上、きみはもう、責任を持っている」
胸の奥に、鈍い重さが落ちる。
反論できるはずの言葉が、喉の手前で形を失った。
「それで――その呪文は、どのようなものだったのかな?」
答えようとして、セレスはまた少し、声を詰まらせる。
「……えルフ語です。私はテリア王国の魔術学院出身で。そこに、エルフの先生がいて」
ナイフを持つ伯爵の手が、止まった。
「ヘルミスか?」
空気が張り詰める。
「ファウロス・ヘルミス」
「知っているの?」
「知っているも何も……」
伯爵は言葉を切り、グラスを傾けた。
「……いや、やめておこう」
そう言って、ワインを揺らし、淡く笑みを浮かべる。
「彼は――ヘルミスは、元気にしているのか?」
「はい」
「相変わらず、美しいのだろうな」
その問いに、セレスの脳裏へ、自然と彼の姿が浮かび上がった。
銀色の髪。緑色の瞳。笑えば、目尻に皺が寄る。
「――ええ。人間族に例えれば、見た目は四十代、前半くらい……でしょうか」
言い終えた瞬間、頬が熱を帯びたことに気づく。
理由は、考えない。
「少し……憂いを帯びた感じが、むしろ――」
そこで、伯爵の視線が、鋭く細まった。
「おや」
口角が、ゆっくりと吊り上がる。
「ヘルミスが、好みなのかい?」
「違うわ」
否定は、即座に出た。
「憧れの人に、少し似ているだけです。子供の頃に見た夢の……年上の人」
「妬けてしまうな」
伯爵は、愉しげに笑った。
次の瞬間、セレスの視界が揺らぐ。
気づいた時には、冷たい腕がその腰をさらい、身体は、伯爵へと強く引き寄せられていた。
「食事中です、ラフィ」
「だからなんだ」
囁きが、セレスの耳朶を撫で、首筋に吐息が触れる。伯爵は鼻先でセレスの体温を深く吸い込んだ。
「――今すぐ僕と愛し合おう、セレス」
「まだ――」
「だめだ」
甘い声。けれど底には、狂気のような確信が垣間見える。
「お願い、ラフィ。まだ」
「心配しなくていい、セレス。渇望など、僕が満たしてやる。狩り場も、獲物も、きみが望むままに、僕が用意してあげる」
セレスは、がたがたと震え始めた。
「ああ……セレス」
伯爵は、憐れむようにセレスを見詰めた。
「少し――時間をかけすぎてしまったようだ。きみがあまりにも強い眼差しをしていたから……。強がっていただけだったんだね。可哀想なことをしてしまった」
伯爵は、その反応を愛おしむように見つめ、セレスをゆっくりと抱き寄せる。その腕の中で、セレスは息を整えた。
外では冬の嵐が、猛威を振るい始める気配がした。




