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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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初恋

 体調は、目に見えて回復している。

 それが良いことなのかどうかを、判断する気力はない。


「私、てっきり、このお城には、たくさんの奥様がいるものだと」


 自分の声が、他人の喉を借りたように虚ろに響く。セレスはタルトの甘みを感じなかった。ただ、カスタードの粘り気が舌に絡みつき、嘔吐感を呼び覚ます。


「きみは僕を、ずいぶん誤解しているようだね」


 伯爵は頬づえをつき、軽く笑った。

 責める響きはない。むしろ、少し困ったような調子だ。


「では、つがいを持ったことは?」


 考えた末の言葉ではない。

 沈黙が耐えきれず、口から落ちた。


「――あるさ」


 伯爵は、グラスの中の赤を見つめ、言った。


「一人だけ」


 セレスの指が止まる。

 タルトの皿が、微かに鳴った。


「……聞きたいかい?」


 問いは、柔らかい。

 だが、選択肢は最初から、一つしかない。


「ラフィのことは」


 胸の奥で何かが動いたが、感情の名前が見つからない。


「全部、知りたい」


 伯爵は、満足そうに微笑んだ。


「彼女はきみに似て、知的好奇心という病に冒された学者だったよ。――僕は、そういうところに、随分と振り回された」


 遠い過去を想い出そうとするその瞳は、不快なほどにとても澄んでいて、穏やかだ。


「相手が吸血鬼ノスフェラトゥだろうと気にも留めない。他人がどう思うかなんて、興味がないみたいなんだ。――こちらの領域に、ずかずかと踏み込んできて……」


 唇に淡い笑みを浮かべ、伯爵は肩を竦める。


「リュシー――リュシアンヌは、宵闇のように美しかった。けれど、不思議な女性だった。世間が言う()()とは程遠い。だからこそ、僕は惹かれた。退屈しなかったんだ」


 そう言って、目を伏せた。陶酔するように。


「……初恋だった」


 セレスの胸に、何かが触れた。

 それが嫌悪なのか、空虚なのか――ただ、感覚が鈍い。


「若かった僕は愚かで、彼女が何を望んでいるのか、考えもしなかった。――ただ失いたくない一心で」


 声が、僅かに震える。


「血を与えれば、ずっとそばに置いておけると思ったんだ」


「その人は、今はどこへ?」


「……消えた」


「消えた?」


「そう。飢えに駆られたリュシーは、最初に自分の家族を――。母を、父を、幼い弟妹も……。血に濡れた美しい瞳で、絶望したように僕を見て……」


 セレスは肩が小さく跳ねた。()()という言葉が、思考を追い越して身体に刺さる。


「そしてリュシーは、忌々しい夜明けの光に焼かれて、灰となり、風に散った」


 伯爵は、指先でグラスの縁をなぞる。


「あれから、何百年と経ったけれど、あの光景を僕は、昨日のことのように思い出せる」


 暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。


「……その人は」


 セレスの声は、掠れている。そして、なぜそんなことを聞こうとしているのか、自分でもわからない。


「あなたを愛していましたか?」


 伯爵は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 考える時間は、確かにあったはずなのに。


 答えは、「わからない」と、一言だけ。


 暖炉の火が、また静かに爆ぜた。

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