初恋
体調は、目に見えて回復している。
それが良いことなのかどうかを、判断する気力はない。
「私、てっきり、このお城には、たくさんの奥様がいるものだと」
自分の声が、他人の喉を借りたように虚ろに響く。セレスはタルトの甘みを感じなかった。ただ、カスタードの粘り気が舌に絡みつき、嘔吐感を呼び覚ます。
「きみは僕を、ずいぶん誤解しているようだね」
伯爵は頬づえをつき、軽く笑った。
責める響きはない。むしろ、少し困ったような調子だ。
「では、番を持ったことは?」
考えた末の言葉ではない。
沈黙が耐えきれず、口から落ちた。
「――あるさ」
伯爵は、グラスの中の赤を見つめ、言った。
「一人だけ」
セレスの指が止まる。
タルトの皿が、微かに鳴った。
「……聞きたいかい?」
問いは、柔らかい。
だが、選択肢は最初から、一つしかない。
「ラフィのことは」
胸の奥で何かが動いたが、感情の名前が見つからない。
「全部、知りたい」
伯爵は、満足そうに微笑んだ。
「彼女はきみに似て、知的好奇心という病に冒された学者だったよ。――僕は、そういうところに、随分と振り回された」
遠い過去を想い出そうとするその瞳は、不快なほどにとても澄んでいて、穏やかだ。
「相手が吸血鬼だろうと気にも留めない。他人がどう思うかなんて、興味がないみたいなんだ。――こちらの領域に、ずかずかと踏み込んできて……」
唇に淡い笑みを浮かべ、伯爵は肩を竦める。
「リュシー――リュシアンヌは、宵闇のように美しかった。けれど、不思議な女性だった。世間が言う淑女とは程遠い。だからこそ、僕は惹かれた。退屈しなかったんだ」
そう言って、目を伏せた。陶酔するように。
「……初恋だった」
セレスの胸に、何かが触れた。
それが嫌悪なのか、空虚なのか――ただ、感覚が鈍い。
「若かった僕は愚かで、彼女が何を望んでいるのか、考えもしなかった。――ただ失いたくない一心で」
声が、僅かに震える。
「血を与えれば、ずっとそばに置いておけると思ったんだ」
「その人は、今はどこへ?」
「……消えた」
「消えた?」
「そう。飢えに駆られたリュシーは、最初に自分の家族を――。母を、父を、幼い弟妹も……。血に濡れた美しい瞳で、絶望したように僕を見て……」
セレスは肩が小さく跳ねた。飢えという言葉が、思考を追い越して身体に刺さる。
「そしてリュシーは、忌々しい夜明けの光に焼かれて、灰となり、風に散った」
伯爵は、指先でグラスの縁をなぞる。
「あれから、何百年と経ったけれど、あの光景を僕は、昨日のことのように思い出せる」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
「……その人は」
セレスの声は、掠れている。そして、なぜそんなことを聞こうとしているのか、自分でもわからない。
「あなたを愛していましたか?」
伯爵は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
考える時間は、確かにあったはずなのに。
答えは、「わからない」と、一言だけ。
暖炉の火が、また静かに爆ぜた。




