静かなる破壊
目を覚ました瞬間、セレスは考えなかった。
考えようとした、という感覚だけが遅れて浮かび、その手前で、ふっと消える。
石の冷たさ。
低い天井。
ぼんやりとした灯り。
視界はある。
意味が、追いつかない。
沈む。
思考が、水に落とした石のように。
理由を思い出す前に、「そういう場所だ」という理解だけが残る。
思い出す必要はない。
わざわざ考えるほどのことでもない。
ここは、牢獄だ。
あれから、一週間は経っただろうか。
或いは、もっと。
身体を動かそうとすると、僅かな遅れがあった。
命令と動作の間に、薄い膜が一枚挟まっているような感覚だ。
口は塞がれている。
詠唱はできない。
手首と足首には鎖。
食事も、水も、与えられていない。
伯爵は、時折やってくる。
何も言わず、ただ視線を置いていく。
品定めをするように。
それだけで、去る。
そのたび、意識が削られた。
抵抗しようとする部分から、順に。
◇
暖炉の熱が、皮膚に当たる。
温かい――とは、違う。
長いテーブルの上には、食事が用意されていた。
肉。
果実。
酒。
これらを、好きという感情が、どこにあったのか思い出せない。
これは、夢だろうか――。
「お目覚めかな、セレス嬢」
その声は、絹のように滑らかで、耳障りだ。
正面を見ると、モルヴァン伯爵が椅子に凭れ、どろりとした赤い液体の入ったグラスを揺らしている。
セレスは口を開こうとして、やめた。
声が出ない。
「無理に話さなくていい。最初は、そうなる」
伯爵の声が、優しい。
「座りなさい」
命令だった。
だが逆らう理由を探す前に、身体が動いた。
椅子に腰を下ろす。
その動作ひとつで、なにかが削れる音が遠く。
セレスは、テーブルに並んだ極彩色の料理を見つめた。
脳はそれを「食料」と識別している。
食べなければならない理由も、食べない理由も、同じ重さで並んでいる。
腹は空いている――という段階を、とうに超えていた。
――どちらでもいい。
その思考に、僅かに眉が動いた。
以前の自分なら、「どちらでもいい」と感じた時点で、危険だと判断したはずだ。
だが今は、その警告音が鳴らない。
「……食べないのかい?」
伯爵が、穏やかに問う。
「毒は入っていない。少なくとも、即死するようなものはね」
冗談めいた口調。
セレスは笑えなかった。
代わりに、手が伸びる。
自分の意志かどうか、判然としないまま。
フォークを取る。
刃を入れる。
肉汁が溢れる。
香りが立つ。
口に運ぶ。
……味は、分かる。
だが、それだけだった。
美味しいとも、不味いとも思わない。
ただ、「そういう味だ」と理解する。
胃が受けつけないのか、セレスは嚥下したものを戻した。
伯爵は微笑む。
困ったように、しかし咎めることなく。
「きみが今、口にしたものは、何だと思う?」
その問いに、セレスの心臓が跳ねた。顔が蒼白く変わる。答えが浮かびそうになり、その考えに、強烈な嫌悪が走った。
床に倒れ込み、震える指を喉の奥に押し込んだ。胃の中のものをすべて、吐き出す。
「ああセレス。お行儀が悪いなぁ。なんだと思ったの?」
伯爵は、笑った。
「鶏肉だよ」
セレスの身体が、がたがたと震え始める。
それを、伯爵は見逃さない。ゆっくりと席を立ち、セレスに歩み寄る。
そして、屈んだ。
「大丈夫。僕はきみを騙したりしない」
伯爵が、セレスの背中をさする。震えは止まらない。
「恐怖はもう一度、後で来る。嫌悪も、怒りもね」
彼の声は、優しい。
「でも今は――空白なんだ」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
空白。
確かに、そこには在ったはずの、なにかが無い。
「安心して」
伯爵の囁き。
「ここでは、考えなくていい。選ばなくていいんだ」
セレスの喉が、僅かに鳴った。
それは救いの音にも、審判の音にも聞こえた。
伯爵はセレスを抱き寄せ、背中を、ぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だよセレス。きみの負担は、僕が全部、引き受けてあげる」
セレスは伯爵の腕の中で、震えたまま縮こまった。
震えている理由も、もう区別できない。
「ほら、言ってごらん、セレス。僕は、きみを裏切らない」
伯爵の指示に従い、唇が動く。
「ヴぉ……ヴぉ、ぼく」
声が、絡まる。
伯爵はふふっと笑う。
「違うよセレス。そうじゃない――」
穏やかな訂正。
「『ラフィは、私を、裏切らない』だ」
「らひぃ――は、わた、し、を、うらい、ら、ない」
自分の唇から漏れた言葉が、遠い異国の言葉に聞こえる。
かつて、王立魔術学院の頂点に立ち、王子の求婚を切り捨てた知性は、今、深い霧の底に沈んでいる。
「はい。よくできました」
伯爵は満足そうに頷き、スープを掬って、セレスの唇に充てた。
セレスは、抵抗せずに飲み込んだ。
味は、ない。
喉を通った熱だけが、自分がまだ、「有機物」であることを知らせる。
伯爵の指が、愛おしそうにセレスの髪を撫でる。その優しさが、毒液のように、セレスの思考を溶かしていく。考えなくていい。抗わなくていい。この男に委ねていれば、飢えも、孤独も、記憶も、痛みも、すべて不要になる。
(……いや。まだ、なにか)
白く均された場所――更に奥。意識の底に、一つだけ、消えない染みがある。
重く。深く。
(底なしの赤い瞳。私を、魂ごと食い破ろうとした)
これは、伯爵が落としたもなのか、それとも――
なにも、考えられない。
なら、どちらでもいい。




