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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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静かなる破壊

 目を覚ました瞬間、セレスは考えなかった。


 考えようとした、という感覚だけが遅れて浮かび、その手前で、ふっと消える。


 石の冷たさ。

 低い天井。

 ぼんやりとした灯り。


 視界はある。

 意味が、追いつかない。


 沈む。

 思考が、水に落とした石のように。


 理由を思い出す前に、「そういう場所だ」という理解だけが残る。


 思い出す必要はない。

 わざわざ考えるほどのことでもない。


 ここは、牢獄だ。


 あれから、一週間は経っただろうか。

 或いは、もっと。


 身体を動かそうとすると、僅かな遅れがあった。

 命令と動作の間に、薄い膜が一枚挟まっているような感覚だ。


 口は塞がれている。

 詠唱はできない。

 手首と足首には鎖。


 食事も、水も、与えられていない。


 伯爵は、時折やってくる。

 何も言わず、ただ視線を置いていく。

 品定めをするように。

 それだけで、去る。


 そのたび、意識が削られた。

 抵抗しようとする部分から、順に。


 ◇


 暖炉の熱が、皮膚に当たる。

 温かい――とは、違う。


 長いテーブルの上には、食事が用意されていた。


 肉。

 果実。

 酒。


 これらを、好きという感情が、どこにあったのか思い出せない。


 これは、夢だろうか――。


「お目覚めかな、セレス嬢」


 その声は、絹のように滑らかで、耳障りだ。

 正面を見ると、モルヴァン伯爵が椅子に凭れ、どろりとした赤い液体の入ったグラスを揺らしている。

 

 セレスは口を開こうとして、やめた。

 声が出ない。


「無理に話さなくていい。最初は、そうなる」


 伯爵の声が、優しい。


「座りなさい」


 命令だった。

 だが逆らう理由を探す前に、身体が動いた。


 椅子に腰を下ろす。

 その動作ひとつで、なにかが削れる音が遠く。


 セレスは、テーブルに並んだ極彩色の料理を見つめた。

 脳はそれを「食料」と識別している。


 食べなければならない理由も、食べない理由も、同じ重さで並んでいる。

 腹は空いている――という段階を、とうに超えていた。


 ――どちらでもいい。


 その思考に、僅かに眉が動いた。


 以前の自分なら、「どちらでもいい」と感じた時点で、危険だと判断したはずだ。

 だが今は、その警告音が鳴らない。


「……食べないのかい?」


 伯爵が、穏やかに問う。


「毒は入っていない。少なくとも、即死するようなものはね」


 冗談めいた口調。

 セレスは笑えなかった。


 代わりに、手が伸びる。

 自分の意志かどうか、判然としないまま。


 フォークを取る。

 刃を入れる。


 肉汁が溢れる。

 香りが立つ。


 口に運ぶ。


 ……味は、分かる。


 だが、それだけだった。


 美味しいとも、不味いとも思わない。

 ただ、「そういう味だ」と理解する。


 胃が受けつけないのか、セレスは嚥下したものを戻した。


 伯爵は微笑む。

 困ったように、しかし咎めることなく。


「きみが今、口にしたものは、何だと思う?」


 その問いに、セレスの心臓が跳ねた。顔が蒼白く変わる。答えが浮かびそうになり、その考えに、強烈な嫌悪が走った。

 床に倒れ込み、震える指を喉の奥に押し込んだ。胃の中のものをすべて、吐き出す。


「ああセレス。お行儀が悪いなぁ。なんだと思ったの?」


 伯爵は、笑った。


「鶏肉だよ」


 セレスの身体が、がたがたと震え始める。

 それを、伯爵は見逃さない。ゆっくりと席を立ち、セレスに歩み寄る。

 そして、屈んだ。


「大丈夫。僕はきみを騙したりしない」


 伯爵が、セレスの背中をさする。震えは止まらない。


「恐怖はもう一度、後で来る。嫌悪も、怒りもね」


 彼の声は、優しい。


「でも今は――空白なんだ」


 その言葉が、胸の奥に沈んだ。


 空白。

 確かに、そこには在ったはずの、なにかが無い。


「安心して」


 伯爵の囁き。


「ここでは、考えなくていい。選ばなくていいんだ」


 セレスの喉が、僅かに鳴った。

 それは救いの音にも、審判の音にも聞こえた。


 伯爵はセレスを抱き寄せ、背中を、ぽんぽんと叩いた。


「大丈夫だよセレス。きみの負担は、僕が全部、引き受けてあげる」


 セレスは伯爵の腕の中で、震えたまま縮こまった。

 震えている理由も、もう区別できない。


「ほら、言ってごらん、セレス。僕は、きみを裏切らない」


 伯爵の指示に従い、唇が動く。


「ヴぉ……ヴぉ、ぼく」


 声が、絡まる。

 伯爵はふふっと笑う。


「違うよセレス。そうじゃない――」


 穏やかな訂正。


「『ラフィは、私を、裏切らない』だ」


「らひぃ――は、わた、し、を、うらい、ら、ない」


 自分の唇から漏れた言葉が、遠い異国の言葉に聞こえる。

 かつて、王立魔術学院の頂点に立ち、王子の求婚を切り捨てた知性は、今、深い霧の底に沈んでいる。


「はい。よくできました」


 伯爵は満足そうに頷き、スープを掬って、セレスの唇に充てた。

 セレスは、抵抗せずに飲み込んだ。


 味は、ない。

 喉を通った熱だけが、自分がまだ、「有機物」であることを知らせる。


 伯爵の指が、愛おしそうにセレスの髪を撫でる。その優しさが、毒液のように、セレスの思考を溶かしていく。考えなくていい。抗わなくていい。この男に委ねていれば、飢えも、孤独も、記憶も、痛みも、すべて不要になる。


(……いや。まだ、なにか)


 白く均された場所――更に奥。意識の底に、一つだけ、消えない染みがある。

 重く。深く。


 (底なしの赤い瞳。私を、魂ごと食い破ろうとした)


 これは、伯爵が落としたもなのか、それとも――

 なにも、考えられない。

 なら、どちらでもいい。

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