月下の籠の中
遠く、無数の羽ばたきが空気を震わせていた。
掻き鳴らされるような不快な音が、次第に重なり、やがて風そのものの唸りへと変わる。
――まだ、夜は終わっていない。
その認識と同時に、意識が浮上した。
数度の瞬き。
最初に視界に入ったのは、自分の腕と、そこに嵌められた冷たい金属だった。
魔術封じの呪印が刻まれた手枷。白い手首に、きつく食い込んでいる。
胸の奥に広がったのは、安堵ではない。
乾いた、冷たい感覚だった。
視線を上げる。
向かいの長椅子に、モルヴァン伯爵がいた。脚を組み、片肘をついて、青い瞳を愉快そうに細めている。
セレスが重い身体をゆっくりと起こすと、自分も同じような長椅子に横たわらされていたことが分かった。
揺れがない。――ここは馬車の中だ。
地を走るのではなく、夜空を飛んでいる。窓の外、追いすがるように視界を占めるのは、血のように赤い巨大な月。その光を切り裂き、群れをなす蝙蝠が、黒い奔流となって飛び交っていた。
「……私を、殺さなかったのですか?」
掠れた声。
伯爵は少し考える素振りを見せ、口角を上げた。
「意識がないきみを壊しても、なんの面白味もないからね」
その青い瞳が、ねっとりとセレスをなめる。
「生きているほうが、選択肢が増える」
伯爵の言葉に、セレスは唇を噛んだ。
「行き先が気になる?」
「……」
「僕の城だ。昔、住んでいた場所でね」
セレスは俯いたまま、沈黙を保つ。
伯爵は気に留める様子もなく、楽しげに息をついた。
「眠っている時のきみは、無口で。黄昏のように美しかった」
セレスの腕に、ぶわりと鳥肌が立つ。
伯爵は、瞼を伏せた。
「だが、憎まれ口も悪くはない。――きみが思い出させてくれたのは確かだ。吸血鬼の誇りをね」
そう言って、再びセレスへと視線を戻す。
セレスは黙したまま、俯いていた。
必死に何かを考え込む姿は、いつもの不遜な様子とはどこか違っていた。
けれど、セレスを深く知らない伯爵は、そんな異変に気付くわけもなく、愉快げに笑みを深める。
「さて、きみの処遇についてだけど……どうしようかな。こういうのは久しぶりだ。――ふふっ……楽しくなってきた」
長い脚を組みなおし、まるで気まぐれな遊戯を前にした子どものように微笑む。その笑顔は、春の陽だまりのように柔らかく――しかし、背筋が冷えるほど残酷に見えた。
饒舌な伯爵とは対照的に、セレスは口を閉ざしたまま。視線は床の一点に落ちたまま、思い詰めたように微動だにしない。
その様子に、さすがの伯爵も怪訝な顔をする。
「きみ――どうかしたの?」
それでもセレスは答えない。
伯爵が、その白い頬へ指先を伸ばした――その刹那。
セレスの唇が、かすかに震えた。
「……解錠解析《ディスコード=アナライズ》」
空間を振動させるように響いた短い詠唱。それと同時に、魔力を封じるはずの呪印が内側から弾け、手枷は硝子細工のように粉々に砕け散った。
「――なっ、何をしている!?」
伯爵の青い瞳が驚愕に見開かれる。魔術師の天敵である枷を、魔術そのもので無効化するなど、伯爵の常識ではあり得ない事態だった。
セレスは、自由になった両手を軽く振る。
「不快だったので」
「そういうことじゃない。自分が何をしたかわかっているのか――!?」
「もちろん」
セレスは、こわばった手首をさすりながら薄く笑った。
「ですから、せめて自分の身体の扱いだけは、自分で決めます」
その言葉に、伯爵は一瞬だけ目を瞬いた。
それから、困った子どもを見るように、静かに笑った。
「――勘違いをしているね」
低く、よく通る声だった。
「きみの身体を決める権利は、もう、きみにはない」
言葉は柔らかい。
だが、それは宣告だった。
セレスの喉が、わずかに鳴る。
伯爵は、楽しげに続ける。
「抵抗する意思があるのは嫌いじゃない。だがね……
それは許されているうちだけの話だ」
青い瞳が、慈愛めいた光を帯びる。
「今のきみは、選ぶ立場じゃない」
青い瞳が三日月のように細まり、妖しく輝いた。――かと思うと、その姿が胸を中心に陽炎のように揺らぎ、一瞬で掻き消える。
「……っ!」
気づけば伯爵は、セレスの隣に座っていた。いつ移動したのかすらわからない。逃げる間もなく、伯爵の左腕が、息を呑むセレスの腰を引き寄せた。右手の指が、その薔薇のような唇を愛惜を込めてなぞった。
口づけをされそうなほど顔が近づいた瞬間、セレスはその胸を力一杯押し返した。
「なにをするつもりですか?」
伯爵の指先が、首筋で止まる。
だが、熱を帯びた視線が、セレスの全身を滑った。
「身体をどう扱うか決めるのは、いつだって持ち主のはずだろう?」
セレスは唇を噛み、伯爵を睨んだ。
伯爵はふっと微笑む。
「どうせ時間はいくらでもあるさ」
その瞳に宿るのは、逃れ得ぬ獲物を前にした狩人の愉悦。
セレスは何も答えず、ただ窓の外を舞う蝙蝠の群れと、紅に浮かぶ月影をじっと見つめていた。その顎を強引に掴まれ、伯爵の顔へと無理やり戻される。
「どこを見ているの? セレス」
「窓の外です」
「どうして?」
「――馬車の揺れで、酔わないようにです。伯爵」
「それが本当だったとしても、きみは油断ならないからね……さあ、目を閉じて」
伯爵の長い指が、羽のような軽やかさでセレスの瞼へ触れた。魔力がじわりと浸透し、抗えぬ眠気がセレスの意識を絡め取っていく。
「……っ」
最後に見たのは、伯爵の瞳に揺れる快楽に似た光。
次に目覚めた時、自分が何を失っているのか――それすら、分からない。
闇が落ちる。
音が消える。
意識は、断ち切られるように沈んでいった。




