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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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月下の籠の中

 遠く、無数の羽ばたきが空気を震わせていた。

 掻き鳴らされるような不快な音が、次第に重なり、やがて風そのものの唸りへと変わる。


 ――まだ、夜は終わっていない。


 その認識と同時に、意識が浮上した。


 数度の瞬き。

 最初に視界に入ったのは、自分の腕と、そこに嵌められた冷たい金属だった。

 魔術封じの呪印が刻まれた手枷。白い手首に、きつく食い込んでいる。


 胸の奥に広がったのは、安堵ではない。

 乾いた、冷たい感覚だった。


 視線を上げる。

 向かいの長椅子に、モルヴァン伯爵がいた。脚を組み、片肘をついて、青い瞳を愉快そうに細めている。


 セレスが重い身体をゆっくりと起こすと、自分も同じような長椅子に横たわらされていたことが分かった。


 揺れがない。――ここは馬車の中だ。

 地を走るのではなく、夜空を飛んでいる。窓の外、追いすがるように視界を占めるのは、血のように赤い巨大な月。その光を切り裂き、群れをなす蝙蝠が、黒い奔流となって飛び交っていた。


「……私を、殺さなかったのですか?」


 掠れた声。

 伯爵は少し考える素振りを見せ、口角を上げた。


「意識がないきみを壊しても、なんの面白味もないからね」


 その青い瞳が、ねっとりとセレスをなめる。


「生きているほうが、選択肢が増える」


 伯爵の言葉に、セレスは唇を噛んだ。


「行き先が気になる?」


「……」


「僕の城だ。昔、住んでいた場所でね」


 セレスは俯いたまま、沈黙を保つ。

 伯爵は気に留める様子もなく、楽しげに息をついた。


「眠っている時のきみは、()()で。黄昏のように美しかった」


 セレスの腕に、ぶわりと鳥肌が立つ。

 伯爵は、瞼を伏せた。


「だが、憎まれ口も悪くはない。――きみが思い出させてくれたのは確かだ。吸血鬼ノスフェラトゥの誇りをね」


 そう言って、再びセレスへと視線を戻す。

 セレスは黙したまま、俯いていた。

 必死に何かを考え込む姿は、いつもの不遜な様子とはどこか違っていた。


 けれど、セレスを深く知らない伯爵は、そんな異変に気付くわけもなく、愉快げに笑みを深める。


「さて、きみの処遇についてだけど……どうしようかな。こういうのは久しぶりだ。――ふふっ……楽しくなってきた」


 長い脚を組みなおし、まるで気まぐれな遊戯を前にした子どものように微笑む。その笑顔は、春の陽だまりのように柔らかく――しかし、背筋が冷えるほど残酷に見えた。


 饒舌な伯爵とは対照的に、セレスは口を閉ざしたまま。視線は床の一点に落ちたまま、思い詰めたように微動だにしない。

 その様子に、さすがの伯爵も怪訝な顔をする。


「きみ――どうかしたの?」


 それでもセレスは答えない。

 伯爵が、その白い頬へ指先を伸ばした――その刹那。

 セレスの唇が、かすかに震えた。


「……解錠解析《ディスコード=アナライズ》」


 空間を振動させるように響いた短い詠唱。それと同時に、魔力を封じるはずの呪印が内側から弾け、手枷は硝子細工のように粉々に砕け散った。


「――なっ、何をしている!?」


 伯爵の青い瞳が驚愕に見開かれる。魔術師の天敵である枷を、魔術そのもので無効化するなど、伯爵の常識ではあり得ない事態だった。


 セレスは、自由になった両手を軽く振る。


「不快だったので」


「そういうことじゃない。自分が何をしたかわかっているのか――!?」


「もちろん」

 

 セレスは、こわばった手首をさすりながら薄く笑った。


「ですから、せめて自分の身体の扱いだけは、自分で決めます」


 その言葉に、伯爵は一瞬だけ目を瞬いた。

 それから、困った子どもを見るように、静かに笑った。


「――勘違いをしているね」


 低く、よく通る声だった。


「きみの身体を決める権利は、もう、きみにはない」


 言葉は柔らかい。

 だが、それは宣告だった。


 セレスの喉が、わずかに鳴る。


 伯爵は、楽しげに続ける。


「抵抗する意思があるのは嫌いじゃない。だがね……

それは()()()()()()()()だけの話だ」


 青い瞳が、慈愛めいた光を帯びる。


「今のきみは、選ぶ立場じゃない」


 青い瞳が三日月のように細まり、妖しく輝いた。――かと思うと、その姿が胸を中心に陽炎のように揺らぎ、一瞬で掻き消える。


「……っ!」


 気づけば伯爵は、セレスの隣に座っていた。いつ移動したのかすらわからない。逃げる間もなく、伯爵の左腕が、息を呑むセレスの腰を引き寄せた。右手の指が、その薔薇のような唇を愛惜を込めてなぞった。

 口づけをされそうなほど顔が近づいた瞬間、セレスはその胸を力一杯押し返した。


「なにをするつもりですか?」


 伯爵の指先が、首筋で止まる。

 だが、熱を帯びた視線が、セレスの全身を滑った。


「身体をどう扱うか決めるのは、いつだって持ち主のはずだろう?」


 セレスは唇を噛み、伯爵を睨んだ。

 伯爵はふっと微笑む。


「どうせ時間はいくらでもあるさ」


 その瞳に宿るのは、逃れ得ぬ獲物を前にした狩人の愉悦。

 セレスは何も答えず、ただ窓の外を舞う蝙蝠の群れと、紅に浮かぶ月影をじっと見つめていた。その顎を強引に掴まれ、伯爵の顔へと無理やり戻される。


「どこを見ているの? セレス」


「窓の外です」


「どうして?」


「――馬車の揺れで、酔わないようにです。伯爵」


「それが本当だったとしても、きみは油断ならないからね……さあ、目を閉じて」


 伯爵の長い指が、羽のような軽やかさでセレスの瞼へ触れた。魔力がじわりと浸透し、抗えぬ眠気がセレスの意識を絡め取っていく。


「……っ」


 最後に見たのは、伯爵の瞳に揺れる快楽に似た光。

 次に目覚めた時、自分が何を失っているのか――それすら、分からない。


 闇が落ちる。

 音が消える。


 意識は、断ち切られるように沈んでいった。

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