名前
イリヤの報告を受け、グリード率いる警備隊がモルヴァン伯爵の洋館へと駆けつけた時、そこはすでに、もぬけの殻だった。
地下の実験室も、血痕の残る客間も、吸血の儀式に使われた形跡さえ、徹底的に消されている。
奪うべきものだけを奪い、痕跡だけを嘲笑うように残して、伯爵は姿を消していた。
――その報告がもたらされたのは、晩餐の最中だった。
魔帝ヴェラルク=ザハ・ヴェルグは、表情を変えず、淡々と続きを促した。
料理の温度が下がることのほうが不快だと言わんばかりに。
報告は整然としていた。
不備も、感情も、無駄もない。
そして最後に、その言葉が落とされる。
「……以上です。セレス殿の所在は、確認できておりません」
次の瞬間、銀のスプーンが音を立てて床に落ちた。
――カラン、と。
硬質な響きが広間を切り裂き、談笑と気配が一斉に凍りつく。
誰もが息を詰め、音の主を見た。
魔帝は、黙って自分の手を見下ろしていた。
指先が、わずかに震えている。
「……いない?」
呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかった。 だがその刹那、卓上のワインが波立ち、グラスに一筋の亀裂が走る。
奪われた。
その事実が胸に沈んだ瞬間、魔帝の視界から色彩が消えた。帝国の未来、裏切り者の処罰、そんな理屈は一瞬で灰になり、ただ「隣にいない」という耐え難い空白が、魔核を容赦なく締め上げる。
足元から黒い霜が這い、美しい絨毯を凍らせていく。溢れ出した魔力が、広間に集う者たちの呼吸を止めた。
「……あ」
魔帝の口から、かすかな音が零れる。
笑いとも、呼気ともつかない歪んだ響き。
床石は悲鳴を上げ、広間を黒い結晶が侵食していく。
花々が一瞬で黒く枯れ落ち、根の無いものは腐っていく。
「……モルヴァン伯爵」
名を呼ぶ声に、熱はない。ただ、世界の終わりを宣告するような、絶対的な零度。
魔帝はゆっくりと立ち上がった。その背後で揺らめく影は、人の形を保っていない。
「ロカ」
「はっ」
側近が膝を突く。魔圧を受けて、毛が逆立つ。
追え。
捕らえろ。
殺せ。
魔帝は、自分の胸の内に渦巻く正体不明の衝動を、ただ一点に収束させる。
「……準備を」
何の準備かを、問う者はいなかった。
そして告げられた。
「――セレスがいない世界は、必要ない」
命令の全容を問う者はいない。
ただ確かなのは――魔帝がその一歩を踏み出したとき、世界は軋む。




