献身
セレスは覚悟を決めると、闇の加護を帯びた魔術を、イリヤにかける。
「蝕命還元《ネクロ=リバース》」
黒い光が、イリヤの全身を包み込んだ。
その血潮の奥で、魔族としての血がざわめき、流し込まれた伯爵の毒血を押し返すように皮膚が脈動する。そして、不浄なものを排斥するように黒い紋様が肌の上に浮かび上がっては、薄煙となって霧散していった。
圧し潰されそうな障壁の中で、イリヤが小さく、けれど確かな呼吸を整え始める。だが、毒に蝕まれ根こそぎ削られた体力までは、すぐには戻りそうにない。
セレスがさらなる魔力を練り上げようとした――その時だった。
「……貴様は。さっさと、逃げることすら……できないのですか。……魔術師、の、くせに」
途切れ途切れに、イリヤの唇が皮肉めいた言葉を紡いだ。
セレスは驚いて、目を見開いた。
その言葉は、イリヤがセレスを誰よりも深く観察している証拠に思えた。
もしここで『自分を置いて』などと殊勝なことを言えば、高慢なセレスは意地でも踏みとどまる。それが分かっていて、あえて選択した言葉のようだった。
イリヤの吸血鬼化は防いだ。あとは、二人で逃げ延びる状況を作るだけだ。
――だが、どうやって?
障壁の外側では、伯爵とその眷属たちが狂ったように「理の檻」をこじ開けようとしている。防壁は悲鳴を上げ、無数の亀裂が走る。もはや限界だ。
セレスの魔力は尽きかけていた。
ならば、自分が囮になり、魔族の娘を庇って死ぬか。
セレスの口元に、自嘲の笑みが浮かぶ。
赤の他人の命など、知ったことではない。独り逃げて生き延びるほうが、簡単だ。
セレスは霞む視界の端で、イリヤがのっそりと立ち上がるのを見た。
「イリヤ」
名を呼ばれ、イリヤが顔を上げる。
「行きなさい」
「でも、セレス様……!」
「命令よ」
即座に、冷酷に。
「伝えなさい。ここで何が起きたか」
イリヤは唇を噛みしめる。
「……生きて、また会えますか」
一瞬。セレスの視線が、ほんの僅かに逸れた。
答えは、与えない。
「走りなさい」
――その時だった。
めりめり……ぱきん。
障壁が、無慈悲に、そしてあまりに呆気なく爆ぜた。
「イリヤ――!!」
振り返るな、と目で射抜く。
二人で助かる道など、この部屋にはどこにも残されていないのだ。
蒼白な顔で、今にも泣き出しそうなイリヤが、客間の窓を割って外へと身を投げた。
セレスは、魔力が尽きた体で、錬金術師が遺した情報結晶を伯爵の足元に向かって投げた。
結晶は砕け散り、腐敗臭のする泥が、伯爵の服を汚した。
それを見て、セレスは糸が切れたように床へと両手をつく。
これから自分は、この男になにをされるのだろう。
意識はそこで、ぷつりと途絶えた。




