吸血鬼
セレスは少々――いや、かなり、煽りすぎたのだ。
伯爵の表情からは笑みが失せ、客間を満たしていた饒舌な熱も、嘘のように消え失せていた。
「お前――自分が殴り殺されるとは、微塵も考えていないようにみえるな」
低く、地を這うような声。
それは言葉というより、喉の奥から漏れた獣の唸りに近かった。
その圧に呼応するように、ピキリと窓ガラスに亀裂が走る。それが何かの合図だったか――傍らに控えていた執事が、預かっていたセレスの杖を手に取った。
――ボキィッ!
鈍く、乾いた破砕音。
それは本来、魔力を通すための硬質な霊木で作られた、並の剛剣よりも強固な逸品だ。卒業記念にオーダーメイドで誂えた、世界に一本しかない相棒。
良い思い出など一つもないが、手放せなかった大切なトラウマだ。
それを、木切れのように折ってみせたのは、伯爵の血を引く吸血鬼の、人知を超えた怪力ゆえか。
床に転がる残骸を見下ろし、セレスは小さく肩を落とした。
「あり得ない……」
そう呟いてから、セレスは両手を前に差し出し、詠唱の姿勢をとった。
だが、その瞬間――
伯爵の視線が、セレスではなく、彼女の背後へと滑った。
油断していたわけではない。
それでも、次に起きたことは想定の外だった。
――伯爵が、消えた。
そう思った刹那、鼓膜を叩くような風圧がセレスの頬を打つ。視神経を置き去りにする、吸血鬼の本源的な加速。
伯爵は一瞬でイリヤの背後へ回り込み、その細い首を無慈悲に掴み取った。抵抗も、悲鳴を上げる暇すら与えない、一方的な略奪。
セレスが遅れて視線を向けると、まるで、最初からそこにいたかのように佇んでいた。
――その腕の中に、イリヤを抱えて。
「な……っ」
セレスが息を呑む、その目の前で。
伯爵は愉悦に顔を歪めると、見せつけるようにイリヤの顎を持ち上げた。
白く長い牙が閃き、そのまま、細い首筋へと深く突き立てられる。
イリヤの身体が大きく跳ね、痙攣する。
くぐもった呻き声が室内を走り、やがてその瞳が、毒に侵されるように、どろりと赤黒く濁っていった。
「抵抗しているのか……」
伯爵は愉しげに呟く。
「無駄なあがきだ。たとえ魔族であっても、僕の血には逆らえない。素直に僕の眷属になるがいい」
あの一瞬、伯爵がその気になれば、セレスもイリヤも容易く殺せただろうに。
だが彼は、蹂躙することよりも、弄ぶことを選んだ。
一人なら、今すぐにでもここを脱出できる――。
セレスはそう理解していた。
だが、伯爵はあえてイリヤを人質に取った。まるで、セレスの足が止まることを見越していたかのように。
「……何のつもりかしら」
セレスの問いに、伯爵は喉を鳴らして笑った。
「確信しているのさ。お前はメイドを置いて逃げない」
赤い瞳が、歪な優越感に細められる。
「――先ほど、立派な理想を語ってくれただろう? 弱き者を救おうとする陛下の意志に、お前も深く傾倒しているようだ。そんなお前が、献身的な飼い犬を見捨てるはずがない」
伯爵の赤い瞳が、歪な優越感に細められる。
たかが、支給されただけのメイドだ。代わりなどいくらでもいる。
だが――イリヤは黙って従うだけではない。自ら考え、行動する。
伯爵に懐柔されたように見せかけた時の、イリヤの殺気――あれは本当に可愛かった。即座に粛清を選ばず、耐えている姿に、セレスは愛おしさも感じていた。
セレスにとって、イリヤはすでに、「便利な道具」ではなく、「お気に入り」になっていた。
それが、この不潔な吸血鬼に汚され、利用されることが、何よりも許せない。
セレスは、唸り続けるイリヤを魔力の腕で強引に引き寄せ、自らの足元へ庇った。同時に転移の術式を脳内に展開する――だが、即座に断念する。
発動までの僅かな隙。その瞬間を、この狡猾な吸血鬼が逃すはずもない。
セレスは両腕を広げ、障壁を展開した。青白い魔力の結晶が、世界を断絶するように二人を包み込む。
その閉ざされた内側で、セレスはもがき苦しむイリヤの胸に手をかざした。伯爵の毒血がイリヤの魔核へと這い回り、その魂を泥色に塗り潰そうとしている。
活性魔法を――いや、それでは伯爵の毒まで活性化させてしまう。魔族である彼女の生理機能を損なわず、かつ侵食を止める別のやり方を。
だが、冷徹な思考を嘲笑うかのように、静寂は破られた。
――めり、めりめり……。
強固なはずの防壁が、不穏な音を立てて内側へひび割れ始めた。
赤黒く濁った伯爵の殺気が、物理的な重圧となって魔力の殻を食い破る。その隙間から汚らわしい魔力が染み込んでくる。
(……このままでは、二人とも持たない)
セレスは忌々しげに奥歯を噛んだ。
理の檻が完全に砕け散るまで、あと数秒だろうか。
もし、魔力が尽きたら。
目の前の相手は吸血鬼だ。
何が起こるか、予想はつく。




