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爛れた心に口づけを。狂愛の魔帝と、殺せぬ魔女の物語。R15  作者: 島田まかろん三世


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吸血鬼

 セレスは少々――いや、かなり、煽りすぎたのだ。

 伯爵の表情からは笑みが失せ、客間を満たしていた饒舌な熱も、嘘のように消え失せていた。


「お前――自分が殴り殺されるとは、微塵も考えていないようにみえるな」


 低く、地を這うような声。

 それは言葉というより、喉の奥から漏れた獣の唸りに近かった。

 

 その圧に呼応するように、ピキリと窓ガラスに亀裂が走る。それが何かの合図だったか――傍らに控えていた執事が、預かっていたセレスの杖を手に取った。


 ――ボキィッ!


 鈍く、乾いた破砕音。


 それは本来、魔力を通すための硬質な霊木で作られた、並の剛剣よりも強固な逸品だ。卒業記念にオーダーメイドで誂えた、世界に一本しかない相棒。

 良い思い出など一つもないが、手放せなかった大切なトラウマだ。


 それを、木切れのように折ってみせたのは、伯爵の血を引く吸血鬼ノスフェラトゥの、人知を超えた怪力ゆえか。


床に転がる残骸を見下ろし、セレスは小さく肩を落とした。


「あり得ない……」


 そう呟いてから、セレスは両手を前に差し出し、詠唱の姿勢をとった。

 

 だが、その瞬間――


 伯爵の視線が、セレスではなく、彼女の背後へと滑った。


 油断していたわけではない。

 それでも、次に起きたことは想定の外だった。


 ――伯爵が、消えた。


 そう思った刹那、鼓膜を叩くような風圧がセレスの頬を打つ。視神経を置き去りにする、吸血鬼ノスフェラトゥの本源的な加速。


 伯爵は一瞬でイリヤの背後へ回り込み、その細い首を無慈悲に掴み取った。抵抗も、悲鳴を上げる暇すら与えない、一方的な略奪。


 セレスが遅れて視線を向けると、まるで、最初からそこにいたかのように佇んでいた。  


 ――その腕の中に、イリヤを抱えて。


「な……っ」


 セレスが息を呑む、その目の前で。

 伯爵は愉悦に顔を歪めると、見せつけるようにイリヤの顎を持ち上げた。


 白く長い牙が閃き、そのまま、細い首筋へと深く突き立てられる。

 

 イリヤの身体が大きく跳ね、痙攣する。

 くぐもった呻き声が室内を走り、やがてその瞳が、毒に侵されるように、どろりと赤黒く濁っていった。


「抵抗しているのか……」


 伯爵は愉しげに呟く。

 

「無駄なあがきだ。たとえ魔族であっても、僕の血には逆らえない。素直に僕の眷属になるがいい」


 あの一瞬、伯爵がその気になれば、セレスもイリヤも容易く殺せただろうに。

 だが彼は、蹂躙することよりも、弄ぶことを選んだ。 


 一人なら、今すぐにでもここを脱出できる――。

 セレスはそう理解していた。

 

 だが、伯爵はあえてイリヤを人質に取った。まるで、セレスの足が止まることを見越していたかのように。


「……何のつもりかしら」


 セレスの問いに、伯爵は喉を鳴らして笑った。


「確信しているのさ。お前はメイドを置いて逃げない」


 赤い瞳が、歪な優越感に細められる。


「――先ほど、立派な理想を語ってくれただろう?  ()()()を救おうとする()()の意志に、お前も深く傾倒しているようだ。そんなお前が、献身的な飼い犬を見捨てるはずがない」


 伯爵の赤い瞳が、歪な優越感に細められる。


 たかが、支給されただけのメイドだ。代わりなどいくらでもいる。

 だが――イリヤは黙って従うだけではない。自ら考え、行動する。


 伯爵に懐柔されたように見せかけた時の、イリヤの殺気――あれは本当に可愛かった。即座に粛清を選ばず、耐えている姿に、セレスは愛おしさも感じていた。


 セレスにとって、イリヤはすでに、「便利な道具」ではなく、「お気に入り」になっていた。


 それが、この不潔な吸血鬼ノスフェラトゥに汚され、利用されることが、何よりも許せない。


 セレスは、唸り続けるイリヤを魔力の腕で強引に引き寄せ、自らの足元へ庇った。同時に転移の術式を脳内に展開する――だが、即座に断念する。


 発動までの僅かな隙。その瞬間を、この狡猾な吸血鬼ノスフェラトゥが逃すはずもない。


 セレスは両腕を広げ、障壁を展開した。青白い魔力の結晶が、世界を断絶するように二人を包み込む。


 その閉ざされた内側で、セレスはもがき苦しむイリヤの胸に手をかざした。伯爵の毒血がイリヤの魔核へと這い回り、その魂を泥色に塗り潰そうとしている。


 活性魔法を――いや、それでは伯爵の毒まで活性化させてしまう。魔族である彼女の生理機能を損なわず、かつ侵食を止める別のやり方を。


 だが、冷徹な思考を嘲笑うかのように、静寂は破られた。


 ――めり、めりめり……。


 強固なはずの防壁が、不穏な音を立てて内側へひび割れ始めた。

 赤黒く濁った伯爵の殺気が、物理的な重圧となって魔力の殻を食い破る。その隙間から汚らわしい魔力が染み込んでくる。


(……このままでは、二人とも持たない)


 セレスは忌々しげに奥歯を噛んだ。

 理の檻が完全に砕け散るまで、あと数秒だろうか。


 もし、魔力が尽きたら。


 目の前の相手は吸血鬼ノスフェラトゥだ。

 何が起こるか、予想はつく。

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