この世の摂理
セレスとイリヤを乗せた馬車は、雪を蹴立ててモルヴァン伯爵邸へと急ぐ。ザナハの塔の巨大な影が視界に入る頃には、街はすでに、底の見えない夜に飲み込まれていた。
二度目の訪問は、驚くほど呆気なく受け入れられた。愛用の杖を吸血鬼の執事に預けさせられはしたが、客間で一息つく間もなく、主が姿を現した。
「ああ、セレス嬢。こんなに早くまた会いに来てくれるとは――嬉しい限りだ」
モルヴァン伯爵は、心底悦に入った様子で両手を広げた。
「今夜は、随分と覚悟があるようだ」
「覚悟?」
セレスは微かに首を傾げる。
「――ええ。事実を確かめに来ました」
伯爵の口元が歪む。
「孤児院の件か」
「それ以外に、ここを訪問する理由が、ありましたか?」
静寂。伯爵は一瞬固まった。
「まあいい。僕の美しい夜空――さあ、二人きりで語り合おう。きみのために、最高のお茶と、世界一のケーキを用意させよう」
「いいえ。お気遣いなく」
セレスは短く切り返し、視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「――それより、聞きたいことがあるのです」
「なんだって答えよう。美しいきみになら」
伯爵の甘い言葉を、セレスは無表情で受け流す。
「それでは――私に、決して嘘など吐かないと、誓ってくださいますか?」
伯爵の口元が、勝ち誇ったように緩んだ。セレスが自分に誠実さを求めている。それは彼にとって、求婚への前向きな歩み寄りに見えたのだろうか。
「なにを知りたいんだい? そんなふうに見詰められると、ドキドキしてしまうよ。
僕の伴侶となるきみに、隠し事などあってはならない。……古き血にかけて誓おう、僕はきみに、真実のみを語ると」
セレスは姿勢を正し、淡い吐息を落とした。その眼差しは、一切の情を削ぎ落とし、ただ真実のみを射抜く氷の刃と化している。
「――では、お聞きします」
静寂が、重く客間を支配した。
「孤児院の子供を人族の奴隷商へ売り渡し、その対価として、人間族の処女を買っている――というのは、事実でしょうか?」
伯爵の表情が凍りついた。
吸血鬼とは思えないほどの、透き通るような青い瞳が見開かれる。そこから卑俗な驚愕が漏れ出す。
だが、それも一瞬のこと。彼は剥がれ落ちそうになった貴族の仮面を強引に引き戻し、口元に、歪な笑みを貼りつけた。
「――ああ、セレス。もしかしてきみは、あの男を見つけたのか。若いきみのことだ。人生経験も足りないだろう。その純粋さゆえに、あの男の作り話に、まんまと騙されたのかな?」
「さあ、どうでしょう」
セレスは微動だにせず、薄く笑みを返した。
「それよりも、正直に答えていただけるのですよね? ラファエル・モルヴァン伯爵閣下。古き血にかけて嘘は吐かないと、さっき、仰ったばかりですもの」
伯爵は長く、重苦しい溜息を吐いて肩を落とした。それは自らの過ちを悔いる者ではなく、まるで「話の通じない子供」を諭そうとするかのような仕草だった。
「……実に残念だ。今夜はもっと、濃厚で甘美な夜になると思っていたのだがね」
伯爵は、自嘲気味に言葉を続ける。
「そうだね……。そうだ。処女の血は格別だ。あれよりも美味なものは、この世に存在しない。吸血鬼がそれを求めるのは本能だ。――当然の行為だ」
「ですが」
セレスは次の言葉を、氷の礫のように、投げた。
「ヴェラルク=ザハ・ヴェルグ魔帝陛下は、それを禁じています」
「そうだ――!」
唐突に、伯爵は声を荒げた。
「おかしいとは思わないか――! 人を喰らってこそ魔族。血を吸い、魂を啜るからこそ、我らは誇り高き上位種でいられるのだ。あの出来損ないの魔帝に、我らの乾きが分かってたまるか……!」
不思議そうに、セレスは首を傾げた。
「ですが、処女のために、魔族の子を、生贄に?」
「それも仕方がない。弱きものは奪われる。それがこの世界の摂理だ」
伯爵の瞳が、赤く染まり始める。
セレスは深く頷いた。
「……確かに。魔族ですもの。人族の正義になど則る必要はありません。それでこそ魔族。弱肉強食も、この世の秩序のひとつです」
「そうだろう――!!」
伯爵は、ついに理解者が現れたとばかりに、歓喜の声を上げる。
だが、セレスはその瞳を冷ややかに細めた。
「ですが――忘れてはいけません」
その声には、冷たい刃が宿っている。
「この地は、ヴェラルク=ザハ・ヴェルグ魔帝陛下の御旗のもとにある、ネクレイア魔帝国の領地です」
嘲るように、セレスはニヤリと唇を歪めた。
「魔帝国に属するものは、すべて、陛下の所有物です。血の一滴、剥がれ落ちた皮膚さえも――」
セレスは容赦なく言葉を畳みかける。
「そして陛下は、そういった魔族への理不尽を、この世から根絶するために、ご自分の生涯をかけておられます」
「だからなんだというのだ――!?」
伯爵の咆哮が、石壁を震わせる。
「世界は理不尽でできている! その中で、僕は勝者だ! 欲望のままに、僕がしたいことをして何が悪い!?
弱き者は刈られる。それが宿命だ! 弱者は弱者だ! そんな矮小なものに生まれ落ちた、自分の愚かさを憎めば、済む話だろう!!」
その言葉に、セレスは心底退屈そうに溜息を吐いて頷いた。
選択しなかったものの末路を、つい最近見たばかりだ。
「そうですね。伯爵の言う通りです。ですが……」
それから、わざと嫌悪感をありありと表情に滲ませ、呆れたように首を振った。
「吸血鬼ともあろうお方が、こんな、こそこそと陳腐な真似をしてまで、処女の血を得ようだなんて」
セレスは鼻で笑った。
その冷ややかな音は、狂気に走る伯爵の耳に、どんな罵倒よりも鋭く突き刺さったことだろう。
「とても、気持ちが悪いわ」
その瞬間、客間から一切の音が消えた。伯爵の内で、何かが音を立てて千切れたのだろうか。剥き出しの殺意が濁流となって溢れ出し、血の色に染まった瞳が、爛々と狂気的な光を放ってセレスを射抜いた。
「後悔するがいい」
それはもはや貴族の怒りではない。
獲物を八つ裂きにすることしか頭にない、飢えた獣の眼差しだった。




